2022年9月4日

説教題「信仰の覚悟」

聖書箇所 ルカ14:25~33

ルカ

14:25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。

14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

14:28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。

14:29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、

14:30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。

14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。

14:32 もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。

14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

おはようございます。

本日は谷内山姉の洗礼式が行われますこと本当に感謝な事です。

谷内山姉とのつながりは不思議な導きでした。

フェイスブックに突然メールが来まして、弟さんの納骨式をお願いしたいという話でした。伺いましたところ弟さんも谷内山さんも関東にお住みでしたが・・・もともとは堺市出身 弟さんは鳳高校。谷内山さんが信仰を持って個人伝道もされたという事でした。

そんな事で導きを感じて納骨式をさせていただきました。

その後は全聖徒主日礼拝には弟さん(竹林哲さとし)の名前を挙げて偲ばせていただいています。そんな事で谷内山さんも時々、堺育麦キリスト教会にお実家のある堺に来られる時は礼拝出席をされ。堺育麦キリスト教会の準会員みたいに思っていました。ライングループにも参加してもらっていました。

それが、さらに進んで、谷内山さんが堺に帰って来られ、堺育麦キリスト教会の正式な会員になられることになりました。

さて、今日の聖書日課からの説教です。

今日の箇所は非常に説教準備に苦しんだ箇所です。

なんせみことばが強烈です。

14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

えっ!!!どういうことですか?自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹を憎め・・・自分にとって一番愛する人たちではないですか!!!

それを憎む。

さらに自分の命までも憎むってどういうことですか?

14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

自分の十字架を負ってイエス様について行く・・・十字架を負う…無茶苦茶しんどい、つらい事ではないですか。

そして結論は

14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

自分の財産全部を捨てなさい。・・・・・・

なんと厳しいイエス様の言葉でしょうか。

読み方を誤ると、まるで旧統一教会やカルト宗教のようです。

そこの中で、このみ言葉だけが独り歩きして・・・悪く利用されている言葉です。

ここから私は説教をしなければならない・・・イエス様・・助けて下さい。ここからどのように聖書を説き明かしたらいいのですかと悩みました。

ある意味私も、このみ言葉を守るために、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹を憎み(詳訳聖書の訳では、憎むとは神に対する態度に比べれるならば、彼らに対しては無関心であり、比較的冷淡にふるまうという意味において憎み)自分の十字架を耐え忍んで(負って)イエス様について行ったと思っていました。

そして自分の財産全部を捨てて、イエス様について行ったと自負していました。

でも今考える時、そこに福音はなかった。本当の意味での喜び、平安はなかったようにも思うのです。

でもこのみ言葉は聖書の言葉です。どうとらえていけばいいのでしょうか?

しかも

14:28 塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。

14:29 基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、

14:30 『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。

この言葉は、私がすべてを捨てて、献身してイエス様に従おうとして・・・やがて神学校の途中で本当に貧しくなって(家内の病院に行くお金も出さなくなって・・・・子供たちの事もあり・・・)神学校を辞めて一家の父親として働き始めた時・・・牧師はそんな悪気はなかったかもしれませんが。あなたは神学校への卒業のための蓄えもなしで、無計画で行ったから卒業もできなかったのよと言われた時はショックでした。

全てを捨てて何にもなしで神様に信仰を持って従ったつもりだったのに・・・・

このみことばは私にこたえました。み言葉で打ち砕かれた体験でした。だからこの箇所は説教しにくいのです。

でも今日の聖書日課です。今回はこの箇所に私なりに研究し取り組みました。

そこでこの言葉が語られた背景を見てみます。これは誰に、どんな状況で語られたか?

14:25 さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。

語られた相手は大勢の群衆です。イエス様の周りに群がっていた群衆です。

イエス様の人気にあやかり、イエス様と一緒に行けばきっといいことがある!まあご利益宗教に近い気持ちで、大勢でついてきている群衆に向かっての言葉です。

簡単に言えば、あなたたちは私についてきているけれど信仰というものは厳しい事もあるんですよ。その覚悟がありますか?その覚悟を持って私の弟子となって下さい。と言われているです。

14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

ここでのポイントは「私の弟子になることはできません」と言われている事です。私の弟子。イエス様の弟子になることは簡単ではないですよ。覚悟が要りますよ。という事です。

そう考えると先ほどの

14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

も最後の言葉は、・・・・者は私の弟子になることはできません。という言葉です。

私の弟子になることは群衆ではダメです。覚悟が要りますとの言葉です。

イエス様の弟子となるためには、この少し前のルカ福音書では

ルカ

13:24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

これはマタイ福音書では

マタ

7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いから

です。そして、そこから入って行く者が多いのです。

イエス様と共に歩いていた大勢の群衆では弟子になれないのです。救いを得られないのです。イエス様を信じ、救いを得るには覚悟がいるのです。

こんなたとえが語られます。今日の日課のすぐ前です。

ルカ

14:15 イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言った。

14:16 するとイエスはこう言われた。「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。

14:17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから』と言わせた。

14:18 ところが、みな同じように断り始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断りさせていただきます。』

14:19 もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断りさせていただきます。』

14:20 また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません。』

これらの人たちはイエス様からの福音を拒んだのです。

自分の事が優先してイエス様の誘いを断ったのです。

それではいけないと。

あなたの人生で最も大切な事として福音としっかり向き合わなくてはいけないよ。と言う信仰の覚悟を求められているのです。

その文脈で今日のイエス様の言葉はあるのです。

次元は違いますが・・・あなたが何かの習い事をして上手になりたいと思ったら・・・

自分のやりたい事、友達との遊びも、ゲームも、テレビも・・・いろんなものを犠牲にしなくてはできない事があります。

あれもやりたい、これもやりたい・・・・それは悪い事でないかもしれませんが。大切な事をつかむには・・・まさに青春を犠牲にしても打ち込む事も必要なのです。中途半端はダメなのです。

そんな事をイエス様は言われているのです。その覚悟を問われているのです。

考えれば、今日礼拝に参加されている皆様は、大勢の群衆ではありません。確かにイエス様からの招きにこたえて、狭い門から入り、やって来ているのです。素晴らしいイエス様の弟子たちなのです。

宴会を断った人たちとも違います。今日、イエス様を礼拝することを大切な事として集っておられるのです。

でも今日のみことばは強烈です。

私は、イエス様を自分の大切な家族以上に従っているのか?家族を憎み、自分のいのちさえ憎むほどにイエス様に従っているのか?と言われたら・・・どうでしょう?

群衆とは違う信仰者としての覚悟を問われれば、群衆とは違います。

イエス様を信じ、洗礼も受け信仰の覚悟は持ちました。そしてイエス様の十字架により救われた恵みの中に喜んでいます。

しかし、イエス様の本当の弟子と呼ばれるのにふさわしいものかと言えば・・・・今日のみ言葉に照らし合わせて全くふさわしくないと思います。

14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

これは

① マタ

6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

に通じます。神様を第一に生きているかと問われると、いろんなことが私たちの心を占領していることが多いものです。

自分の命まで憎むほどになってはいないものです。

でも信仰の覚悟はあるんです。イエス様に従いたいと言う覚悟はあるんです。ここにいる皆様もきっとそうではないでしょうか。

でも自分のいのちが脅かされそうなとき、イエス様に最後まで従っていきますと信仰の覚悟を示したペテロ(いわば弟子の中の弟子みたいなペテロでさえ)

② ルカ

22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょ

う鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

自分のいのちさえ憎んでイエス様に従うと言ったペテロでもですよ

いざその身に危険が及ぶ時・・・私を三度も知らないというよと預言されたのです。これは私たちも同じです。自分の命まで憎んでイエス様の弟子になることは私たちの覚悟だけではできないのです。

しかし、感謝な事があります。私たちの信仰の覚悟は足りないものであっても・・・・イエス様がペテロのために祈っていてくれたように、私たちにも祈ってくれているのです。

③ 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

信仰の覚悟を示したものに最終的にはイエス様がフォローをしてくれるのです。なんと感謝な事でしょうか?

塔の建設の話もそうです。常識的に考えれば無謀と思われることもあります。しかし、人生は常識だけですべてが片付くのではないと考えます。

信仰の覚悟によって皆さんはイエス様を信じ、信仰生活を始めたのです。それは悲壮感漂うものではありません。それを良しとしてくださったイエス様は、あなたの信仰がなくならないように祈って下さっているのです。

到底難しいと思われることも、イエス様の助けによって道が開かれる時があるのです。たとえ開かれなくてもイエス様がずっと祈って下さっているのです。それは信仰です。

④ ヘブル

11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

11:2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

その時、必要な事は確かに自分の全存在をかけてイエス様に頼ることです。それは大切な事です。それが実際にはできないような事でも・・・

奇跡が起こるのです。

人生には自分の全存在をかけて無理と思えることにもチャレンジすることがあるでしょう。

クリスチャンではありませんが、織田信長の天下統一の初めは桶狭間の戦でした。常識的に考えて勝ち目のない戦に、わずかの兵で信長は、まさに自分のすべてをかけて命懸けで出ていったのです。

14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

そして道が開けました。

イエス様の弟子となる事。それは私達クリスチャンの願う事です。そしてそれは到底私たちに達成できるような事ではありません。

でも大丈夫なんです。そんな事をわかっていながら

私たちの弱さをわかっていながら・・・・イエス様は私たちのために祈って下さっているのです。

それはイエス様の十字架の愛で見守って下さっているのです。

ただ、最初の信仰の覚悟は私たちに委ねられ・・求められているのです。

13:24 「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

ただイエス様の周りについていって、何かいいものだけをいただこうとする群衆では救いはないのです。

しかし、あなた方は(ここにおられる皆様は)信仰の覚悟を持って、洗礼を受けイエス様に信頼して歩んでおられます。

その後は、少しづつイエス様があなたの信仰に応じて導いてくださるのです。

14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

あなたの十字架を負って・・・イエス様に信頼して・・・歩んでいきましょう。

まとめてみれば

14:26 「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

あなたの信仰の覚悟を求められています。愛する家族より、自分よりも神様を大切に思いますかと問われています。

14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

あなたにある自分の十字架。それはなくなるのではなく負っていくことだと言われます。貧しい家庭に生まれているかもしれません。何かの障害があるかもしれません。厳しい環境の中かもしれません。しかし、それはあなたの十字架ですそれを負って従ってきなさいと信仰の覚悟が問われます。この間見た映画では、朝鮮の貴族の中で育ったお姫様の心の葛藤がありました。なんでもできて裕福でぬくぬくと育ちやがって・・・と奴隷の子から言われた言葉が彼女の苦しみでした。それも彼女なりの十字架なのです。いろんな人が自分の十字架を負ってイエス様について行く。それも覚悟です。

14:33 そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。

塔を建てる時、戦の時、あなたの人生のいろんな決断の時。あなたの全存在をかけなくてはならない時はあります。それをイエス様にお任せしていく、それも信仰の覚悟です。

そして幸いな事は、覚悟だけで人はうまくいかない事はイエス様がご存じです。あなたのためにイエス様はいつも祈り、とりなしをして下さっているのです。

⑤ マタ

28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

イエス様があなたと共にいつもいて下さるのです。

アーメン

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