2022.9.25

説教箇所 ルカ16:1~13

説教題 不正の富、この世の富、小さい事

分解 1~2 主人と管理人

3~4 管理人の考え

5~6 管理人の行動

7~10 忠実な人

11~13 神にも仕え富にも仕えることはできない

序論 ルカの15章の感動的なメッセージである羊を100匹と10枚の銀貨と二人の兄

弟のなくしたものや人が主のもとにかえってくる話の後の16章の話を今からします。実はこの箇所私自身通読とかいろいろな聖書の読み方で20回以上読んでいます。いつも引っかかるんです。この部分を読んでも全くと言っていいほど意味が分かりません。本当にこの箇所は何が言いたいんやろうと思っています。こういうわからないことをそのままにするほど神様は私に甘くないということは嫌というほどわかっています。だからこの箇所を私の説教に選んでくださったのは神様です。これは偶然でも何でもないことです。しかし、神様は私にいやというほど甘いということも私は知っています。甘いという言葉は適切ではないにしても、いやというほど恵みを与えてくださるということです。私たち父親が子供に対して毎日働いてもらった給料や時間を惜しみもなく子供たちのために使うことができるようにです。

なぜわからないかというと管理人が主人をだまして自分の保身をしていてそれを主人はほめています。そしてそのあとに小さいことに忠実な人は大きいことにも忠実である。という言葉の接点が見つかりませんでした。そして間髪入れずにしもべは仕えることはできません。という言葉で締めくくっていることが本当に私の頭では理解できなくちゃんと考えなさいという神様の恵みということがわかります。

では私自身が解き明かした内容をお話しします。

私自身説教を書く際に色々な本を参考にします。ここであればルカの福音書講解とか聖書辞典とか国語辞典とか自分なりの言葉で書くように努めています。そしてそういう本をめくってみると自分でもびっくりしたのですがルカの16章の最初の方に線を引いているではありませんか。どこかでこの箇所のことを書いていることは間違いないのですが自分自身の記憶力のなさを悔やんでしまいます。年のせいにしたいようなしたくないような自分がいることにきずきます。

今日はこの箇所のことを記憶に残すように自分なりに深く掘り下げて考えていきたいと思います。それでは聖書に入っていきましょう。

主人と管理人

イエス様は人々にたとえを使ってお話になります。当時の人というのは2000年前の

イスラエル地方に住む人にたとえの話をするとその人たちはすぐに理解できるような内容になっています。しかし、今私たちが住んでいるのはイエス様がお話しされたイスラエル地方でもなければイエス様がこの世に降りてこられてから2000年以上たっている日本です。

だから解き明かさなければいけません。ところがちょっと前に言ったのですがこの箇所に出てくるたとえ話はほかに出てくるたとえ話のようにすぐわかるというものではありません。イエス様がなんでこんな話をなさったのか、しかも不正なことをした管理人の抜け目のなさを主人がほめたという話をされたのかということが理解しがたいことです。不正をしてだます人間がいてもそれをさばかれるのならわかりますがそれをほめるのです。なんでだろうというのは私だけではないのではないかという感情にとらわれてしまいます。そこで、先先週の先生のメッセージにあったルカの15章です。先生がおっしゃったことのおさらいです。15:1、2読みます。「さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄ってきた」「すると、パリサイ人、律法学者たちはつぶやいて、こういった。とあります。3っつのたとえ話のうち2つは取税人や罪人に対して語られたたとえで、3っつ目の放蕩息子の話はパリサイ人、律法学者に語られたことです。このルカの15章は巡回伝道者に人気のある個所です。(特に放蕩息子の話)アメリカの教会で巡回伝道者を呼ぶ教会でルカの15章の説教は禁止ですという教会のことを聞いたことがあります。この3っつの話の意味は同じことなんですけどイエス様がだれに語られたのかが違うのです。

最初の2つ羊100匹と10枚の銀貨は取税人や罪人にたいして語られたことです。で放蕩息子の話はパリサイ人、律法学者にです。そして16章に入っていきます。16:1を読んでいきます。「イエスは、弟子達にもこういう話をされた。」16章では今度は弟子たちに向かってたとえ話を話されます。これは想像ですけどイエス様はまず罪人たちの方を向かれて話され次に取税人の方を向かれて話され三番目にパリサイ人、律法学者の方を向かれて話されました。そして四番目に弟子たちの方を向かれて話されました。弟子たちにとっては自分たちに話の矛先が来るなんて思ってもみないことでした。学校の授業で例えると先生が何人かに生徒に対して質問をして質問の時間が終わったときに当たらなかった生徒はほっとしたのにまた質問が始まりほっとした生徒が当たったようなものです。そしてここではほっとした生徒はイエス様の弟子達でした。

弟子たちはこのたとえの話を聞いて、びっくりしたのではないかと思います。

この不正な管理人というのは、主人の財産を管理するのがその仕事であったのに、その財産を浪費していました。そういったところは15章の放蕩息子とよく似ています。放蕩息子は自分の父親が貯めた財産をもらってそのお金を湯水のごとく浪費していました。この管理人も主人の財産を乱費していました。いずれにしても自分で稼

いでいないお金を浪費していました。聖書では乱費と書いてあります。乱費とは国語辞典で調べてみるとむやみに消費すること、もしくは無駄遣いをすることとあります。当然のごとく管理人の主人から管理人は呼び出されます。そして会計報告を出せといわれます。無駄遣いをしているのに正確な会計報告は出すこともできません。そのことが主人にはばれてしまいます。そこで管理人は考えました。16:3「管理人は心の中で言った。「主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。」途方に暮れているとあることを思いつきます。それが16:4「ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。」そしてこういう行動になります。16:5~7「そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初のものに、「私の主人に、いくら借りががありますか。」というと、6節その人は、「油100バテ」と言った。すると彼は(管理人のことです)「さああなたの証文だ。すぐに座って50と書きなさい。」といった。7節それから別の人に、「さて、あなたは、いくら借りがありますか。」というと、「小麦100コル。」といった。彼は「さあ、あなたの証文だ。80と書きなさい。」といった。

ここで私はふと不思議に思ったことがありました。管理人は最初に呼んだ人にいくら借りがありますか?と聞いています。大体お金を借りに来る人は借りている人に呼び出されない限り自分から進んでいくことはしません。ということはこの管理人が呼び出したことになります。その人がいくら借りているかは管理人が知らないわけはないからです。ましてや1バテ37リットルを100バテ借りている。3700リットルです。ドラム缶にして20本弱の大量の油です。そしてすぐに座って50と書きなさいという聖書の一文から急いで書くようにと債務者をせかしています。そして別の人も呼んでどれだけ借金をしているかわかっているのにまたその債務者に聞いています。1コル370リットルだから厳密にいえば違うのですが30キロの米の袋が1200個ぐらいになる途方もない数です。この管理人は誰がなんぼお金を借りているかすべてわかっているのです。その上になんぼ負けてやっているかを債務者に言っているのです。それもとてつもない数の油と小麦の量です。まるで私たちの罪を数値化したように神様が私たちを赦した数量のようです。

この管理者は何人もの債務者に自分の才覚を使って悪知恵とも言いますが恩義を売って債務者の借金を削ってやります。そして自分が首になったときのことを考えて後の生活のことを計画しています。というのは恩を売って自分の職を得ることができるという今の時代悪い言葉でいうと贈収賄のような汚職だけど、良い言葉というかどうかはわかりませんが謝礼という言葉で代用されます。

わたしは学校を卒業して建設業界に就職しました。そのころバブルという経済状況の後期になったのが今から30年ほど前のその時の建設業界の仕事の受注の仕方は5,6の会社が同時に入札する入札制度にして入札金額の一番低い会社がその工事

を受注するという仕組みで今も変わりませんが会社は自分たちの利益を守るために工事を受注する順番おおむね決まっていて工事を受注する順番の業者以外は高い金額を入札して工事をとらないようにしていました。だから高い入札金額で工事を受注できるという仕組みが出来上がっていました。そんな中では役所の地位の高い人に受注金額を教えてもらったり工事を落札した見返りとして謝礼を払ったりしていました。そんな時代でした。恩を売る見返りとしての謝礼です。

聖書に戻りますとイエス様はこの主人が不正な管理人のあまりに抜け目のないのを見て感心したと言われ、弟子たちにも、この世の人々の抜け目のなさから学べと言われました。この時代も贈収賄や謝礼といったことは悪いことだという認識が弟子達にもありました。16:8「この世の子らは自分たちの世のことについては、光の子らより抜け目がない者なので主人は、不正な管理人がこうも抜け目なくやったのをほめた。」とあります。だからイエス様がこの管理人のしたことをほめたイエス様の言ったことをびっくりしました。そしてイエス様は16:9で続いてこうおっしゃいます。「そこで私はあなた方に言いますが、不正の富で、自分のために友を作りなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼はあなた方を永遠の住まいに迎えるのです。」とおっしゃいました。

不正の富という言葉があります。富にただしいもただしくないもあるのかなぁという疑問があります。さもなければ、富というものはそれ自体が不正ということが考えられます。しかしながら贈収賄や謝礼といったことはみんな人間がお金を操作した結果の話でお金じたいには富というものは何も関係がありません。

そしてこの管理人が主人のお金を勝手に操作して債務者に割引したことについてお金事態にとっては良いも悪いもありません。しかし、イエス様は16:9で不正の富とおっしゃっています。不正です。

ここで聖書が教えている富とかお金というものについてちょっとだけ

考えていきたいと思います。さっきも言いましたがお金自体は善でも悪でもありません。しかし、聖書ではこんな言葉があります。第一テモテ6:10有名な箇所です。私の主観ですけどおそらく説教に出てくる箇所の中でベスト10には名を連ねるところです。ちなみにヨハネ3:16や第一テサロニケ5:16~18や先生の大好きな第一コリント10:13です。第一テモテ6:10は「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」そしてパウロ先生はその対応策として次の11節で語っておられます。「しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。」と言っています。

それではなぜ人はお金を愛したりお金を求めたりしてしまうのかといいますと今の世の中お金の種類が違えども人の心は横に置いときますと現実は貨幣経済です。このお金の有る無しが物事として評価されるわけです。お金が基準になると言います。

例えば、毎日の生活のためにも子供の教育のためでも何をするにも自分のものにしようとすればお金を払わなければいけません。例えばおいしいものを食べたいのであれば一概には言えませんが高価な食材を買わなければいけないですし子供に少しでも人より良い成績をとってもらいたいと望むなら教育費に高いお金を費やすことが要求されます。ですから人の欲望の根底にはお金という主役がどんと居座っています。だからお金は必要なのです。ところが、生まれながらの罪人である私たち人間はお金というものを生きる手段としてつかうのではなくお金を得るということを目的とするようになります。

そういう意味ではお金が大事だという考えを通り過ぎて、お金さえあれば何でもできるから、なんとしてでもお金を得るという考えになってしまいます。つまりお金や富の奴隷になってしまう可能性があるのです。それを警戒するのがパウロ先生がテモテやテトスや私たちクリスチャンたちに語ったことが第一テモテ6:11節でした。お金や富というのは、この世において何かをするためや生きていくために必要な力を持っています。だからその奴隷になりかねないのです。だからお金がすべてだという言葉が生まれてきます。

16:9「そこで私はあなた方に言いますが」弟子たちに注意して聞きなさいとおっしゃられました。「不正の富で、自分のために友を作りなさい」不正の富というのは自分がこの世で稼いだお金や富のことです。いうなればこの世の富ということで私たちが手にしているお金であり、それを使って自分の信仰の友を作りなさいということのように思えます。9節の後半「そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなた方を、永遠の住まいに迎えるのです。」ここに書いてある富というものが考えれば考えるほど神様が私たちにくださったもの恵みでお金だけではなく家族もそうだし健康もそうだし才能もそうだし、賜物もそうです。いろいろなすべてのものが当てはまります。

富がなくなったときとは私たちに神様が与えてくださったものがなくなったときというのは私たちがこの世の地上での生活ができなくなった時とはこの世での命がなくなったときと言えます。「彼らはあなた方を、永遠の住まいに迎えるのです。」私たちより先に天国に凱旋していった友が天の御国で私たちを迎え出てくれるということです。聖書では永遠という言葉が良く使われています。その大体が天の御国を表す言葉です。ここもそうです。不正の富イコールこの世の私たちの富です。神様からもらった富(突き詰めて言うとイエス様が宣べ伝えた福音を)自分以外の人々に自分が持っているものを与えるのが自分のために友を作りなさいということです。

私たちクリスチャンはそれらの富といわれているものはすべて神様から与えられています。いや、神様から預かっていて任されているものです。それを私たちは管理する責任があるのです。この世のものはたとえ素晴らしく評価されていても神様の目からすると問題にならないくらい小さいことというわけです。それに対して大きい

こと事とは「神の国のことで」直訳すると「重大なこと」と訳されています。つまり

16:10「小さい事に忠実な人は、大きいことにも忠実であり、小さいことに不忠実な人は、大きいことにも不忠実です。」

イエス様がここで弟子たちに教えられておられることは、この世において私たちが神様から任されているもの、それがお金であり、家族であり、家であり、財産であり、健康であり、才能であり、何であれそれを使って信仰の友を作りなさいということです。この不正な管理人のようにいろいろなものを使って一生懸命人々に神の国のことを話し自分が神様に導かれるところに導かれるようにしたことをほめられました。

だから16:10をこう読むことができます。「この世において神様から任されたものを忠実に管理する人は神の国のことにも忠実です。小さい事というのが神様から任されたもので大きなことというのが神の国のことです。そして、この世において神様から任されたものを不忠実に管理する人は、神の国のことにも不忠実です。」

神様から任されたものを忠実に管理するということは、それを自分のために使うのではなく、神様に対して、ほかの人に対して用いるということになります。

職場の上司、同僚、部下、友人、その他いろいろな人に対して自分が神様から任されているものを使って救いに導くこともよいことです。11節で誠の富という言葉が出てきます。天の御国への切符と思われます。自分のためだけでお金や才能や時間を使うのではなく、神の国の前進のために使うことは良いことです。

最後に、イエス様はこうおっしゃいました。6:13「しもべは、ふたりの主人に仕えることができません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽じたりするからです。あなた方は、神にも仕えまた富に仕えるということはできません。」イエス様はこのことは弟子におっしゃられたことで今の私たちクリスチャンにも言えることで神様に救っていただいた人は、神様にのみに仕えなければならないということです。

そうすることによって第一コリント10:13「あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道もそなえてくださいます。」

私たちはこの神様から任されたものを自分自身のために使おうとします。そんな時は行動が窮屈になりいきずまる時があります。しかし、いつも導いてくださる聖霊様がわからない私たちを素早く脱出の道に導いてくださいます。そしてまた自分自身神様に仕えていることが確認できます。神様が私たちに任されているものを大切にそしてほかの人にあたえていくことができるようになりたいものです。そしてあえて言うならお金も大切ですけどお金に仕えるのではなく神様に仕えていければ幸いです。

先週の恵み

このルカの16:1~13まではとてもむつかしいところで、15章の続きです。15章失

ったものがかえってくることを、羊や銀貨や兄弟のことをイエス様はたとえを用いて話

されました。なぜ3種類かといいますと話している相手が違いました。その相手は罪人、

取税人、パリサイ人律法学者でした。そして16章は弟子たちに向かってイエス様は語ら

れました。その例えは不正なことをした管理人の話でした。主人のお金を乱費して言いま

した。そのことが主人に知れてしまいます。やはり、悪いことをしたので管理人をやめな

ければいけないことで次の就職口のために債務者の借金を書き換えます。そのことを主

人はほめました。悪いことをしたのだから裁かれて当然なのにほめられたことは弟子た

ちはびっくりしました。しかし、イエス様はこの世の富を使って神様に仕えなさいとおっ

しゃられました。小さい事というのは神様から預かったもの(お金、家族、健康、才能そ

の他いろいろ)を忠実に管理する人のことを言い大きなことというのは神の国のことを

おっしゃっています。私たちは神様が預けてくださったものを自分自身で得たと思いそ

れを自分自身で使おうとします。そのため私たちはお金がすべてとおもってしまいまし

す。しかしイエス様は13節で「あなた方は神にも仕えまた富にも仕えることはできませ

ん」とおっしゃられました。

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