2022年9月18日 説教

9月25日の聖書日課からです。

説教題「死んだらどうなるか?」

聖書箇所ルカ16:19~31

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、

16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。

16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を

傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

おはようございます。

誰もが知りたくても、誰も知らないのが死後の世界ではないでしょうか?

死んで生き返った人の話はあまり聞いたことがありません。たまに死の一歩手前で、三途の川を渡る前に、誰かの呼びかけの声が聞こえて帰ってきたとか・・・・

お花畑があったとか・・・・・

子供の頃にお寺で地獄の絵を見たことがあります。

はっきり思い出せませんが・・・・赤鬼、青鬼がいて、針の山とか火の池とか恐ろしいところがあって。閻魔大王がいて、うそをついたものは舌を抜かれるとか・・・それは、それは子供心に恐ろしい絵でした。

確か、年に一回、その絵が開帳されるという事でした。

こわかったのを覚えています。

嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれるよ!!!とか

あなたの生前の(生きている時)の行いは全部閻魔さんが知っているよ。

だからこわかったら、正しく生きなさい。というような教えだったかと思います。

最近、聖書ばっかり読んでいても、世間に疎くなる・・・私の頭がキリスト教で固まっているので。

日本人に伝道するのにこれでは少し片手落ちかと思って、日本で一番多い仏教の話を調べてみよう・・・と浄土真宗のYouTubeを見ています。

仏教の真髄とは何か?という事についてまだまだ深くはわかりませんが勉強になります。日本人は仏教的背景の中に生きてきているので、それが身にしみこんでいることが多いのです。

仏教の考え方と聖書の教えとが大きく違う所も多いです。

聖書は、私たちは一人一人神様によって計画され、導かれています。それは世の始まりから世の終わりまで、私と言うものは一人であり。

私の魂は永遠に生きるのです。だから永遠のいのちは素晴らしい感謝な事です。

ところが仏教では、永遠のいのちと言う事はそんなに嬉しい事ではない。死んだら六つの世界に生きることになる。生前の行いに応じて、因果応報と言いますが、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天

道に生きます。この六つを輪廻転生すると言われます。

永遠に生きるという事は悩み多い六つの世界をぐるぐると回り続ける。だから永遠のいのちなんて欲しくないと考えます。

お釈迦様のように悟りを開いた人が解脱して、輪廻転生から離れて極楽浄土に行けるのだそうです。

滅多な人は行けません。普通の人は地獄へ行ったり、畜生(動物)になったり、人間になったり・・・時には天にいったり・・・それでも悩み多く・・・輪廻を繰り返すという教えです。

聖書の教えとは全く違います。永遠のいのちは仏教では嬉しい事ではなく。苦しみの連鎖 輪廻転生から抜け出せない事。だから私たちが素晴らしいという、救い、永遠のいのちとは感覚が違うようです。

また実際、死後の世界はあるのか?ないのか?

どうなっているのか?という事については

有耶無耶(うやむや)と言うのがお釈迦様の教えだそうです。

有耶無耶というのは、あるのか・・・ないのか・・・よくわからないという仏教用語だそうです。

私はまだ専門家ではないので・・・今のところこんな理解をしています。

YouTubeの 菊谷さん(チャンネル登録21.5万人)の話を少しづつ聞いています。

人っていうのは必ず死ぬのに・・・死後の世界の事はあんまり考えないんです。

考えているのは生きている間の事です。どんな美味しいものを食べようか

どんな風にしてお金を儲けようか。健康に生きるにはどうしたらいいか。

いい人間関係を築くにはどうしたらいいか???

生きている時の事です。

あんまり死んだのちの事は考えません。

不思議と言えば不思議です。必ず行くところなのに真剣には考えていない。まさに有耶無耶です。

自分を振り返れば、牧師の私でも、考えていることはおおむね生きている時の事です。死んだのちの事、自分の魂がどうなっているか?それはあまり考えません。

でもみんな心の奥深い所では・・・死んだらどうなるのかな???と言う不安、暗闇のようなものを持っています。

私は、聖書を読んで、特にこの箇所(今日の聖書日課)を読んで・・明確に書かれている死後の世界の片りんを知ることができて感謝しています。

そして、安心しています。

安心して暮らすことは今、生きている事にも大きな平安と恵みがあるのです。

さて死後の世界は確かに私たちにはわかりません。しかし、イエス様は今日の聖書箇所で非常にわかりやすく、目に見えるように死後の世界を語ってくれています。紙芝居でもできるような、わかりやすい・・・

明快な箇所です。

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

ある金持ちがいました。紫の衣や細布と言うのはとても庶民には着られない豪華な衣装です。まあ贅沢な服と言うのを強調しています。いい服を着て・・・・毎日、ぜいたくに遊び暮らしていた・・・。この言葉でこの金持ちの日々を思い浮かべることができます。贅沢三昧の生活です。

16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、

16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

この金持ちの家の門前で、門の前で全身おできの貧しい人が寝ていた。名前をラザロと言います。

想像してみて下さい。門の前で寝ている。ホームレスの人みたいです。金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたい・・・・昔、花の万博で鶴見緑地に木を植えに行く仕事をしている時、ホームレスの人に良く会いました。ホテルのごみ箱をあさっている。と言ってもホテルの宴会の食事なんかは豪華なものです。あさっている人が結構太っていて、お酒なんかもあって・・・いい食事をしているなあと感心したことがありま

す。

この金持ちは門の前で寝ているラザロを知っていたはずです。後でラザロと読んでいるのを見ても明らかです。

知っていましたが、あんまりお世話はしていなかった。食事を配るなんて言う事はしていなかったようです。

食卓から落ちるもの・・・残飯をあさっていたのかもしれません。

おできだらけと言うのは人も寄り付きません。可哀そうな状況です。犬がやってきて彼のおできをなめていた。

ラザロにとってはつらい日々でした。

16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

この貧しい人は死んで、天に挙げられます。アブラハムのふところに連れていかれた。

フランダースの犬の最後を思い浮かべます。いろんな不幸が訪れたネロ少年は画家になりたいという夢の中で、大好きだったルーベンスの絵の前で、愛犬パトラッシュと共に力尽きてします。最後の言葉は「パトラッシュ、疲れただろう。僕も疲れたんだ・・・・なんだか、とても眠いんだ」といって天使に運ばれて天に昇るのです。

この貧しい人ラザロとかぶります。

そして贅沢三昧をした金持ちも死にます。

盛大な葬儀がされたでしょう。国葬儀みたいな立派な葬儀かもしれません。

金持ちは葬られました。

そして気が付くと死後の世界です。

16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

金持ちはハデスという所にいます。ハデスとは死の国、よみ、又、地獄

罪ある人間が死後いくところです。

ロマ

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

全ての人が、神からの栄誉を受けられない

ロマ

6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

そしてすべての人は死にます。そしてハデスに行くのです。

そこは苦しみの場所です。そこには炎があり、熱くてたまりません。のどが焼け付きます。ハデスは苦しみの場所です。

ところが目をあげるとはるか彼方に、あの全身おできの貧しい人ラザロがいるのです。信仰の父と呼ばれるアブラハムと共にいたのです。アブラハムのふところに抱かれていたのです。

16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

その金持ちの叫びに対してアブラハムは応えます。

16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

アブラハムとはイスラエル人にとって偉大な信仰の父です。神様の代理みたいなものです。そのアブラハムが金持ちに、「子よ!」と呼びかけます。おまえは生きている間、良いものを受けた。しかし、今ここでお前は苦しみ悶えている。

全身おできの貧乏人ラザロは、生きている間、悪いものを受けていました。しかし、今ここで彼は慰められています。

二人の死後の世界はまるで逆転したみたいです。

これは金持ちがいい思いをしたから・・・苦しみにあずかり、ラザロが生きている間苦しんだから、今慰められている・・・・。

死後の世界は逆転するんだよという事ではありません。

全ての人は罪ゆえにみな、苦しみの場所 ハデスに行くのです。

ただラザロは神様の恵みによって罪ゆるされて天国にいるのです。

この話が語られている時は、イエス・キリストの十字架のわざ、キリストが私たちの罪の赦しのために流された血によって、救われるという事は確立していません。しかし、ラザロは神様の恵みの中で天国にいるのです。

今の時代、キリストの十字架以後は

ロマ

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

キリストの十字架を信じる信仰によって、神様の恵みを受けて私たちは救われるのです。

ですから、キリストを信じる者は、クリスチャンの皆様は、生前の行いの良しあしによるのではなく、救いの中にいるのです。ラザロのようになるのです。

エペ

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

ですから、死後私たちは、みなラザロのようになることが約束されているのです。

あなたの信仰によって天国が約束されているのです。これは有耶無耶ではないのです。

なんと感謝な事でしょうか。

そしてアブラハムから金持ちに向かって厳しい現実が宣言されます。

16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

人は死んだのち、ハデスから天国へは行けないし、天国からハデスへも行けないのです。

人の死後の行先は、生きているうちのあなたの、私の信仰によって決まるのです。嫌ないい方ですが・・・・もう取り返しはつかないのです。

残された人がいかに供養しても変わらないのです。

それがわかった金持ちは言います。

16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。

16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

私の苦しみ、後悔を自分の兄弟たちに味会わせたくありません。生きているうちに死後の世界を知り、こんなところに来ないように、ラザロのように救われて欲しい・・・と言うのです。そのために誰かが語り、よく言い聞かせてやってくださいと頼むのです。

16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』

アブラハムは言います。彼らにはモーセと預言者があります。すなわち旧約聖書が既にあります。それを素直に、真剣に聴くならばわかるはずです。

でも当時も安息日には聖書が朗読され、人々はモーセと預言者の言葉を聞いていたはずです。でも自分勝手に聴いていただけで・・・金持ちはラザロに愛を示すこともなかった。人々は神様の教えに素直に従わなかった。

死んだらこんな世界があるんだよ!!それを覚えて神様に救いを求めなさい!!!と言っても。誰も聞いていなかったんです。

これって、現代でもあります。私、昔神学校に行く電車の中で、自分は救われている、死んでも天国が約束されている。ところがこの電車の中にいる多くの人は滅びの中にいる。このままだったら、みんなハデスに行ってしまう。何とか伝えたい!!天国への道を教えてあげたい・・と思って電車の中で一人で叫ぼうとしました。まあ考えただけです。

たぶん、そこで叫んでも誰も聞いてはくれなかったと思います。

人は、生きているうちの事には熱心に聞きますが・・・死後の事についてはまるで聞かないのです。

私でもそうです。あんまり真剣には聴かないのです。

アブラハムは言いました、彼らには聖書があるよ。それを読めばいい。

それでは難しいと思った金持ちは言います。

16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』

普通の人が言っても聞かないのなら・・・死んだ人が彼らのところに行って語って下さい。そうしたら聞くでしょう、彼らは悔い改めるに違いありません。

これはイエス様の事でもあります。イエス様は十字架にかかり死んで三日目によみがえり人々のところに行って話しました。

そんなインパクトがあっても当時、キリストを救い主として信じた人は多くはありませんでした。

人間の死後、永遠の世界がどうなっているのか・・・・こんな人間にとって一大事。これ以上大事な事はないというような事にも人は反応しないのです。これは不思議です。

死んだ人が生き返って話しても・・・・

アブラハムは言います。

16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

大事な事はすべて聖書の中に書いてあります。聖書がすべてです。そこから人は救いを受けるのです。死人の中から生き返った人が語るよりも、人は聖書に耳を傾けるべきなのです。と言われます

人は自分の永遠のいのちについて・・・こんな重大な事をおろそかにしています。死後どうなるかも考えていません。でも心の奥底ではどうなるのか?不安があります。そこを有耶無耶にして生きています。そうではないでしょうか?

私もそうでした。

死後の事についてはあまり深く考えることも少なかったです。

でも聖書に出会い、キリストに出会い・・自分の罪の問題に向き合い。

全ての人は罪を犯しているので・・・すべての人は死ぬ。永遠の滅びに入るという事がわかりました。

しかしそれ以上にこんな私を神様は愛してくださって、神様の一方的な恵みで救いの中に入れてくださった事を知りました。

イエス・キリストを信じる者は永遠のいのち。滅びではなく天国が約束されていることを知りました。

ロマ

5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

ですから、私にはラザロのように天国が約束されているのです。教会に集う方々。洗礼を受けている方にはその約束があります。洗礼を受けていなくてもイエス・キリストを自分の救い主と信じる者には神様は恵みによって永遠のいのちを与えて下さるのです。

それはモーセと預言者 すなわち聖書によってはっきりと書かれているのです。

聖書のみ、恵みのみ、信仰のみです。

ですから私は、確かにそればかり、死後の事ばかり考えては生活していませんが。

死後はこうなっているんだという確信があります。

それはあるのか、ないのか、ないのか、あるのか・・と言う有耶無耶ではありません。

それは大きなことだと思います。

私の死後が、はっきりとしていてそこに平安があるという事は、毎日の生活の中にも、大きな力となるのです。

祈り

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