2022.8.21

説教箇所 ルカ13:10~17

説教題 事の本質を見極めること

分解 10~12 イエス様の一言

13 いやされた

14~15 会堂管理者の言葉

16~17 みなが輝かしい御業を喜んだ

序論 今年の夏はいろいろなことが起こりました。コロナの猛威がありました。連日感染の

数が発表され過去最多を更新する毎日でした。私の職場にもこの波が押し寄せてき

て感染者が増えるような日々を過ごしました。そして気象の変化もありました。東日

本や北日本では雨が止まずに連日のように土砂災害や洪水のような河川の氾濫で大きな被害が出ています。しかし私たちが住んでいる西日本は連日のように猛暑猛暑と35度以上の気温に雨が降りません。私のように太陽の下で仕事をしていると特に日曜日の次の月曜の朝いちばんの朝礼のラジオ体操をしているときに考えるのは私も一応大人であり職業も現場監督でありますから声には出しませんが心の中ではまだあと6日あるのかと心に思ってしまいます。職人の人達も月曜日の段階ではだれ一人として休みのことや弱音といったことは口にしません。私も一日一日この猛暑の中でみんなが何を思っているのかわからずに私だけがこんなことを思っているのかなと感じていて心の強さを他の人と比較してしまいます。しかし、金曜日ぐらいになるとどこからともなくあと2日やなとか明日が終われば休みやなとかそんな声が聞こえてきます。そんな声を聞くとこの猛暑の中で仕事しているのはみんながみんな熱中症にならないようにそして倒れないように弱音を吐かないようにいろいろな感情や考えの中で働いていることがわかります。そして私もこの暑さに辛いとは言えずに黙々と働きみんなの思っていることとよく似ていると確信してほっとしています。自分の中ではみんなと比較しているもう一人の自分が明らかに存在しています。人と比較することは罪のはじめといわれます。アダムとエバの話ですけど。サタンはアダムをそそのかさずに虐げられているエバをそそのかしました。まだ罪が人間に入り込む前ではアダムに従うエバはあたり前のことと思っていました。しか

し、サタンはエバに比較ということを心に埋め込みました。このことは罪の根源です。なぜなら人と比較してもしまさっていれば優越感に浸ることができます。優越感だけで自分の心の中に閉じ込めておくことができればまだいいですが口に出して見下すと罪として他の人に不快な思いをさせるように現れてしまいます。また、劣ってしまいますと劣等感に支配されます。そして劣等感からは妬みということが生まれてきます。そこでも自分の心の中に収めることができればいいのですがエスカレートしますと暴力ということになりかねません。罪が戸口で待っているということを確認できたことです。だから比較ということは罪の始まりです。このことを通してやはり私の中にあるものは比較ということを罪がまだまだ根底にあるということを認識しました。それでは今日の聖書日課のルカの13章から見ていきたいと思います。

イエス様の一言

(13章の1節~5節を読む)初めにガリラヤ人(血の気の多い人たちという認識でした)(日本でも漁師町の人は気が荒いといいます)(和泉ナンバーの人は運転が荒い)やシロアムの塔の倒れて落ちた人達はひどいことをしたからひどい死に方をしたのかと人々イエス様に質問しました。私たちもこんな考えがあります。ひどいことをした犯罪者や人をだましてお金持ちになった人はいい死に方をしないという考えが誰しもあります。いわばむつかしい言葉でいうと因果応報という考えです。しかしイエス様はそうではないとおっしゃっています。13:5を読みますと、そうではない。私はあなた方に言います。あなた方も悔い改めないなら、みな同じように滅びます。とおっしゃってます。このことは人間が考えるというか理解しやすい因果応報とは全く関係がなく人の生き死には神様の御手にゆだねられています。だから悔い改めて神様を信じなければ死に方がどういうことかより永遠の命があたえられないということを語られています。

6節からは実らない木のためにどうあるべきかというたとえを用いてお話しされます。(6節~9節まで読む)このブドウ園の番人は3年間このいちじくの木の世話を一生懸命やってきました。しかし、自分が今まで3年間やってきた努力は無駄であったのでもう切り倒しても構いませんといっているのではなくてもう一度面倒見させてほしいと言っています。このたとえの登場人物を紹介しますと

いちじくの木を植えた主人は天の神様です。ブドウ園の番人はイエス様です。そしていちじくの木は私たち滅びに向かって突き進んでいっている罪人です。私たちが悔い改めなければならないのは主イエスキリストがこれほどまでに愛とあわれみをもって私たちのことを考え、私たちの面倒を見てくださっているからです。これは私の考えですが9節で「もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。」といってますが実がならなかったらもう一年面倒を見させてくださいと言われると思います。

そして今日の本題のルカ13:10からになります。13:10「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。」このころからイエス様は安息日の礼拝の時に教鞭をとられていた、様子です。私たちが礼拝する教会では教鞭をとるのは牧師か教師か決まっていて何年もたってからこの教える立場になります。しかし、イエス様の知識と活躍からするとかなりの速さでこの立場になられたことがわかります。11節「するとそこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた」

十八年間病の霊につかれとあります。霊というのは良い霊と悪い霊があります。良い霊というのはイエス様から出る霊です。悪い霊というのはサタンから出る霊のことを言います。この場合病の霊というのはサタンから出た霊のことでサタンが十八年間この女の人を腰が曲がるという病で縛っていました。十八年間腰が曲がりつづけて生活をしなければいけないというのは私たちには想像ができますがいつも腰が曲がっているのです。女の人からしたらいつもどんな時も腰が曲がっているのです。病というから痛みもあります。そんなつらいことと背中合わせということはやはり女の人の痛みはわからないという答えがおのずと出てきます。12節13節を読みます。「イエスは、その女を見て呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。」とあります。

この女の人は、イエス様がこの会堂に来るとわかっていたのかもしれません。そしてイエス様なら自分の腰を治すことができると思ったかもしれません。いずれにしろ

ユダヤ教の安息日の礼拝に来ていた人です。信仰はあったと思われます。だからたちどころに腰が伸びて直後に神をあがめたということです。イエス様は神の御業をなさるときによく「あなたの信仰が直したのです」という言葉をお使いになられます。ここもそのよう

に思われます。

14節「すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日はいけないのです。」この箇所は女の人の腰が直って喜ばしい話で終わりませんでした。会堂管理者ということはある程度その地方では名の通った人かもしれません。この人からのイエス様と女の人に向けてのクレームです。会堂管理者が怒っているのは彼自身心の中に一つの確信がありました。それは人を治すこととは労働であるという確信でした。ですから安息日に人を直したことは違反になるわけです。この時にこの会堂管理者は教師であるイエス様に尋ねればよかったのです。しかし、ユダヤ教に精通しているのかはわかりませんが違反であると確信を持っているので自分が正しいと思っているので群衆にぶつけてさらし者にしようとしました。15節の前半を読みます。しかし主は彼に答えて言われた。「偽善者たち」偽善者たちということはこのイエス様のいやしに反論した人は多数いたと考えられます。やはりパリサイ派の人と考えるのが妥当と思われます。偽善者という言葉をこくごじてんでしらべてみるとこういう言葉が記されています。「本心からではなくうわべだけ正しく良いことをしているように見せる人のこと」です。要するに「形式的なことばかり気にしていて本質を少しも考えようとしない。」ところにありました。この人たちは神様が何のために私たちに安息日を与えたのかという目的を無視して安息日に何をしてよいのか何をしたらいけないのかをユダヤ教が定めた規則を守るのに熱心でした。

私たちは目的をちゃんと見据えていないとそこからずれていってしまいます。

だから少し私の知っている範囲で安息日というものを説明します。神様は最初は何のために安息日を設けられたのかといいますと、一週間に一日は神の恵みを深く思い、神の恵みに感謝し、神を礼拝するために、仕事を休むことが目的でした。

創世記1:31~2:3(旧約聖書2ページ)「そのようにして神はおつくりになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった。こうして夕があり、朝があった。第六日。2:1こうして天と地とそのすべての万象が完成された。2節それで神は第七日に、なさっていたすべてのわざを休まれた。3節神はその第七日目を祝福しこの日を聖であるとされた。それは、その日に、神がな

さっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」最初は神様が天地を創造されたときすべてのものを作られた後七日目に休まれたことを記念して人間に与えられた日でした。そしてイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から神様の救出によって救い出されたことを感謝して礼拝するという意味でこの日を守るようにと定められた日です。ところが出エジプト記の20章8節~10節の前半(旧約聖書119ページ)8節安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。9節六日間働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。10節しかし、七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。8節の言葉はモーセの十戒の4番目の言葉で神様と人との契約の最後の言葉です。ちなみに十戒の1番目から4番目は神様と人との関係で守らねばならないことで5番目から10番目までは人と人との関係で守らなければならないことです。このモーセの十戒を律法といいます。話はずれましたけどユダヤ教の律法学者たちは10節の「あなたはどんな仕事もしてはならない」という言葉に反応してこれを具体的に決めようという考えが生まれてきました。

どういうことかといいますと例えば安息日といえども私たちは食事をします。食事をするには、水が必要です。今の時代なら水道をひねるだけで水が出てきます。しかし今から2000年前の時代のことです。水道があるわけがありません、ではどうすかといいますと水を井戸や泉に汲みにいかなければなりません。そこから安息日にも許される労働と許されない労働と距離によって決められました。もちろんのこと人間がです。つまり「安息日の道のり」具体的に何メーターとかは調べていないんですけどそれ以上に遠いところにある泉に水を汲みにいかなければならない人たちには大変でした。このこと一つを例にとっても何々してはいけないこれこれしてはいけないということで回りからどこから見られているかわからない状況で恐る恐る行動するのに人々が首の閉まる思いで生活していたことがわかります。そんな規則をユダヤ教の律法学者たちは作っていました。だから普通の人もどこそこの家の人は安息日の道のりをこえて水を汲みに行っているということが知れ渡ると大変なことでいつも生活する上に置いて目をとがらせていました。そしてこの会堂管理者も同じだったといえます。

15節の後半「あなた方は安息日に、牛やロバを小屋からほどき、水を飲ませに連れていくではありませんか。」イエス様は会堂管理

者にこうおっしゃられます。

この会堂管理者が偽善者呼ばわりされたのは牛やロバに牛やロバに水を飲ませるときには安息日であっても縄をほどいたりつないだりする労働をしていました。この縄をほどいたり結んだりすることは労働とみなされて禁止事項なのは文脈からわかります。そしてこの会堂管理者が安息日にこんな労働をしているかどうかはイエス様ならわかることです。誰も見ていないところで安息日の規則を破っているこの会堂管理者をイエス様は「偽善者」と呼んでいます。

16節「この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからと言ってこの束縛を解いてやってはいけないのですか」

ここで一つの疑問が出てきます。なぜアブラハムの娘である女の人にいやしがいけないと言っているのかそして牛やロバは水を飲ませなければ死んでしまうのではないかという疑問です。ある人たちはこういう言い方をします。牛やロバは命の危険があります。しかし女の人の場合は一日遅れてもいいのではないか?という疑問です。

イエス様がこの女の人をいやしたのは曲がった腰をまっすぐにするということともう一つはこの女の人からサタンを追い出すということをなさったからです。ここからは私の想像ですがイエス様は巡回伝道されていて次から次へと場所を変えて人々をいやしていたと考えられます。だからこの時を逃すと女の人は腰が曲がったままで生活しなければいけません。そしてもう一つはサタンの束縛から解放するのはイエス様しかいなかったからです。ですからイエス様の選択は人が作った安息日の規則を守ることより、このサタンに縛られた女性を解放することの方が重要だったのです。だからイエス様にとって一日でも早くサタンの束縛から解放してあげたいという愛と哀れみがこの箇所からわかります。

17節「こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべてのかがやかしいみわざを喜んだ。」

この会堂管理人の考え方は本来の考え方は、本当に規則に縛られていて見える部分だけよければよいということになります。見えない部分は他の人にはわからないので問題がないということです。「偽善者」という意味がもう一度言いますと本心からではなくうわべだけよいことをしている人のことです。しかしその他人が知らないカバーをイエス様がはがされました。そして「反対していた人たちはみな恥じ入り」

安息日には癒しはだめだといった人たちのことです。人を助けるより律法学者が決めた規則を重んじることをあと押しした人たちが恥ずかしく思ったことです。

そしてイエスのなさったすべての輝かしい御業を喜んだとあります。イエス様の奇蹟は人々に力を与えてくださって自分の考えていることが本当に正しいのかいやそうではなく人を裁くための道具として聖書を活用しているのかこの箇所を通して自分のキリスト教信仰をもう一度考え直すことができました。

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