2022年8月14日
説教題「イエス様を信じる衝撃」
聖書箇所 ルカ12:49~56
12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
12:50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
12:52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
12:53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
12:54 群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ』と言い、事実そのとおりになります。
12:55 また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ』と言い、事実そのとおりになります。
12:56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。
おはようございます。
今日の聖書日課の言葉はドキッとする言葉が続きます。
私が来たのは・・・イエス様が来たのは・・・
地に火を投げ込むためです。
12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
イエス様が来られたのは平和ではなく、分裂だというのです。
イエス様の事を私は、愛の人。恵みの方だと信じています。
私たちの罪の赦しのために執成してくださる方
十字架で私の罪の赦しのために死んでくださった方・・
主は良いお方
主は優しいお方
そう信じています。
しかし、今日の箇所のイエス様の言葉は違います。
厳しい言葉です。
イエス様が来られたという事は、福音(良い知らせ)グッドニュースです。しかし、それはただただ私たちの心に心地よい、やさしい救い主の訪れではないのです。
イエス様が来られたことは、その当時の世界に平和をもたらすのではなかった。世界を変えてしまう衝撃があったのです。
そこには犠牲があったのです。
人がイエス様を信じて神の子とされる。永遠のいのちを与えられる。それは素晴らしい事です。これ以上素晴らしい事はないでしょう。
しかし、それはすべてがハッピー、感謝、感謝でバラ色ではないのです。
イエス様を信じることは、一見、マイナスのように見える事。厳しい事もあるというのです。
12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
12:50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
イエス様が来られるのは地に火を投げ込むため・・神様の恵み、救い、みこころ、聖霊を送るため・・・だがこの世はイエス様の世ではなかった。イエス様を受け入れない国だった。皆が素直にイエス様を受け入れる世だったらどんなに良かっただろうか・・・
そのためにわたしはバプテスマを受ける・・・それは十字架の道であります。
この世にある人達を救い出すには、ご自分が、罪なきイエス様が。私たちの罪の身代わりとして十字架にかかって死に、私たちに罪の赦しを与えて下さる方法しかないのです。それはイエス様にとっても苦しい事でした。
① ルカ
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
イエス様の十字架は、簡単ではない。イエス様は苦しみ悶えたのです。汗が血のしずくのように流れたのです。
そしてイエス様が来て、人々がイエス様を信じる時。全てが感謝で平和であるとは言われていないのです。
12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
イエス様が来られたのは平和ではなく分裂である・・・・。
どういう事でしょうか?
確かに考えてみれば、私がイエス様に出会った時。救いを受けた時それは大きな衝撃でありました。
そしてそれは私の心に平和が訪れたと共に、大きな衝撃もあった。
信じた当時は平和よりも衝撃の方が大きかったと思います。
それは、イエス様が来られた当時のユダヤの国。ある意味平和の中にあった国にイエス様が火を投げ込んだのです。それとよく似ています。
私は27歳の時にイエス様を信じましたが・・・・聖書の話を聞き、神様を信じ、イエス様を信じて洗礼を受ける時。
それまでの人生から、まあ見た目は平穏な人生が・・・・静かな池に、大きな石が投げ込まれて波紋が広がるように・・・コップの中に罪と言う泥があっても静かにしていることによって、ある程度、罪の泥が沈殿していて澄んでいるように思われた水が、イエス様を知ることによってかき回されて、コップ中が泥水になったような衝撃がありました。
皆さんはどうでしょうか。あなたの心にイエス様が入って来られた時。それは平和ではなく、いろんな分裂を生んだことはないでしょうか。
私は聖書を知った時。神様の存在を知った時。それは大きな心の変化でした。心の中の中心が変わったのです。
それまでは神様はいないと思って生きてきました。自分が神だというぐらいの思いです。
心の中心には、自分が、自我がいました。
ところが聖書を読んで、ある時、神様がおられ、私たちは神様によって造られたと信じました。
全くの価値観の変化です。衝撃でした。
十戒を知った時。十戒を守れていない自分を知りました。
罪人である自分を知りました。
それは十戒を知らなかった方が楽だった・・・・神様の戒め律法を知った事によって、自分の生きる道を悩みました。
例えば、私は当時建設会社に勤めていました。土木の技術者でした。会社に入る時は、日本の国土を安全に守る。社会に役立つ仕事がしたいと理想に燃えていました。でも仕事を始めると、それは理想であって会社は儲かることが第一でした。工事も手抜きとは言わないけれど、いかに無駄を省くか、そして予算をたくさんもらうか。そんな事で工事の管理は結構、役所向けにはつじつま合わせの書類や写真をいかにうまくできるか?
そしていかに手を抜くか・・手を抜いても壊れないものをいかに作れるかがその人の腕みたいな感覚・・・・。
そんな事が中心で。納品書なんかも架空のものもたくさん作り・・・写真もごまかし・・・・それが仕事だと教えられ、自分のそのようにしていました。いわば嘘ばっかりついて仕事をしているのです。それができるのが優秀な人なのです。
そんな事をしていましたが・・・・・十戒の中で偽証をしてはならない。という言葉に真剣に悩みました。噓つかなかったら仕事できない。この世で生きていけない。
まじめに悩みました。これでクリスチャンをやって行けるのか?
会社で、うそはやめて、真実で行きましょうと言えば、みんなが喜んではくれません。変人扱いです。
日曜日に毎週教会に行くことでも、難しい事がいっぱいです。当時は、24時間仕事をしているトンネル工事をしていましたから私たち現場監督は二交代で勤務していました。土日関係なしです。ローテーションです。それを日曜日は教会に行くから休ませてくださいという事になると。土曜日の朝から日曜日の朝まで24時間の勤務を受け持って、日曜日を休み、月曜日は普通に行く。当時の教会は日曜日朝から夜中までいましたから、ひょっとしたら36時間働いているような無理もしていました。
それで人を教会に誘っても・・・・なかなか豊島にはついて行けんわ。ということで分裂です。
それまでは建設会社で、麻雀、お酒の付き合いがいっぱいありましたが
断りました。
②Ⅰペテ
4:4 彼らは、あなたがたが自分たちといっしょに度を過ごした放蕩に走らないので不思議に思い、また悪口を言います。
この世の人は・・・と言っても私も少し前は神様を知らないこの世の人の代表みたいでした。
まことの神様を知らないし・・・十戒も知りません。自分の思うように生きているのです。
そんな中で神様を信じ、聖書に従って生きていくのは本当に難しいです。迫害とは言いませんが・・・・・みんなから煙たがられます。私はもともと人が好きで、人と仲良くしたいのに・・・・それはつらい事でした。
でもイエス様を信じる時、そんな事が起こったのです。
私の人生に火が投げ込まれたのです。12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。
私はイエス様を信じてから問題は主に職場でした。
当時、離れてはいましたが、両親、妹はクリスチャンでしたのでしたし。家内も一緒にクリスチャンになったので家庭の中での分裂はあまり体験していません。
でも多くの方が、このみ言葉のように自分の心にイエス様を受け入れ信じて歩みだす時分裂があるのです。
特にキリスト教国でない日本ではこのような事はたくさんあります。
またイエス様の当時。ユダヤ教が中心のユダヤ人。ギリシャ哲学などが中心の異邦人の世界では
誰かがクリスチャンになると、みながすぐに喜んで応援してくれる・・・皆がすぐにクリスチャンになるという事はなく・・・こんな困難が一時的に必ず起こるのです。
12:52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
12:53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
イエス様はこのこともはっきりと教えられているのです。
私は、姉に頭が上がらないのですが・・・クリスチャンになった時に姉とは絶縁や!!と言われるまでになった事があり・・・悲しかったです。
クリスチャンになることは、まさに火を投げ込まれる事だなあと思います。
そんな事がある中で、私は自分は十戒を守ろうとしている・・・神様に従おうとしている・・・頑張っていると自分で自分を褒めていました。
変な話ですが、私は洗礼を受けました。クリスチャンになりました。聖書を読んで、神様に従おうと生きています。でも私には実はイエス様は本当の意味でしっかりと入っておられませんでした。
私は、聖書のいう、自分が今まで知らなかった、新しい思想を得て、新しい生き方をしようとしているだけでした。
でもやがて聖書を読み、信仰生活を続けていく中で、自分の罪が見えてきました。ほんと変な話です。洗礼を受ける前に自分が罪人であるとはわかっていなかった。
私は、本当は悪くない・・いい人間だという性善説で生きてきていたのです。
やがて人は徹底的に罪人でしかない・・・・と言うイエス様からの教えを知って行くのです。性善説から性悪説に転換です。
これも大きな衝撃でした。
12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。
自分が罪人であることを知る。十戒を守れていない事を知る。
自分は滅びでしかない事を知る。
神様の前にそのままでは出られない事を知る。
まことの神様にそのままで従えるなんてことはできない。
神様の偉大さを知る。
神のために生きるなんて言う言葉自体が傲慢であったと知る。
その時、初めてキリストが来られた意味。
十字架の赦しを知ったのです。
そこで罪が赦された。
イエス様が十字架で私たちの罪のとりなしをされた事。
それは私のためであったと知ったのです。
③ ルカ
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
この十字架の祈りは私のためであったと知ったのです。
④ ロマ
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために
死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。
これはイエス様が来られたことによって私の心に喜びの火が投げ込まれたのです。聖霊の火です。
12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。
そして今はこの喜びを愛する人々にお伝えしたいのです。
イエス様はそのために、ご自分のいのちを捨て十字架への道を歩まれたのです。
12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
12:50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。
この福音を伝える時、分裂は避けられないものかもしれません。
イエス様の福音が伝えられた時、ローマ帝国はイエス様を受け入れず、迫害に迫害を重ねました。ユダヤ教からもキリスト教は迫害を受けました。まさに分裂は歴史的にも起こっているのです。
クリスチャンたちは、それでも福音を伝えました。
それは説得力のある知恵ではありませんでした。ユダヤ人が求めるしるしでもありませんでした。
人々から見て愚かに見える、十字架の言葉によってでした。
イエス様の福音は、すぐには届かない事もいっぱいあるのです。
何しろ、私たちが語れる事は十字架のことばだけなのです。
⑤ Ⅰコリ
1:17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
1:20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
1:21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
ここに分裂があることは避けられないのです。
イエス様が来られる事は火を投げ込まれる事なのです。
あれほど迫害したローマ帝国はやがてキリスト教を受け入れ国教にまでなります。西暦392年ですからキリストの十字架から350年以上後の事です。その間は分裂がありました。
キリスト教が認められても・・・やがて人間の罪はローマカトリックの腐敗を生みます・・1517年マルチンルターの宗教改革はローマカトリックが悪いというよりも・・・もう一度聖書の原典に帰ろう・・・十字架の福音に戻ろうという働きでした。
これもまた宗教戦争と言う分裂を生みました。
イエス様が私たちの世界の中に来られる時。。。私たちに火が投げ込まれるのです。
そしてそこには悲しいかな分裂も起こるのです。
12:52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。
12:53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」
しかし、この分裂は、やがて主の恵みの中で変えられていくと信じるのです。
今はつらいけれど・・・・・
私たちが福音を伝える時・・・それは説得ではなく、私の内にあるキリストによって救われた喜びではないでしょうか。
私たちは何の誇ることもできない罪人に過ぎません。でも私のイエス様はこんな私を救い出し、愛し、私を導いてくださる素晴らしいお方。
イエス様が来て私の心に火が投げ込まれました。それは大きな、大きな衝撃でした。
世間はすぐには受け入れてくれない事ばかりです。理解されない事ばかりです。確かにそうです。
イエス様の救い 十字架の言葉は人間の理解をはるかに超えているのです。そしてそれをうまく伝えられるほど私たちは立派ではない。まさに愚かな者なのです。さきほどの⑤コリント1:22から
1:22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
これを伝えるのです。
祈りと忍耐と年月もいるでしょう。困難もあるでしょう。
⑥ ロマ
5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
私のキリストを知らずに反対した友人たちも・・・・私の姉も…一時は分裂したけれどもやがて変えられてきていると信じるのです。
その時は、わかりません。
ただ私に投げ込まれたイエス様の火が私の中に燃え続けていることを感
謝し、その火が消えてしまわないように祈っているのです。
イエス様はそのために十字架にかかって下さったのです。
だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。
12:50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。
祈り