2022年8月7日

説教題「みことばに導かれて」

聖書箇所 ルカ12:32~40

12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

12:33 持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。

12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。

12:35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。

12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。

12:37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。

12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。

12:39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。

12:40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

おはようございます。

私は歴史が好きです。皆さんの中にも歴史の好きな方はおられるでしょう。最近は歴女といって歴史の好きな女性も多いみたいです。

私も、戦国時代とか、幕末とか歴史を知ることは大好きです。まあ司馬遼太郎のファンですから、学術的に専門的な歴史と言うよりも、そこに働く人間臭さみたいなものを考えるのが好きです。

昔あった事をなぜ学ぶか?歴史をなぜ学ぶか?それは決して昔話を振り返るだけではなく・・・・歴史は繰り返すと云う事を考えても。

歴史の中に現代を又これから起こることを考えるという事にもなるからです。

ですから歴史はただの暗記するだけのものではなくて・・・・それを見な

がら、自分たちの反省をおこない、またこれからの希望を見出すという事にもつながると信じるのです。

人は昔から、その本質は変わっていない。昔からおんなじことをしています。そしてそれはこれからも同じです。

という事は昔の事を学ぶことは現代を学び、また未来を見る事でもあると思うのです。

ですから、記録を振り返ることは大切です。私はそう思います。

そしてそれは信仰生活にも同じように思います。

私たちに神様から聖書を通して教えて下さる歴史。ある人はヒストリーとは彼の物語 ヒズ・ストーリーだと言いました。彼とは当然の事イエス・キリストです。

聖書を通して私たちに語り掛けられるみ言葉・・・それを私たちがどう信じてどう生きてきたか。そこに神様がどう働いてくださったか。それを学ぶことは有益です。それはただ昔を振り返るだけでなく・・・過去を通しても未来への展望、希望でもあるからです。

ですから証しという事は大切です。私に神様がどう語りかけて下さって・どうなっていったか。そこに恵みがあります。そこに悲しみや苦しみもあります。しかし、時間と言う経過を通して見えることもあります。

私たちに神がして下さった恵みを数えることは未来にもつながるのです。

今日の説教は少しいつもと違う形になります。それは今日の説教箇所のみ言葉。そこに働かれた神様の恵みを振り返る事。私たち堺育麦キリスト教会の歴史を振り返ることの中で、神様がいかに真実に私たちを導いてくださったかを知ることです。それは教会だけでなく、私たち一人一人にも同じことです。み言葉は私たちを導いてくださるのです。そんな事を覚えられたら・・・・・と説教をさせていただきます。

今週の聖書日課のみことばが心に刺さりました。

12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

今日は特にこの一節から語らせていただきます。

このみ言葉は2010年の堺育麦キリスト教会の目標聖句でした。

その時の総会資料の言葉を読んでみます。

2010年は上記の目標聖句を与えられています。堺育麦キリスト教会は、

会員数は減少しました。またご高齢の方や子育て中の方もあり、教会の活動としてはなかなか難しい事があります。小さい群れです。不安に感じることや、力の足りなさを覚えることもあるでしょう。またさまざまな試練もあることと思います。その教会に神様は「小さい群れよ。恐れることはありません」と語りかけてくださっています。そしてこの群れを通しても神様の働きは豊かにあることを教えてくださっています。喜んで御国をお与えになるとは、この群れを通して救われる方々が起こされることだと期待しています。また私たちの信仰が成長し、御国の確信がさらに強められることです。弱さの中にある小さい群れに神様がどんなにすばらしいことをしてくださる一年になるか・・・・・。期待しています。一人でも多くの人が救われる事ができますように。この目標聖句をいつも心に覚え歩んでいきましょう。そのために私たちは礼拝出席、聖書を読むこと、祈り、交わり、奉仕の生活をしていきましょう。そして弱さを覚える兄弟姉妹を支え合っていきましょう。教会員の一人一人が大切なキリストの体の一部分であります。お互いを必要としています。互いに愛し合い、励まし合い、祈りあって歩み、神様の恵みをたくさん体験出来る年となるように祈ります。

伝道師:豊島守

この時は、牧師が常駐しない教会でした。私が2008年7月に神学校を卒業して、中島先生が責任牧師、豊島が伝道師と言う体制の二年目。私もフルタイムで仕事をしながらでしたから、日曜日の説教が精いっぱいという状態で、ご近所さんとの付き合いもなく・・・(鳳の中でどこからつながりを求めていいかもわからない)まさに小さい群でした。)

この年、三枝姉、川上兄、河野るり子姉 の三人の兄弟姉妹が天に召されました。

この年2010年の11月に神様から示されてフルタイムの牧師になりました。それまでは、私が仕事をしていることで教会の財政は守られていましたが、それでは教会としては衰退するしかない・・・

ここは冒険ではありますが、私がフルタイムで牧師となり、できるだけ宣教のために働く・・・・それを示されました。

フルタイムの牧師になるという事は牧師給の必要もあり、不安もいっぱいでしたが。このみ言葉に励まされて、祈りを持って堺育麦キリスト教会は再出発しました。

12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

このみ言葉に導かれました。

(そして次の年)2011年の最初にこんなあいさつをしています。

2010年の目標聖句がルカ12:32の小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

でした。16人の現住陪餐会員の小さな群れの中で、3人の兄姉を天国に送りました。その中でも神様は豊かな祝福を与えて下さり、みことばで励まし、祝福を与えて下さいました。2010年の11月には私の牧師按手式もあり、正式に牧師が常駐する教会になりました。

そして昨年の2011年には、ルカ12:32のみことばに加えてヨシュア記1:9強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

の聖句が与えられました。2011年の新年に、説教の中でこんなことばが語られています。

私達の教会、堺育麦キリスト教会は太田先生の元、開拓伝道が行われました。

それは旧約聖書のイスラエルの民が出エジプトをし、荒野の旅を続けた旅のような戦いと恵みがありました。

そして私がヨシュアのように後継者として召されました。

ヨシュアというのは自分が後継者になるという気持ちはなかったように思います。彼はモーセに仕えて行く事を忠実にしていった感じがあります。そのヨシュアに神様は新しい使命を与えられました。

その大きな仕事に対して神様から語られた言葉です。

私たちの群れ全体に神様から語られたみことばでもあると思うのです。

今は、全てはわかりませんが、今年はこのみことばを共に学び、体験し、黙想し、祈りながら歩んで行きたいと示されているのです。

ルカ12:32とヨシュア1:9の二つを目標聖句として歩んで行きなさいと神様が語られていると信じます。ルカのみことばは私たち小さい群れへの励ましの言葉でありました。どちらかというとお母さんが私たちに語られているような優しさに溢れたことばでありました。

そしてヨシュア1:9はパッと読んだ印象からは、厳格なお父さんが道を示している言葉のように見えるのです。今年はこの二つのことばを与えられて歩んで行く事は昨年よりも、また違ったステージというか段階の中を体験するのだろうなあと期待をするのです。今年の最後にまた神様にどんな感謝がささげられるかを楽しみにしています。

強くあれ、雄々しくあれ、おののいてはならない。

このみ言葉を見ると私はとてもそんなものではありませんと恐れてしまうのです。神様に仕えて行こうとする時、私たちは強くなければならないのか、雄々しくなければならないのか、恐れてはならないのか、おののいてはだめなのか・・・・・。

そんな事を考えます。

このみことばは、私の若い頃に読んでいた思いは、神様を信じて従って行く信仰者は、こうでなければならないと思っていました。強くなければならない。雄々しくなければならない。信仰者は神様を信じているのだから、強く、雄々しく、恐れないで、おののかないで行かなければならない!それが神様に喜ばれる事だと思っていました。

しかし、現実は、私はそのような者ではないという事を嫌というほど体験しました。クリスチャンになって30年あまり、強くあれ、雄々しくあれ、恐れないで、おののかないでいなさい。その神様の命令の中で自分の力で強さを、また自分の計画で頑張って生きていることが信仰のように考えていた時があります。その時神様は豊かな恵みと祝福を与えて下さる。もし何かうまくいかない時があれば、それは私が強く、雄々しく歩んでいないからだと神様の前に、悔い改めて、新しい力を祈るというような信仰生活をしてきました。

でも長い信仰生活の中で、自分の思い、自分の計画、自分の力で歩む事が何の価値もない事が分かってきました。また私たちはいつも強くなれない事を痛感します。年を重ねれば力を誇る事は出来なくなります。また病気にもなります。強く、雄々しくあれとのみ言葉とは程遠いものなのです。

それゆえ、神様がこのみことばをあたえられる時、恐れてしまうのです。

私はそんなものではないと。

今日のヨシュア記のみことばは、ヨシュアが強くないからこそ語られたのです。雄々しくないからこそ語られたのです。かれは恐れやすく、またおののく者であったからこそ神様が語られたのです。

ただ神様のみこころ、願いは私たちに強く、雄々しく歩んでほしいということなのです。

このみことばの意味はあなたの力で雄々しく、強く歩みなさい。と言う事ではないのです。

神様の方法は私たちが自分の力のなさを知り、自分の能力に絶望する時、人は自分の力でなく、神様により頼むのです。私たちが空っぽになり、何も出来ない時、神様に信頼し神様に頼る事が、神様との交わりになるのです。

Ⅱコリ

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

私たちはそのまま強く、雄々しくあることはできませんが、私たちが神様により頼む時、私たちは強く雄々しくある事ができるのです。その事を体験させていただき、私たちが信仰のヨルダン川を渡り、信仰の高値へと歩んで行く事を学んでいく年とさせていただきたいのです。

このような説教の中で一年が始まりました。

この間、一年を振り返ってどんなことがあったかなあ・・・・と考えている時、私のブログ、「牧師剣士」を読み返してみました。2010年の末から、2011年の前半までは、まさに試練の連続です。

なによりも我が家が、牧師家庭が、様々な試練の中にいました。

家内の入院、手術。長女の入院、父の入院。次女のインフルエンザに、三女の緊急入院が重なり、孫もインフルエンザや水疱瘡で登園できなくなったりして、私は子守と、御見舞い、家事一般で、本来の牧師の働きよりも、その他の戦いの方が多かったようです。その間、教会の皆様に祈っていただいて、また具体的な助け、たくさんのおかずを頂いたり、差し入れを頂いたり・・・・人間的に考えればこんな事で、教会は大丈夫かと思うような状態でした。

1月23日のブログをちょっと読んでみます。

見舞いで大忙し 2011.1.25

朝から、孫を保育園に送り、三女の病院に、隔離病室で可愛そうな娘を慰める。

続いて家内の病院へ、三女の事をメールで知らせているが、情報がはっきりわからないので心配しているので、会って説明。

三女の主治医の先生の説明があるので、三女の病院へ帰る。

主治医の先生は忙しそうで、話を聞くまでに一時間待つ。

説明は、とにかく原因がわからないという事.

入院している事も必要ないと言う事で明日退院することになる。

退院できる事は感謝 しばらく自宅で安静にとの事。

孫のお迎えに行って、おむつかぶれの事で病院に連れて行く。

まあ、病院通いで大忙し・・・・。

牧師剣士もかなり、勝手の違う戦いです。

教会の姉妹が晩御飯のおかずを作ってくれていました。

本当に助かります。

祈りと黙想の日々とは程遠いですがこれもきっと何かの役に立つと信じて・・・・。

明日の事を思い煩うな、労苦はその日その日に十分あります。(聖書)

と書いてありました。

また教会の財政も私が仕事を辞めた事もあり、厳しい状況になりました。

そんな時、何回も何回もみことばで励まされました。

強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、【主】が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」

状況はどんなに厳しくても、強くあれ、雄々しくあれ、あなたの神がいつも共にいて下さる。

この事を覚えました。

どんな時にも神様が共にいて下さる。

その喜びの中で、なんとか、なんとか・・・・。日々を守られたように思います。

教会の皆さま方にも本当に祈られました。

今振り返れば、ああ、あの厳しい中で神様が一緒に私達と共にいてくださったんだなあ・・・・と感謝が溢れてきます。信じられないような助けや奇跡のような事があり、守られました。

不思議な事に、牧師宅は大変でも、教会は祝されて、この小さな群れにいろいろな方々が来られました。

そして、クリスマスに今井姉が転入されるという恵みに預かりました。

神様の福音宣教の働きが進んでいることに感謝でなりません。

教会の目標聖句は、このように私達の群れを励まし、導いて下さいました。

その意味できっと、これから始まる2012年も、この目標聖句からきっと

多くの事を私達に教え導いて下さり、素晴らしい実を結ばせて下さると期待しているのです。

2012年は

いつも喜んでいなさい。

絶えず祈りなさい。

全ての事について感謝しなさい。

これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5:16~18でした。

神様は私達に望まれている通りに、神様が、私達を責任を持って導いて下さるのです。その約束がはっきりと聖書に書かれています。

2012年 絶えず祈りなさいとの御言葉に導かれて行きましょう。

2011年の初めに総会資料に書いた挨拶を読んでみます。

昨年の堺育麦キリスト教会に与えられた目標聖句はルカ12:32でした。小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

このみことばを私たちは昨年、どれだけ読み、また祈りの中で覚えたでしょうか。

転会者などもあり教会は16人の現住陪餐会員という形でスタートしました。ある意味小さい群れです。人数が少ない日などは、礼拝前の祈祷の時に何度このみことばの約束に祈ったでしょうか。その中で3月に三枝晴子姉、4月に川上喬一兄、8月に河野ルリ子姉と三人の兄姉を天に送りました。人間的に悲しみを体験しましたが、霊的には3人の兄姉を確実に天国に見送ったという確信に満たされる時でした。葬儀には多くの未信者の方々も来られ福音が語られました。また年内に3人の兄姉の記念会も行いさらに福音が語られる機会となりました。悲しみの中にも3月に中尾望実ちゃんの幼児洗礼がもたれました。小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。のみ言葉は響きました。

これでもかと試練の襲ってきた年でもありました。私自身も8月に帯状疱疹で倒れてしまいました。しかし、神様はその事も益としてくださり、牧師レポートも完成し、按手の全ての手続きを終え、11月23日に多くの方々の出席により、感謝の内に牧師按手式が行われました。

献身の思いを持ってから29年目の按手と言う中で、神の賜物と召命とは変わる事がありません。(ロマ11:29) のみことばの真実を讃美しました。週日の祈祷会も激務から一時中断をしましたが、10月に週日の昼間に再開をし、祈りで教会を支える事ができています。小さな群れで、弱さを覚え祈りつつ歩む群れに神様は思いをはるかに超えて恵みを与えて下さいました。ピアノコンサート、尺八コンサートなどの伝道集会を通し、教会につながる方も起こし始めてくださっています。教会学校で定着した子どもたちを中心に宣教の広がりを予感しています。クリスマス祝会には新しい子どもたちや父兄の人達も出席されました。毎月の聖餐式は教団の先生方のご協力で守られました。その間私は講壇交換をたくさん経験し、教団の他教会の皆様との祈りを共有する事もできました。小さな群れに与えてくださった恵みに感謝を致しました。

さて今年は一年のみことばを祈って求める中で、神様は「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」のみことばを示されました。モーセに導かれて出エジプトをしたイスラエルの民は40年間の荒野の旅を経て、約束の地、カナンを目の前にしました。そこで偉大な指導者モーセは召され、後継者としてモーセの従者ヨシュアが召されました。神様の約束の地カナンへ、今から民はヨルダン川を渡り、新たな戦いが始まる時にヨシュアに与えられた神様からのことばです。堺育麦キリスト教会は太田牧師に導かれて出エジプトをし、今、ヨルダン川を前にし、第二の開拓期を迎えているように思います。約束の地カナンは、この堺の地であり、福音宣教の場は大きく広がっています。神様はイスラエルの民にカナンを与えておられたように、私たちにもこの地で福音が広がって行くようにしてくださいます。その中で「強くあれ、雄々しくあれ」とみことばは語ります。このみことばはヨシュアが強く、雄々しくなければならないと言う事ではなく、弱いからこそ語られていることばです。このみことばの一番大切な事は、あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。という事です。神様のみこころは私たち自身の力で強くなるのではなく、私たちがどんなに弱くとも、恐れおののくものであろうとも、神様が共にいて私たちを強めてくださるという約束なのです。昨年は「小さな群れよ恐れる事はありません」との励ましのみことばでしたが。

今年はそれに加えて、神様の恵みと導きによって、神様を見上げる私たちを、強く、雄々しく進む者へと導いてくださるという約束です。年明け早々から戦いは始まっているようですが、教会員一同が心を合わせ、祈り合い、

励まし合いながら、互いの賜物を用いて、主の体である教会を建て上げる事ができますように。今年の説教は聖書日課の使徒書を中心に学んでいく予定です。教会に集う1人1人が、主にあって強く、雄々しくあるものへとさせていただく恵みをたくさん経験させていただける1年となりますように。主の働きに期待します。そして私たちが通り良き管となれますように歩んでいきましょう。 (記:豊島 守)

こんな説教が語られていました。それからもう10年以上・・・・

小さな群れは相変わらず、財政的にも厳しく・・・戦いも多いですが。背後で働かれている神様は、私たちの思いをはるかに超えて、堺育麦キリスト教会を、またその中に集うお一人一人を導いてくださっているのです。10年たってメンバーはずいぶん変わりましたが・・・

この10年で神様は堺育麦キリスト教会を通して20人の方々をはっきりと天国に見送ることができました。

小さな群れなのに・・・それでも主の教会は生き残っています。

神様は確かに私たちを愛し、導いてくださっています。そしてそれはこれからもであります。

2010年の教会の目標聖句を、今日の聖書日課の中でもう一度振り返る機会を与えられました。

その間になされた数えきれない神様の恵みに感謝するのです。神様の真実に感謝するのです。

そしてこれからの皆様の歩みの上にも神様が豊かに恵みと祝福を与えて下さることを期待し、祈るのです。

今日のみ言葉

12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

この言葉は、真実な神様の約束です。何年もたっても変わらない約束です。

このみ言葉で励まされ力をいただいてきました。

ならば、神様にまかせておけば大丈夫だから・・・私たちは何にもしなくてもいいか?と言えばそうではないと思います。

安心はしていても、目の前には厳しい現実が続きます。また神様の前に私たち人間のすることも求められています。

ですから、私たちにできることを日々頑張ります。

この

できました。堺育麦キリスト教会も少しは知られるようになりました。皆さんの働きの成果です。

でもそれでうまくいかない事もあります。

しかし、目先の事では一喜一憂する私たちですが、大きな目で見れば神様がついておられます。約束のみことばがあります。これは大きな慰め、励まし、力です。

ですからその点ではあんまり思い煩わなくていいのです。

いろいろ悩み思い煩うけれど・・・・究極的には私たちを愛し導いて下さる主に信頼しているから感謝なのです。

今回、2010年の目標聖句を今読み・・・・・その間に働いてくださった神様の守りと恵みを感謝して覚えました。そしてこれからもその恵みがきっとあると確信するのです。

そんな中で私は有名な一つのみ言葉を示されました。

マタ

6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

ここにはクリスチャンの生きる大きな指針があると言えます。今までに私が感じることのなかった理解を得られました。

明日のための心配は無用です。明日の事は明日が心配します。とは例えば堺育麦キリスト教会の歩みで言えば、神様からの大きな恵みの約束があります。小さな群れよ恐れないでもいいよ

そうは言われても私たちは現実の中で、まさに喜んだり、悲しんだり、苦しんだり・・・これからどうなるのだろうと不安になったり・・・します。

もう不安で何もできなくなりそうな、思う煩いに沈みそうになることがあります。

それは皆さんの信仰生活でもそうでしょう。

自分の力や努力だけではどうしようもないように思われることもあります。その時、私たちは絶望しないでいいのです。神様がおられるのです。

明日を導く神様が心配してくださるのです。

この神様を持っていることはなんと大きな平安でしょうか?

心配しなくていいのです。

ならば何もしなくてもいいのか。ただ天からの恵みだけを待っていればいいのか?

ある意味それも正しいかもしれませんが。私たちが寝たきりになって何も

できないような時もあるかもしれませんが・・・

でも深い意味での平安を持つクリスチャンには感謝のなかで日々することがあるのです。

毎日、できることを成していく。労苦はその日その日に十分あるのです。

明日の心配をしながら、毎日の労苦をしていくのと・・・

明日の事は主に任せて今日の労苦を日々成していくのとは全く違うのです。

クリスチャンの恵みは、こんな力のないもの。弱い者、情けないもの・・罪人のかしらのような愛のないものであっても・・・

主イエスの十字架の元に罪が赦されて、永遠のいのちが与えられて神の子とされている。その喜びの中で、明日の事を心配してくださる主に、任せられるからこそ・・・今日、今やる事・・その日その日にある労苦を成して行けるのだと信じるのです。

マタ

6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

祈り

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