2022年7月31日

説教題「いのちは財産にあるのではない」

聖書箇所 ルカ12:13~21

12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。

12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」

12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

おはようございます。

先週は劉丹丹姉の感謝な、感謝な洗礼式がありました。そして今日は竹林和子さんの洗礼式があります。本当に信じられない恵みです。人がイエス様を救い主として信じて洗礼を受ける。これほど大きな喜びはありません。と、説教原稿には書きましたが、竹林和子さんは昨日も頭痛が激しく病院に行かれ、体調不良ですので、この素晴らしい恵み、洗礼式は延期することにしました。どうかお元気になって洗礼式を迎えることができるようにお祈りください。

教会とは何か?という定義が、私たちの信ずる信仰告白にありますが、それによると

教会は、聖徒の会衆(congregatio)であって、そこで、福音が純粋に教えられ聖礼典が福音に従って正しく執行せられるのである。

とあります。

福音が聖書を通して正しく、純粋に語られる事。そして聖礼典、洗礼と聖餐が福音に従って正しく執行されるところが教会です。

その教会の大きな働き、洗礼式が出来る事は大きな、大きな喜びであります。

また、洗礼は

洗礼は救に必要であり、そして洗礼によって神の恩恵が提供せられる。

ルーテル教会は、洗礼はただ信仰を象徴的に表す場ではなく、神様が与えて下さった恵みの手段として・・・洗礼を受ける時・・・神様からの恵みによって救いが確かなものにされ。世世に渡って神の子としての救いの約束が与えられるのです。まさに人間の思いをはるかに超えた聖礼典の時なのです。

洗礼はそれぞれの皆様の人生にただ一回限りのものですが。

この恵みを受け続けるために神様から与えられた恵みの手段 聖餐を生涯受け続けるのです。

そのスタートが洗礼式です。なんと感謝な時ではないでしょうか?

さて今日の聖書日課です。

今日は富という事についてです。私はこの世の富という事については、あまり縁がないので説教準備しにくい箇所でした。

12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください」と言った。

12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」

今も遺産相続の争いというのはありますが・・・聖書の時代もあったようですね。私は、特に遺産相続と言う修羅場も体験もありませんが・・・兄弟で争うというのは見聞きします。

大体、遺産と言うのは本人が稼いだものではないですよね・・親からもらうもの、まあ元々ないようなものだったのに・・・親の死によって転がり

込んでくるもの。もともとなかったものなのに遺産があるとなると一気に欲しくなる。その気持ちはわからないでもありません。そこで兄弟で仲良く分ければいいのに・・・それがなかなかうまくいかないことがある。もめることがある。

人間の貪欲と言う罪の結果かと思います。

今イエス様のところに訴えに来ている人だって・・・兄弟が公平に分けてくれないと言ってきていますが。両方の話を聞いてみないとわからないものです。この人だけが正しいわけではないと思います。

歴史の中で遺産相続によって戦いになった事は山ほどあります。

身近でもあるでしょう。

イエス様はそんな事を解決するために私が来たのではないとはっきりと言います。

あなた方は富に心を縛られていますか?

もっと大切な事に心を向けて下さい。と言われるのです。

ただ聖書はこの世の富を、全く否定しているのではありません。私たちの衣食住を守られるのも神様ですし、

それは大切です。

小教理問答 主の祈りでは われらの日毎の糧をお与えくださいという祈りで、

第四の願い われらの日毎の糧を今日も与えたまえ。

この意味は。

答 確(たし)かに、神は、毎日の食物(しょくもつ)を、われわれの祈りがなくとも、すべての悪人(あくにん)にさえ、与(あた)えて下さいます。しかしわれわれはこの祈(いの)りにおいて、神がわれわれに、このことを知らせ、感謝(かんしゃ)をもって、毎日の食物(しょくもつ)を受けるようにしてくださることを祈るのです。

毎日の食物とは何ですか。

答 それは、肉体の栄養や、生活になくてはならないすべてのものです。

たとえば、食物と飲み物、着物とはきもの、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深い夫婦、信仰深い子ども、信仰深い召使い、信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、またよい友だち、信頼できる隣人などです。

ですから、富、財産は大切です。

しかし、必要以上に求める貪欲は罪であります。

12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

Ⅰテモ

6:6 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

6:7 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。

6:8 衣食があれば、それで満足すべきです。

6:9 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

6:11 しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

現代でもお金が一番大事。お金こそが正義と言う考えもあるでしょう。確かに大事かもしれません。

箴言には

30:7 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。

30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。

30:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

これって私が貧しい時、こころから祈った祈りでした。

本当にお金がない時・・・・・苦しいものです。

貧しくて盗みをしてでも生きたいとなりそうです。

30:8 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与え

ず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。

30:9 私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。

この切なる祈りはわかります。お金さえあればそんな悩みはなくなりそうです。

ただ人のいのちというものはお金があってもどうにもならないものなのです。イエス様はたとえ話をされます。

12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

有り余るほどのお金を持ったことがありませんので・・・ここの解説は難しいですが・・・・この金持ちは豊作の中で新しい倉を建てて、もう遊んで暮らせるようになったと喜ぶのです。

ただ彼は、永遠の世界。神様の前には全く富んでいませんでした。

この世では優雅に暮らせていても・・・・しかし、それさえ明日のいのちは誰にも分らないのです。突然難病になるかもしれないし、事故もあります。地震やそのほかの天災もあります。突然、隣国が暴発して戦争になるかもしれません。コロナになって重症化するかもしれません。このたとえ話のように今夜お前の魂はとり去られるという事が起きることもあるのです。

その時、自分のために蓄えても・・神の前に富まないものの運命は悲惨なのです。

金持ちとラザロと言う話があります。ルカ

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、

16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

16:22 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。

16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

まさに、12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

クリスチャンになって一番良かった事。それは私の救い主イエス様を信じて、罪が赦されて、神の子とされ永遠のいのちをいただいている事。これを思います。

たとえ、今が苦しい時でも、私にはイエス様がついていて下さる。たとえ今夜魂が取られることがあっても私は神様の元に行けるという事です。永遠の問題が解決しているのです。

自分だけこんな恵みの中でいてていいのかなあと思うものであります。だから何とかしてこの恵みに預かる人をたくさん与えて欲しいと・・・福音を伝えているのです。

ただ私たち人間はこの世の中に生きていますから、いつも、いつも永遠の事ばかり考えているわけではありません。

日々の生活があります。お金も欲しいです。美味しいものも食べたいです。それは神様の許されている自由な喜びです。

しかし、度を過ぎると

何事も貪欲に求めていくことは・・・また渇きを生むのだと思います。この世の富は飽くことを知らない。得てもまた求める。

まるでいくら飲んでものどの渇きが収まらない人のようです。

イエス様の水を飲む事。

この世の富は、又渇くのです。

ヨハ

4:13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

イエス様の水は永遠のいのちへの水が湧き出るのです。

私は今回の説教の中で、今日の聖書箇所の後を読んでいて・・・・これは永遠、神のご計画、を考えるにふさわしい箇所だと感じました。

ゆっくり読んでみます。読むだけで恵みが湧いてきました。

ルカ

12:22 それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。

12:23 いのちは食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。

12:24 烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。

12:25 あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

12:26 こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。

12:27 ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせ

ず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

12:28 しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。

12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。

12:30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。

12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。

12:32 小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

ここを読んでいて・・・ああ私は何もしなくても神様に愛されているから守られている。じっとしているだけでよい。食べ物も与えられるから・・・という事ではありません。

イエス様の十字架によって救われた私たちは、その恵みの中で神様に与えられた仕事をしていくのです。労働は神様から与えられたものです。

何にもしなくて・・・ただただ神様の恵みだけで生きていくことではありません。自分で働いてパンを得ることは主も勧められています。

Ⅱテサ

3:11 ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。

3:12 こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。

仕事をして、財産を得ることも大切です。

プロテスタントのクリスチャンの一つの大きな特徴に、働くことは神様から与えられた天職。それを勤勉に誠実に取り組むという事があります。

ですから。私たちが毎日、一生懸命お金を稼ぐために働くことは大切な事です。また祝福された事です。

たとえ話にあった豊作だった金持ちだっていい事をしていたのです。

ただ彼はそれを自分のためだけに用いた。

アメリカに行ってびっくりしたことは・・・・多くのお金持ちが稼いだ財産を人のために使う。社会に還元するという事が多いです。

鉄鋼王と言われたカーネギーと言う人も、大きな財産を持っていましたが立派なクリスチャンでいろんな施設を個人資産で作り、寄付しました。有名なカーネギーホールなんかもそうです。

財産を得た人は、それを神の前に富むように・・・社会に還元する。そんな文化は聖書の背景から来ているのでしょう。

まあ日本でもそんな人はいますが、それよりも自分のためだけになって行く。衣食があれば充分であると思いつつも

人はそれ以上に貪欲になってしまう事があるのです。

しかし私たちには財産以上に大切なものがあるのです。

いのち 永遠のいのちです。

12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

そして感謝な事にイエス様の十字架の救いで、私たちはどんなに貧しいものであっても。イエス様の救いを信じる時に神の子とされ永遠のいのちを与えて下さるという大きな、大きな恵み、福音が与えられているのです。

いのちは財産にあるのではないのです。

一人一人に神様から与えられたプレゼントしっかりと受け取って歩んでいきましょう。

自分のために富んでも、神の前に富まないものではなく

天に宝を積む人生を歩みたいものであります。

祈り

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