2022.7.17

説教箇所 ルカ10:38~42

説教題 一番大切なものそれは礼拝です

分解 38~39 マルタとマリヤ

40 マルタの憂鬱

41~42 大切なことは一つです

序論 先週は良きサマリヤ人の話で私たちもこういうことを思っていても行動できない自分が存在しているのにこうありたいと思うような話ですが良いサマリヤ人というのはイエス様本人しかできないことだということを自分自身が気づくことで自分には愛がないと認識して神様に祈り頼ることを勉強しました。今から30年以上前の話ですけど私が学生だった頃お金がなかったというのもありますけどガソリンスタンドで1年以上アルバイトをしていました。同じ学部の友達の紹介で入ったから学生のアルバイトだけで5,6人いたのですぐに溶け込むことができました。その中で先輩後輩という人間関係が成り立ちます。もちろんのこと私は後輩であります。しかし年齢がプラスマイナス2歳ぐらいなのでみんなが仲が良かったのを覚えています。なんでこんな話をするかといいますとガソリンスタンドにいますとお客さんがスタンドに入ってくると「いらっしゃいませ」と大きな声で出て行かなければいけません。

そして一人がお客さんのところに行き一人はレジのところに行きます。そして給油が終わると5千円からとか1万円からとか言ってお釣りを用意して給油をしてくれた人に渡します。そんな役割分担ができているのですがお客さんが多い時はそんな役割分担などなくなり一人に対して一人が対応することになります。そんな忙しい時に車が入ってくると先輩は私たち後輩に向かって「いらっしゃいませ」といいます。それは「客が来たぞお前らの中からだれか対応しろよ」ということで叫んでいました。私たちは口には出しませんがこっち向いて言うなよ、お客さんに向かって言えよと思っていました。わたしたちを見ずにお客さんを見ろよと思っていました。そんなことを思い出しながらマルタの気持ちもわかりますがマリヤの行動もわかります。マルタの行動がマリヤとどう違うのかイエス様の目線で考えたいと思います。

マルタとマリヤ

10:28「さて彼らが旅を続けているうちに、イエスがある村に入られるとマルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤ

という妹がいたが、主の足元に座って、御言葉を聞き入っていた。」とあります。マルタとマリヤそしてラザロの兄弟がベタニヤという村に住んでいました。このべタニヤ村というところはエルサレムから3kmほど離れたところにあります。歩けば1時間足らずで着きます。イエス様がエルサレムで伝道活動や人々の病気をいやされて帰ってくるところがマルタとマリヤとラザロのいる家でした。この日もエルサレムからイエス様がかえってくることが事前にわかっていました。そしてイエス様だけでなく弟子たちも何人いたかわかりませんがそのためマルタとマリヤはお客様を迎え入れるための食事や掃除をバタバタとしておられたと簡単に想像できます。だからイエス様が帰ってこられるまではマリヤもマルタ同様に給仕していたのでしょう。

ところがイエス様一行がマルタとマリヤの家に帰ってこられてイエス様が家の中で話し出されるとマリヤは給仕をやめてイエス様の話を座って聞き出しました。もちろんのことイエス様一人だけではなく弟子たちも一緒にいたので給仕をしているのはマルタだけになってしまいます。そこでマルタはマリヤの行動を見てしまいます。

そしてマルタの心はいらだちに変わっていきます。私たちも実家があります。何かあると正月や盆になると実家にいる親の元に兄弟とかその子供が集まります。総勢20人ぐらい集まります。集まる時間はばらばらですが長男の嫁や長女といった人は大変(昔は母親が仕切っていましたが)で前の日から料理の食材をあらかじめ買いに出かけて次の日の食卓に並ぶ料理を想像しながら買わなければいけません。それに伴って部屋の掃除や料理をしなければなりません。私たち男はというといったん腰を下ろすとみんなで話ばかりをしています。そればかりかビールはまだかとか料理はまだかとか偉そうにいうばかりで手伝おうとしません。でも横目で見ながら怒っているなとかはこころの中にありますがそれでも男たちは手伝おうとしません。そして女性陣は小さい子供たちは暴れまわり水をこぼしたりしているのをふいたりしなければいけません。そんなときの女性の言動はイライラしていてきつい口調になるのは当たり前だと理解できます。この光景はやはり段取りをしている女性にとっては見たくない光景かもしれません。ちょっとぐらいとかこの時ぐらいは手伝ってくれたらいいのにと何十回何百回思ったかわかりません。各家でのリーダーシップをとっていた人(女性)に聞くと一

目瞭然です。この中にも親戚の集うところにはリーダーシップをとっていた人がたくさんいると思います。そのリーダーシップをとっていた人がマルタの気持ちそのものです。

自分は正しいことをしているのに、だれも手伝ってくれない、だれも認めてはくれない、妹のマリヤでさえやることがまだまだあるのに自分の仕事を放り出してイエス様の話しているところにくぎで打ち付けたように足元に座って動こうとせず私(マルタ)がどんなに忙しくしていることがわかっていないということを実際わかっているのだけど見て見ぬふりをしていると考えてしまいます。

マルタの憂鬱

ルカ10:40「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、なんともお思いにならないのでしょうか?私の手伝いをするように妹におっしゃってください。」そして、ついにマルタの妹に対する怒りがイエス様に直訴するように発せられます。マルタ自体はイエス様をもてなすのが目的であったに違いありません。しかし結果としてイエス様に文句を言ってしまいました。40節で「みもとに来て」とあります。イエス様が弟子たちやマリヤの前でお話になっているところに割り込んできてという風に想像できます。だから言語のギリシャ語ではみもとに来るというのは「暴れ込んでくる」という訳になっています。ですから、この時のマルタの形相はものすごく怒っていたのでしょうし荒々しくそこへ割り込んできたのは間違いのないことです。イエス様をもてなすどころかイエス様に文句を言い、食って掛かる様子が手に取るようにわかります。誰でも心が落ち着かなくなるとか、心が騒いでいるとか、心が平安でないとかそういう心理状態の時は全くの反対のことをしでかしてしまうという典型的な例であります。

マルタが、こともあろうにお客様であるしイエス様に突っかかっていったときイエス様は彼女に対してどういう風におっしゃられたかというと41,42節「主は答えて言われた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。42節しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

イエス様はまずマルタにこういわれました。マルタ、マルタ、2回名前を呼ぶことは

マルタが落ち着かずに興奮していることを落ち着かせようとしています。そしてイエス様が直接おっしゃったことに落ち着きを取り戻しています。そしてイエス様はまたマルタに対して続けています。「いろいろなことを心配して気を使っています。」

とあります。そしてマルタの心は思い煩っていました。もともとマルタはイエス様が自分たちの家に泊まりに来られるのはうれしいことでマルタの心は善意でいっぱいでした。それは、彼女はイエス様に対する深い愛からイエス様や弟子たちの疲れを取ってあげたいという思いでいっぱいでした。しかし、マルタはイエス様を神様であるということを忘れていたかもしれません。ただの人と考えていたかもしれません。

ですから人に対するもてなししか考えていませんでした。「あれもしなければいけないとかこれもしなければいけない、だから自分一人ではできない。しかしマリヤはちゃっかり座り込んで御言葉を聞いている。何ということだ」マルタの嘆きが怒りと変わっていきます。

確かに私たちが生きていくうえでいろいろ必要なことや物事があります。家族も、仕事も、家事も、社会生活も、健康も、お金も、財産もみんながみんな大切なものです。

しかしそういうものに心をとらわれている限りはいつも不安で思い煩っていなければなりません。私たちの知らないことや想像もつかない困難や患難が襲ってきます。人間の力ではどうにもならないことが次々と起こってきますがイエス様が言われるどうしても必要なことではありません。

マルタはもちろんのこと善意の女性であります。そしてイエス様に対しては愛を実践する人でした。これをするとイエス様は喜ぶだろうとかこれを食べればイエス様は喜ぶだろうとか考えていました。それはイエス様が普通の人という考えがありました。イエス様に仕えるもっともよい方法はイエス様に対して何かをして差し上げる前にイエス様の語られることに耳を傾けてそれに従わなければいけないということです。

そしてマルタと違いマリヤはイエス様に対する考えが違っていました。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」イエス様はマルタにおっしゃられました。これはイエス様が神様ということがわかれば「人に奉仕するよりも神様に奉仕する方が大切です。」ということになってしまいます。それでは神様に奉仕するとい

うことは何だろうかと考えたところ礼拝するということに気づかされます。「マリヤはその良いほうを選んだのです。」ということをイエス様はマリヤをおほめになりました。マリヤはイエス様は人ではなく神様だということをマリヤの心の中の聖霊様が教えてくださいました。ですからイエス様がべタニヤ村の彼女たちの家に帰ってくるまではマルタといっしょに給仕に励んでいました。そしてイエス様たちがかえってくるとイエス様たちの旅の疲れをとって差し上げるもてなしよりも大切なことがなんであるかを知っていました。そういうわけでイエス様がおいでになるとイエス様の足元である特等席について聞き入ったのです。そしてこれこそが「本当に必要なたった一つのこと」です。このことから教えられることは礼拝こそが一番大切なことです。

クリスチャン個人の生活でも朝御言葉を聞いて生活が始まります。そして教会としても日曜日は礼拝を捧げています。これこそ神様への奉仕です。英語では朝の礼拝のことをモーニングサービスといい夕方の礼拝のことをイーブニングサービスというのは、そのためです。神様に仕えるということは神様のために捧げものをすることや神様のために何かをする例えば伝道や司会や会計ほかにもいろいろありますが本当に大切なことは神様を礼拝し、神様の御声を聞くことです。

マルタとマリヤの考え方の違いが現れた出来事でした。マリヤはイエス様のことを神様だという考えでマルタはイエス様を人としてもてなすことを考えていました。このことを通して一番重要なことは神様を礼拝するということです。神様をもてなすということは神様の御声を聞くことすなわち礼拝するということです。

イエス様は「重要なことはたった一つです」とおっしゃられました。このルカの福音書ではそれが何かということは明記されていません。しかし、マルタにはイエス様のお言葉を聞くことが一番に優先されそのあとでもおもてなしはできるようにイエス様は優しくマルタに対して対応したようです。「マルタ、マルタ」と2回優しく諭すようにおっしゃったように文脈から察することができます。

このマルタとマリヤの出来事はルカの福音書の19章付近で起こったことだと推測されます。しかし、ルカは良きサマリヤ人のたとえの話の後にこの出来事の記事を織り込みました。ルカの福音書のうたい文句である起こった出来事の順番に書いているということを無視して10章にわざわざ織り込みました。なぜルカが自分のこだわ

りを破ってでもここにこのマルタとマリヤの記事を書いたのかを少しばかり考えていきたいと思います。

ひとりの律法学者がイエス様を試そうとして質問してきました。その律法学者は、どうしたら救われるのかとイエス様に質問しました。イエス様は逆にその律法学者に「律法にはなんと書いてありますか」と質問なさいました。するとその律法学者は

「神への愛と隣人への愛」と答えてその答えが正しいとイエス様から認められました。しかし、イエス様は彼が頭ではそのことをわかっていても実行できていないことを指摘すると私は実行しているという今風の表現をすればアピールしていました。そしてイエス様に「私の隣人とは誰のことですか?」と質問します。その時にイエス様は良いサマリヤ人のたとえの話をなさいます。そしてイエス様は祭司とレビ人とサマリヤ人の3人の行動からだれがその強盗に襲われた人の隣人になったのかと律法学者に質問します。すると律法学者は「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えます。そしてイエス様はその人に「あなたも行って同じようにしなさい。」とおっしゃいます。言い換えれば「あなたもこのサマリヤ人のように本当に隣人を愛してみようと思って行動しなさい。そのことが自分の力だけでできるかどうかはわかりません。」ということです。本当は私たち人間は生きていけばいくほど自分に愛が足りないという経験をしていきます。そしてその場にいると自分自身に落ち込むか他人が悪いと責任を人に擦り付けてその場をしのぐようになります。自分自身に落ち込むのは自分の力のなさからです。言い換えれば愛のなさをきずかしてくださいます。聖霊様がです。そこで私たちは祈りということを行動に移します。自分にはできませんからイエス様助けてくださいと。それがクリスチャンとして生まれ変わった人とクリスチャンでない人の違いです。そしてその試練を乗り越えることが

できるのです。いや神さまとイエス様が乗り越えさせてくださるのです。本当にこの良きサマリヤ人は私たち罪で汚れた人にはできないイエス様のたとえであります。

イエス様自身の例えであります。

この出来事の後でこのマルタとマリヤの話を置いたことは隣人を愛することはまず最初に神様を礼拝することから始まらなければいけないということがルカ自身言いたかったのかもしれません。自分の知恵や知識や力で隣人に対する愛を実践しようとしてもそれはイエ

ス様が喜ばれることではなくこの律法学者のように律法主義的なことでしかありません。律法主義といいますとまず義務感から来ます。義務というのはしなければいけないという窮屈なことです。窮屈なことに喜びなどありません。そして人の評価を期待します。ですからこのマルタのように愛の実践を行っているのにいつの間にか怒りだしてしまうことです。

しかしマリヤはまずイエス様の話を聞いています。このことが神様を礼拝するということです。このマルタとマリヤの出来事からだれでも人間は神様に喜んでいただく道がなんなのか全くといっていいほどわかっていない生き物です。このことは罪というものに支配されていることで神様と出会わなければ解決もしないし神様に教えてもらわなければいけないし何よりも神様からこの罪というものをとってもらわなければいけません。そのことを教えてくださるために天から下りてこられたのがイエスキリストさまです。

私たち人間が神様がどういう風に考えているかは全くわかりません。だから人間は自分本位で好き勝手なことをしてしまいます。その中で神様とはこういうことを考えこういう行動をするのだよということをお示しになったのがイエスキリストさまです。わかりやすく言うと私たちを犬の集団と例えましょう。犬は人間(飼い主)の気持ちなどわかりません。しかし、私たち人間は全部ではないですがある程度犬がおなかが減っているのかトイレに行きたいのか犬の行動を見れば予測はつきます。

だから私たちに良くなってほしいと神様は犬の形をとってこの犬の行動や言動を手本にして私たちに見せてくださいました。それが人間の形をしたむつかしい言葉でいうと受肉したイエス様です。今のたとえでいうと犬なら犬の形をすれば手本になりまねることができると神様は考えました。イエス様は神様です。その神様が人となり父なる神様が私たち人間を愛してやまないから罪から救いたいがゆえにたった一人の御子に人間の形になりその御子を十字架上で死刑に処されました。そして神様ということを証明するように復活されました。人は蘇生するということはあります。生き返るということです。しかし蘇生した人もやがては死んでしまいます。しかし、復活は死ぬことはありません。なぜなら神様だからです。その神様を私たちはマリヤのようにこのお方の足元に座ってその言葉を聞いて礼拝することができる感謝を人に伝えていきたいものです。

先週の恵み

先週は良きサマリヤ人の話でした。私たちもこのように生きていきたいと思うよう

人でした。よくよく考えるとこのようなことは私たち人間ができることもありませ

ん。そこでこのようなサマリヤ人のように隣人を愛するのはイエス様だからできることとして理解できます。今回はマルタとマリヤの話です。イエス様一行はエルサレムでの伝道活動や人々の病気をいやすお仕事を終えるとべタニヤ村にあるマルタとマリヤの家に宿泊なさるために来られました。イエス様一行が家におつきになるまではマルタとマリヤは何人ものお客さんが来るということで掃除や料理という給仕に忙しくしていました。しかしいざイエス様たちが帰ってこられてそしてイエス様が話し出されると、妹のマリヤはイエス様がお話になっている前で座って動こうとしません。それを見た姉のマルタは「自分だけ忙しくしているのに妹は何しているの」

という風に心を煩わせながらイエス様に直訴します。しかしイエス様は「マルタ、マルタ」とマルタの名前を2度優しく呼んで落ち着かせます。そしてこうおっしゃられます。「しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや一つだけです。」といいます。マルタはイエス様のことは偉大な先生と思っていたのかもしれません。いうなれば人間です。だから人に対してのおもてなしをしていました。しかしマリヤの思っていることは違いました。マリヤはイエス様を神様と思っていましたからイエス様の話を聞くということは礼拝を捧げていることでした。そしてマリヤは何よりもイエス様の言葉すなわち礼拝を優先していました。私たちも何よりも礼拝を優先したいものです

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