2022.6.26

聖書箇所 ルカ9:51~62

説教題 イエス様の問いかけ

分解 51~55 弟子たちの行動

56~58 枕するところもない

59~60 父を葬ること

61~62 いとまごいをする

序論 私たちクリスチャンはみ言葉によって慰められることがあります。豊島先生が良くお話になるみ言葉は第一コリント10:13で私も大好きなみ言葉です。あなた方のあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」という御言葉です。つい最近南大阪聖書教会(私が洗礼をイエス様から授かった教会です)の友達と3年ぶりぐらいに会いました。その友達は道で突然倒れて救急車に意識のないままのせられて40日ぐらい入院していました。しかし利き手である右手のマヒが残ってしまいます。私と会った時もアームホルダーが痛々しく思えました。しかしお好み焼きが出てくると左手で食べる彼を見ると右利きなのに左の手で箸を使う彼の姿を見ながら年も私と同じくらいなのでなれるのに時間がかかったようなことを勝手に思いこのみ言葉を思い出しました。そしてお好み焼きを食べながら昔の話をしていました。その中で当時の主任牧師の語った言葉を二人で思い出していました。それは「クリスチャンになったからといって人生の苦労がなくなったと思わないでください。むしろ苦労が増えると思ってください。」ということを二人でその通りだと「神様は私たちには厳しいな」と笑いながら話していました。私自身もみことばによって慰められます。その御言葉はマタイ6:34「だから明日のための心配は無用です。明日のことは明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。」自分自身で壁にぶつかったときや困難が訪れたときにこの御言葉を思い出します。そして一呼吸おいて今すべきことは何かと考えこの苦境に立たされているときに物事の優先順位をつけることができます。そしてその日に精一杯のことをして次の日に備えるようになりました。そんなことは一度や二度ではありません。ある意味脱出の出口を与えてくださいます。このように自分自身いきずまった時に慰められるやさしい御言葉があります。しかし、自分自身が傲慢で調子に乗って行動をしたとしましょう。その行動はプラスに出るといいのですがいい言葉でいうと波に乗るという言葉ですがマイナスに出ることが多々あります。その時に与えられる御言葉は慰めのみ言葉ではなく戒めの御言葉です。きびしい御言葉です。今日はこの厳しい御言葉の話をします。先週は8章からでした。イエス様がガリラヤから異邦人の地ゲサラ地方に出て行き悪霊につかれている人一人をいやすために出て行かれてその人をいや

されました。次の9章はガリラヤにお帰りになってそしてまたサマリヤという異邦人の地、いわばイスラエルからすれば外国の地に出向かれました。

弟子たちの行動

何回も言っているかもしれないですけどルカの福音書の1:3「私も(ルカのことです)すべてのことをはじめから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ様。」というのはマタイにしろマルコにしろヨハネにしろ順番にはこだわりを持たずに前後はばらばらに執筆されていることが多々あります。しかしルカだけは起こった順番に執筆しています。だから福音書でもルカの福音書が水先案内人のような役目をしています。このことは福音書を書いた人の中で唯一の異邦人でありギリシャ人です。そして使徒の働きも執筆されパウロと行動を共にしていました。しかもルカの職業はお医者さんでした。だから、金持ちの人との知り合いもたくさんありました。しかし反対に貧乏人の病気に苦しむ光景もたくさん見てきました。だからといってはどうかと思いますが心なしか福音書の中でも金持ちと貧乏人の比較が多いように思えます。

それではルカ9:1、2を見ていきますと「イエスは十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから神の国を宣べ伝え病気を直すために彼らを遣わされた。」とあります。そして9:6「十二人は出かけて行って、村から村へと回りながら至る所で福音を宣べ伝え、病気を直した。」

イエス様は弟子たちに福音を伝える力と病気の人を直すのに必要な力をお与えになりました。そしてそのあと9:10~17説まで唯一4福音書すべてに記載されてある5000人の給食の奇蹟がありイエス様はペテロの信仰告白の後に22節で「人の子は、必ず多くの苦しみを受け長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ殺されそして三日目によみがえらねばならないのです。」と、ご自分が十字架にかかって復活することを弟子たちに語られます。そして28~36まででペテロとヤコブとヨハネを連れて山に登ります。するとそこにいたのはイエス様だけでなくモーセとエリヤが居ました。そして一行が山から降りてきたときに38~40説で「すると群衆の中から、一人の人が叫んでいった。

「先生お願いです。息子を見てやってください。一人息子です。ご覧ください。霊がこの子に取りつきますと突然叫びだすのです。そしてひきつけさせてあわを吹かせ、かきさいてなかなか離れようとしません。お弟子たちにこの霊を追い出してくださるようお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。5000人の給食の前にはできていたことがここではできなくなっています。そして46説では「さて弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」とあります。このところは想像

なのですがこの子供のいやしをできなかったのはペテロとヤコブとヨハネ以外の9人の弟子達だったと思われます。そしてイエス様は47~48説で「しかしイエスは彼らの心の中の考えを知っておられて、一人の子供の手を取り自分のそばに立たせ彼らに言われた。誰でもこのような子供を私の名のゆえに受け入れる者は、私を遣わされた方を受け入れるものです。あなた方すべての中で一番小さいものが一番偉いのです。という答えを出されました。そして今回の聖書日課の箇所に入ります。

51節から見ていきましょう。「さて天に上げられる日が近ずいてきたころ、イエスはエルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、」とあります。イエス様がまずガリラヤから伝道を初めて働きを終えられてエルサレムに向かっていかれることになりました。イエス様は弟子たちに繰り返し語られたように、ご自分が間もなくエルサレムで殺され、それから復活して、昇天して父のみもとにかえることを自覚しておられたため御顔をエルサレムにまっすぐに向けられました。

ガリラヤからエルサレムまでは地図で見る限り直線距離で130kmぐらいでふつうは3日ぐらいで行けるということでした。だから途中どこかに泊まらなければいけません。もちろんのことユダヤ人とサマリヤ人は付き合いがなかったからガリラヤの人たちはサマリヤを避けてエルサレムに向かいました。しかし急用を要するときはここを通るということがありました。しかし基本的にはサマリヤは避けて通ったようです。ちなみに日本の場合、大きい都市と大きい都市の間は大体60kmぐらいに造られています。

昔、車も電車もない時代に歩いて町々を行き来しなければいけないときに人が一日歩くのがおよそ60kmといわれています。だから宿場町はおよそ60kmごとにありました。造られたという方がいいです。大阪と和歌山がおよそ60km離れています。大阪と神戸は30kmですが神戸と姫路は60kmです。姫路と岡山は50~60kmです。

52~53節「ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町に入りイエスのために準備をした。しかしイエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたのでサマリヤ人はイエスを受け入れなかった。」とあります。

そこでイエス様は弟子たちの中から使いのものを選び宿泊などの準備をさせることにしました。しかしサマリヤの町の人々は歓迎しませんでした。

サマリヤの町の人はイエス様の噂は聞いていたと思われます。しかし彼らは病人や悪霊に取りつかれた人を連れてきませんでした。私たちが知っているイエス様はユダヤ人がどうであれ異邦人がどうであれまたどんなに急を要することがあっても執拗に求めてくる人がいる場合その求めや要求を断られたことは一度すらありません。でもその町の人たちはイエス様一行を歓迎しませんでした。そのことを知ったヤコブとヨハネは54節「弟子のヤコブとヨハネはこれを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」ヤコブとヨハネは兄弟です。

最初のところで触れたことですけど。何もかもうまくいっているときは傲慢になる危険性があると言いました。ここからは私自身の想像がかなり入ってきます。なぜ9章最初から触れたかといいますと聖書の箇所を先生から教えてもらいますと大体最初に聖書日課の箇所を読みます。私自身聖書の解釈において全然自信がないので少なくとも5回は読みます。しかし、まったく答えが出てこない場合がほとんどです。しかし、時間は過ぎていきます。この箇所の答えを導くには少し前から読んでいくのが身に付きました。そして少しずつ前から読むようになり今ではその章の最初から理解を深めるようにしました。そこで9章6節で12使徒たちはイエス様から力と権威が与えられました。その結果「村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え、病気を直したとあります。」このことを行ったのはイエスさまではなく力を与えられた12使徒たちでした。普通の人たちです。そして5000人の給食の時にはイエス様だけではなく使徒たちもパンをさいたと思われます。なんせ男だけで5000人いたのですから。実際は女の人や子供を数えると一万人ぐらいいたと考えられます。またイエス様と同じように弟子たちも祈ってぱんをさいたと同時にまた同じ大きさになっているパンを見ることができる奇蹟を目の当たりにした人たちです。普通の人間であるとこれは自分の力だと勘違いします。自分がパンを割ったのですから。

そのあとイエス様はモーセとエリヤに会いに山にペテロ、ヤコブ、ヨハネ3人を連れて行きます。この弟子3人はモーセとエリヤどちらもユダヤ人からすると英雄です。憧れの人です。嫌いな人など一人もいない人です。この方に出会えたから3人は「私たちは特別だ」と思っても仕方ありません。そしてイエス様と3人が山から下りてきたときに問題が起こります。9:40「お弟子たちに、この霊を追い出してくださるようにお願いしたのですがお弟子たちにはできませんでした。」その言葉をイエス様と3人は聞いていました。そしてイエス様から発せられた言葉が41節「いつまで、あなた方といっしょにいて、あなた方に我慢していなければならないのでしょう。」という言葉です。その言葉は悪霊を追い出せなかった弟子にも言ったことですが12弟子全員に言った言葉のようです。

ヤコブやヨハネは自分なら悪霊を追い出せると思ったかもしれません。そして46節「弟子たちの間に、自分たちの中で誰が一番偉いかという議論が持ち上がった。」

この言葉はイエス様を落胆させるのには十分でした。しかしやはりイエス様です。「あなた方すべての中で一番小さいものが一番偉いのです。」という言葉を残されました。

しかしヤコブとヨハネのこの言葉です。「歓迎されなかったサマリヤの人たちに対して私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」という言葉です。

ここで天から火を呼び下して、イエス様たちを受け入れなかったサマリヤ人たちを焼き滅ぼすということにどれだけの意味があるのでしょうか。イエス様がこの世に来られた目的は人を滅ぼすためではなく、むしろ救うためです。そのことが二人の弟

子たちにはわかっていませんでした。

今日でも超自然的な力を発揮することに特別な意味を持っていると思っている人がいます。超能力に惹かれるということは自分が無力であるということを知っているというにはありがちです。しかしイエス様のなさった奇蹟では救いに関係のないものはたったの一つもありません。だから人を焼き滅ぼすのにどれだけの意味があるのか全くわかりません。

イエス様はご自分を歓迎しない人たちを滅ぼすために天から下りてこられたのではありません。もしも滅ぼすのが目的であれば救われる人は一人もいないのは一目瞭然です。みんながみんな罪のために神様に背いているのは明白です。反逆しているものです。それにもかかわらずその反逆するものの罪を身代わりに背負って十字架上で自分の命をおささげになったということが分かったとき私たちは主イエスを自分の救い主として信じ受け入れたのであります。そんなイエス様が55節「しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。」とあります。

振り向いてにらみつけて叱られた、ようです。

枕するところもない

9:57「さて彼らが道を進んでいくと、ある人がイエスに言った。「私はあなたのおいでになるところなら、どこにでもついていきます。」58節するとイエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥にはすがあるが、人の子には枕するところもありません」

人はだれでも心の憩いの場が必要です。それがないとどこかで嫌になります。そしてふつうは家庭であります。どんなに楽しい仕事をしていてもその時は一生仕事していたいと思っても家に帰る時はうれしいものです。そして、家に着くと心は休まります。要するに自分の居場所はここです。といえる場所です。しかし今日自分の家が憩いの場でなくなっているケースがあります。心の落ち着く場所がなくなると精神的に不安定になります。しかし、「人の子には枕するところもありません。」この意味は私たちには寝ることがないということを覚悟しなさいよという意味です。

イエス様の弟子になる人にとっては、そういう心の憩いの場をこの世に求めることはできないのだとイエス様はおっしゃられました。そして、憩いの場所がなくなるとイエス様はこうおっしゃられました。マタイ11:28~30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。29節わたしはこころ優しくへりくだっているから、あなた方も私のくびきを負って、私から学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。30節わたしのくびきは負いやすく、わたしのには軽いからです。」イエス様の弟子になろうとする人は楽しいと言えるまでは時間が必要です。人は成長するのに時間がかかるものです。以前の教会の主任牧師が言った言葉を思い出します。「クリスチャンになったからといって人生の苦労がなくなったと思わないでください。むしろ苦労が増えると思ってくださ

いという言葉が思い出されます。そうして試練や苦労の真っただ中にいるときにこのマタイ11:28や第一コリント10:13を思い出しましょう。

父を葬ること

次にイエス様はご自分の方から別の人にこういわれました。「私の弟子になりなさいです。そしてどういう道筋を通ったかは人それぞれですが教会に集っていることはイエス様からの問いかけにこたえた証拠です。しかし、この人はどう答えているかといいますと9:59「するとイエスは別の人に、こういわれた。「わたしについてきなさい。」しかしその人は言った。「まずいって、私の父を葬ることを許してください。」60節「すると彼に言われた。「死人たちに彼らの中の死人たちにほうむらせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」なかなか難しい解釈ですけど、この人が言っていることは父を葬ることとは、この人の父親がつい最近亡くなりました。そのために葬式をしなければいけません。だから私の父を葬らせてくださいというのは父の葬式をさせてくださいという意味です。しかし、イエス様は葬式も大事だけどもっと大事なことがありますよといっています。それは「神の国を言い広めることです」といっています。ここで「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」というイエス様の言葉です。イエス様の言う死人とは霊的に死んでいるという人すなわちクリスチャンでない人のことを言っています。ですから葬式はクリスチャンでない人に任せなさい。あなたは、神の国を言い広めなさい。ということです。私たちクリスチャンは本当のことを言うと死後も復活の希望がありますから葬式にこだわりを持つ必要があまりないような気がします。イエス様を救い主と信じることができれば永遠の命を持つことになります。人が救われるということはその救われた人に永遠の命が与えられることの方が大切だとイエス様はおっしゃられるのです。

いとまごいをする

61、62節を読みますと「別の人はこういった。「主よ、あなたに従います。ただその前に、家のものにいとまごいに帰らせてください。」するとイエスは彼に言われた。「誰でも手を鋤につけてから、後ろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

いとまごいとはさよならを言うということです。この3番目の人は2番目と同じでイエス様から弟子になりなさいと言われた人と思われます。「手に鋤をつけてから後ろを見る者」とは畑を耕している時手に鋤をつけてから後ろを見れば畑を真直に耕すことができません。そして曲がっていってしまいます。神の国の働きをしようとしながらこの世のことに心がひかれていくようでは神の国の働き人にふさわしくないのです。この人は家族の人にさよならを言いに行かせてくださいと言っています。このことは別にいけないことでもありません。二足のわらじはいけないよとイエス様は言っているような気がします。

イエス様の弟子になる人はこの世の名誉や富や地位といった人が欲しがるようなものを期待してはいけないと言っている気がします。結果として神様が与えてくださ

るのはよいことです。しかし私たちはこの名誉、富、地位を与えられると自分は何でもできると傲慢になるのは目に見えています。だからこの箇所は私たちにとってとても耳の痛い話です。やはり名誉も富も地位も手に入れたいと思うものです。二足のわらじよりも三足四足と履いてしおうとします。そこで神様は私たちの行動にくさびを打ち込みます。試練というものです。辛いものです。しかし私たちは弱いものですけど祈っているといつの間にかその試練から脱出するか重荷を負ってイエス様のところに勝手に導かれています。そして、自分も行動しますがイエス様が心優しくへりくだっておられるお方だから私たちを休ませてくださいます。私たちの傲慢は明らかに御心ではありません。しかし、試練ということを通して私たちをへりくだることを覚えさし悔い改めに導くことです。「むしろ苦労が増えるということです。

最後にローマ書5:3,4を読んで終わりにします。

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し忍耐が練られた品性を生みだし練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」

先週の恵み

私たちクリスチャンはみ言葉によって慰められることは多々あります。豊島先生が良くお話になる御言葉は第一コリント10:13「試練とともに脱出の道も備えてくださいます」という御言葉です。今日は慰められる御言葉ではなく戒めのみ言葉です。

前の教会の主任牧師が言っていた言葉で「クリスチャンになったからといって人生の苦労がなくなったと思わないでください。むしろ苦労が増えると思ってください」ということをいやというほど経験して今に至ります。ルカ9章から見ていきますと弟子たちはイエス様に力と権威を与えられて御言葉を宣べ伝えて人々の病気を直していきました。しかし、いつしかその力と権威がなくなります。しかし、どんなことでもできていた弟子たちはだれが一番偉いかという議論をし始めます。しかしイエス様は「あなた方すべての中で一番小さい者が一番偉いのです」とおっしゃられます。しかし、ヤコブとヨハネはイエス様一行を歓迎しなかったことで「私たちが天から火を呼び下して彼らを焼き滅ぼしましょうか」といわれます。その言葉にイエス様は彼らを叱ります。そして三人の人に問いかけます。一人目は人の子は枕するところがないと言われました。寝るとこもないぐらいの覚悟があるのかといわれました。二人目は父親の葬式に出たいのでという理由でした。イエス様は葬式はほかの家族に任してあなたは神の国を言い広めなさい。とおっしゃられました。三人目は家族にさよならを言いに行かせてくださいと言いました。しかし、この世のことより神の国を優先しない人は神の国にふさわしくないとおっしゃられました。私たちはこの世のものを神様のことより優先してしまいます。しかし、本当はイエス様は神の国のことを優先してほしいはずです。そういう風に行動できるように祈っていきたいです。

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