2022年6月12日

説教題「三位一体の主こそが福音」

聖書箇所 ヨハネ16:12~15

16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

16:14 御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

16:16 しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」

おはようございます。

本日は三位一体主日礼拝です。

先週は聖霊降臨祭(ペンテコステ)でした。それまでは、誰にでも聖霊が与えられるのではなく、特別な人に聖霊は与えられるけれども、一般の人・・・下々の人には聖霊は与えられていませんでした。

たとえばダビデとかアブラハム、モーセなど信仰の偉大な人たちは神様との会話もできました。

しかし、ペンテコステ以後…今の時代もそうですが、イエス・キリストを信じるすべての人に聖霊が与えられる事になったのです。

すなわち、ペンテコステ以後は、父なる神、子なるキリスト、助け主なる聖霊 この三位一体の神様の時代なのです。

それを記念して本日は三位一体主日礼拝です。

毎年、三位一体主日には三位一体の説明をしています。

三位一体の教理の基本について、「いのちのことば」社発行の聖書教理ハンドブックから引用させてもらいます。

三位一体 三位一体と言う言葉は、聖書には現れてこない。しかし、聖書は、神が父、子、御霊の三位格を持っておられると教えている。

「この三位は一体の神であって、本質において等しく、力と栄光において同等である。」

新約聖書では少なくとも三か所において、三位格が一緒に述べられている。すなわち、マタイ3:16 父なる神の声が聞こえ、子なる神がバプテスマを受け、聖霊なる神が鳩のように現れたというイエス様の洗礼の記事においてです。

マタ

3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

また、救い主イエス様が弟子たちに対して「父と、子と、聖霊との名によって」人々にバプテスマを授けるようにと教えられた偉大な任命において、大宣教命令と言われていますマタイ28:19

マタ

28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

「主イエスキリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりとがあなた方にあるように」との祝祷においてです。

Ⅱコリ

13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

この三つには明らかに三位一体の主が現れています。

しかし、この三位一体の神と言う教理は、「この三位は一体の神であって本質において等しく、力と栄光において同等である」という事は考えれば考えるほど難しい概念です。

このハンドブックはうまくまとめていて、私はこのまとめ方にいつも感動し教えられています。

人間の知恵では、三位一体の奥義を十分に理解することはできない。三位一体を十分に理解しようと思う者は、頭がおかしくなるであろう。

しかし、三位一体を否定しようと思う者は、霊を失うであろう。

とあります。

それゆえ私は三位一体を十分に理解しようとするのではなく、私の霊で受け入れてきたのです。それで40年以上なんの問題もありません。

このことは人間の理解を超えた神の奥義であると信じています。

ですからクリスチャンであることは三位一体の主を信じるのです。よくわからないけど信じているのです。

私は三位一体の主を信じて本当に良かったと思います。

もし父なる神様だけだったら・・・・怖いです。正しい神様の前に出れるような私ではありません。ですから神様の掟、律法を完全に守ることによって神様の前に出ようとしたり、いけにえを携えていきます。それでも自分の犯した罪は自分でわかるゆえに・・・父なる神様の前にはそのままでは出られないのです。

でも私の罪を十字架によって、代わりに罰を受けてくれた方、イエス・キリスト(子なる神)がいてくれるので、私は喜んで神様の前に行くことができるのです。なんと感謝な事でしょうか。

2000年前にイエス・キリストが十字架にかかり、私たちすべての人の罪を赦す道をつけてくれているのですが・・・人々はそれを知りません。

私も知りませんでした。ですからその事を伝える、教える人が要ります。それは人間の働きです。

でも人が語ることで父なる神、子なる神(救い主キリスト)の事は理解できません。それをわからせてくださるのが聖霊なる神様であります。

父なる神がいて、子なる神キリストがいて、2000年前に十字架で、すべての人が赦される道を作ってくれた。その事実があります。

でもそれを伝える人、また人の心に教える方がいなければならないのです。それが聖霊なる神です。

例えば、法律に詳しい人ならば。現代でもいろんな補助、支援制度があることがわかるかもしれませんが・・・・素晴らしい制度ができていても、実際それを知って、益を受けている人はそう多くはないという事があります。それは人々が知らないからです。日本の役所なんかは役にたつ制度があっても、わざわざ困った人には知らせません。申請した人だけに制度を適用しています。あなたは困っていませんか?こんな素晴らしい助けの道

がありますよ。とは役所からはあえて言わない。いや役所からすれば広報などに載せています。と弁解しますが・・・・困った人には、聞かない限り、申請しない限り適用はされないようになっています。

世の中の事もなんでもそうかもしれません。

父なる神様が、人を愛していますが、罪を犯している人間をそのままでは赦すことができないゆえに、ご自分のひとり子、イエスキリストを送られ。キリストが十字架にかかって私達の罪のために身代わりに死んでくださいました。それゆえ、キリストを信じる者は、その罪を赦され神様の前に義なる人間として・・・神の子として生きていくことができる。

そんな素晴らしい約束があります。

人間の救いの道は、もうすでに完成しているのです。

イエス・キリストの十字架と復活で完成しているのです。

いわば素晴らしい救済制度が既にあるのに、多くの人はそれを知りません。

知らないと受けることはできません。

聖霊様は、その宣伝マンみたいな役割に私は感じています。

聖霊様が働いて、何も知らない、無知で、頑固で、かたくなな私をキリスト様に合わせて下さったのです。イエスキリストが私のために死んでくださり、キリストを信じる者に救いを与え、永遠のいのちを与えてくださる。

ヨハ

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

これは私のためでもありますと教えてくれたのです。

ですから父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神が三位一体の神としてあるゆえに私は、あなた方は救われているのです。

父なる神、子なる神(イエスキリスト)そして聖霊なる神が三位一体としているからこそ福音なのであります。福音とは三位一体の主の事であります。

今日の聖書日課からも三位一体の神様が見えてきます。

16:12 わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。

人間の知恵では受け入れられないことがイエス様の言葉の中にあるのです。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

御霊(聖霊)私たちをわかるように導いてくださるのです。

16:14 御霊はわたしの栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。

御霊はイエス様の栄光を私たちに教えてくれます。

16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

父のもっているものは皆私のものです。ここにも三位一体が見えています。

毎年この三位一体主日の前は、とりわけ考えます。説教で皆さんにいかに三位一体の主を説明できるかと悩みます。一週間、いろいろと考えます。

例えば、私の信じる神様は、お父さんのような力強い神様だったらいいなあ。全知、全能の父なる神様。でもそれだけだったら怖いから、やさしく包み込んでくれるお母さんのような方だったらいいなあ。そして私の悩みを聞いてくれる兄弟のような神様だったらいいなあ・・・と三位一体を考えます。お父さんであり、お母さんであり、お兄さんである神様

でもこれでは神様が三人いることになります。お父さんとお母さんとお兄さんは別々の人、人格なのです。一つの考えではないのです。

三位一体ではない。三位三体の神なのです。

三位一体の神?

良く説明に使われる例で、私は一人ですが。父から見ると私は子供。奥さん方見ると夫、子供から見ると私は父なのです。私の役割は、父であり、夫であり、子供であります。三位一体の神様の説明になるかな・・・。

でも、それは三人の人に対して私は一人ですが・・・・・

ひとりの人に対しては、三位は持っていない。子供にとっては私はお父さんでしかないのです。夫でもないし・・・子供でもない・・・・。

ああああ。ややこしい・・・三位一体の神ってどんなことですか???

本当に難しいでしょ。確かに

人間の知恵では、三位一体の奥義を十分に理解することはできない。三位一体を十分に理解しようと思う者は、頭がおかしくなるであろう。

しかし、三位一体を否定しようと思う者は、霊を失うであろう。

との結論がまさにそうだなあ・・うまいこと言っているなあと思うのです。

私の頭では十分に理解できない。理解しようとすれば頭がおかしくなる。

でもこれは否定するものではなく。受け入れる教理なのだという事です。

三位一体の主を信じる事こそまさに福音であるからです。

さて、私達が毎週礼拝の中で告白している使徒信条 これも三位一体の神様を告白しているのです。

使徒信条とは、キリスト教ができた最初の頃・・・周りにはユダヤ教や、ギリシャ哲学、その他異端的な教えなどがありました。クリスチャンたちは、私達はこういう信仰を持っています。信仰告白を作り、それを唱え、伝承してきたのです。いわば私たちは聖書をこう理解し、イエスキリストを、救いをこう理解しています。との自分たちの信仰をはっきりさせるために。

異端の教えから守るためにつくられたものです。それを今も毎週礼拝の中で告白しているものです。いわば信仰の真髄が詰まったものです。

我は天地のつくり主、父なる全能の神を信ず。

我はそのひとり子、

我らの主イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、

おとめマリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、

十字架につけられ、

死して葬られ、よみに降りくだり、

三日目によみがえり、天にのぼり、

父なる全能の神の右に座したまえり、

生ける人と死にたる人とを

さばかんがため、

かしこより再び来たり給わん。

我は聖霊を信ず。

また聖なるキリスト教会、即ち聖徒の交わり、

罪のゆるし、からだのよみがえり、

かぎりなき生命を信ず。

アーメン

すなわち使徒信条 私達の信仰告白は

父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神

三位一体の神を信じますと告白しているのです。

ですから厳密には私達が信じる神はイエス様だけでもなく、父なる神様だけでもなく、聖霊なる神様だけでもなく

三つの位格をもつ唯一の神 三位一体の神を信じているのです。

このことは、日頃は考えることが少ないように思いますが・・私たちの神は三位一体の神であるという事。三位一体主日に覚えたい事であります。

その事の中に福音の本当の喜びがあるのです。

私は、ただ素直に三位一体の主を受け入れて生きているのです。

祈り

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