2022年5月8日

説教題「わたしと父とは一つです」

聖書箇所

ヨハネ10:22~30

10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。

10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。

10:24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」

10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。

10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

10:30 わたしと父とは一つです。」

おはようございます。

先週は、イエス様がペテロさんに語り掛けた感動的な箇所でした。

イエス様を先生と慕い、イエス様にどこまでもついて行きます。と決心したペテロさんが、実際にイエス様が捕らえられた時、「あなたもあの人の仲間でしょう!」と言われた時、自分の身の安全を考え、私はあの人を知らない!と言ったペテロさん。

どこまでもついて行きますと言ったペテロさんの気持ちに嘘はなかったはずですが・・・実際に危機になると逃げてしまった自分があるのです。それも三回もイエス様を否定して・・・人間の弱さを覚えます。そしてこれはペテロさんだけでなく私にも起こりました。皆さんもそうかもしれません。人間と言うのはそんな罪深いというか弱さを持っているのです。

その事で落ち込んでいたペテロさん。復活したイエス様に会わせる顔もないと

考えていたペテロさん。イエス様の弟子としてふさわしくはないと考えていたペテロさん。

しかし、イエス様はそんな事はとっくにお見通しだったのです。それでもペテロさんを愛し、ペテロさんに期待して、私の羊を飼いなさいと使命を与えるのです。

イエス様はペテロさんがどんなになってもその信仰が無くならないように祈って下さっていたのです。

ルカ

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

イエス様はペテロが立ち直れることができるように・・・ペテロの心の傷が癒されるようにペテロさんのところに来て、わざわざペテロさんだけのために「あなたは私を愛しますか?と三度も問いかけ ペテロの心を癒されたのです。

そんな姿を学べる聖書の箇所でした。

今日は母の日です。五月の第二日曜日をお母さんに感謝する日として、世界中で持たれています。どんな人にも確実な事はたくさんありますが、その一つ。

あなたのお母さんは必ずいて、それはたった一人です。

皆さんに特別なお母さんがいるわけです。もう亡くなっているお母さんもあるでしょう。それでも間違いなくあなたのお母さんはいるわけです。平等に・・・

そのお母さんを覚えて感謝する日です。

先ほどイエス様からペテロに最初、私を愛するか?と問われた時にアガペーの愛という言葉が使われた・・・この愛は一方的な無償の愛、惜しみなくささげる愛・・相手に関係なく注ぐ愛。神様の愛です。人間にはこんな愛はないと言いましたが。この世でこの愛に近いものはお母さんの子供に対する愛でしょう。

子供はお母さんの言う事を聞かない事もあるけれど・・・・・わがままばっかり言っているけれど・・・・心配ばかりかけていても・・・・お母さんはそれでも子供を愛しているのです。自分の事を捨ててでも愛してくれるのです。これは自分の子という限定的ですがアガペーの愛の見本みたいなものと言えます。

皆様にもそんなお母さんがおられました。おられます。その事を今日はとりわけ覚え感謝する日になればと考えます。

皆さんもお母さんの思い出があるでしょう。私の母の事を少し話しますと。母は小児まひで、手足が不自由で、耳が遠かったです。母の事は好きだったんですけど・・・・小学校の頃、参観日にきてもらうのが嫌でした。友達がお前の母ち

ゃん変な歩き方やなあ・・・と言うのが恥ずかしかった。だから「学校にはこんとって」と言ったことがあります。今思うとなんという事を言ったかと思います。それでもそんな事は気にしなくて優しい母でした。

一番、最悪は、自慢と思われると困りますが・・・私は高専の卒業式で答辞を読むことになりました。

母が喜んで、貧乏なのに、着物を新調して、豊浜町と言う田舎町から高松まで来ると言われた時。その時は母の障害が恥ずかしいという気持ちはなかったのですが、もう大人なのに卒業式にお母さんに来てもらうなんて、かっこ悪い!!という事で断りました。着物を作ったのは後で知りました。父がずっと怒っていました。

それでも母は優しくて、手が不自由なのによく手紙をくれました。

結婚して、宮崎県の日南の南郷町という所に住んだ時。家内が発作で寝込んだ時がありました。その時、なんと母は足をひきずって一人で宮崎まで汽車を乗り継いできてくれました。今、乗り継ぎ案内というアプリで調べても9時間かかります。40年以上前ですから本当にどんなふうにしてきてくれたんだろう・・・・と今思っても・・・・その愛の深さに・・・母の愛はまさにアガペーの愛だと感動するのです。

その時だって・・・ありがとうとうとも言わず。なんでこんな遠いところまで来たんよ。無茶するな。と強がって言ったように思います。

無償の愛、一方的な愛で私は愛されていたと今、感謝します。

そんな事を思い出しました。皆さんにもそれぞれお母さんへの感謝があると思います。

さて今日は復活のイエス様の箇所ではなく・・・・。もう少し前(イエス様が十字架にかかる約四か月前)になります。

10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。

10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。

イエス様は、民衆に救いを宣べ伝えていました。私はあなた方が待ち望んでいる本当の救い主。あなた方が羊とすれば、私は良い羊飼いであります。と話をされるのです。

ヨハ

10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすので

す。

10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。

10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。

10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。

10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

10:17 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。

10:18 だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

詩篇23篇で主は私の羊飼いというみことばがあります。

23:1 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

23:4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

23:5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

23:6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、【主】の家に住まいましょう。

このみことばを暗唱しながら人々は救い主の到来を待っていました。

そしてイエス様は、私がその人です。あなた方が待ち望んできた救い主キリストです。と宣言するのです。

ここで人々の反応は分かれるのです。この素晴らしいイエス様を神の子キリストだと信じることにです。

人は人間の考えだけでは普通イエスキリストを救い主と信じられないようにでき

ているんです。

今教会に来てイエス様を信じている人は、あなたの考えではなくてあなたの心の中に働かれた聖霊様の働きであるのです。

Ⅰコリ

2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

これだけはっきりとイエス様が「私は良き羊飼いです」と言っているのに受け入れない人がいるのです。いや。その方が多いのです。

人の経験、知識によっては、神は見えないのです。

ヨハ

10:19 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。

10:20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」

10:21 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」

ここではユダヤ人たちの間に分裂が起こったとあります。イエス様をそのまま信じられない人が多いのです。

あれは気が狂っているという人もあります。

中にはそうは言っても盲人の目が明いたという事実はあるんですから・・・・とイエス様を否定できない人もありました。

こんな風にイエス様の評価が分裂している中で今日の聖書日課に入るのです。

10:22 そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。

10:23 時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。

ここで宮きよめの祭りという事について少し補足説明をします。宮きよめの祭りと言うのは聖書に一回しか出てきません。旧約聖書には書かれていません。ユダヤの重要な祭りではありません。いわば最近できた祭りであります。

祭りの起源は紀元前165年 イエス様の生まれる165年前

ユダヤの国は、現在はローマ帝国の属国になっていますが、当時はセレウコス朝の時代で占領されていました。異邦人の占領の中でユダヤ人は神様を礼拝することすら制限があり、神殿は異邦人に汚されていました。ユダヤ人の悲しみの中でマカベヤと言う人を中心にユダヤの独立戦争があり、ユダヤは解放され

ました。そして神殿ではまことの神様に礼拝が奉げられました。その喜びを記念して行われた祭りが宮きよめの祭りです。

しかし、今ユダヤの国はローマ帝国に占領され、本当の意味での独立国ではありません。まことの神様を礼拝することにもローマの制限がありました。ですからこの宮きよめの祭りは自分たちの独立を祝うと共に、今はまたローマの属国になっている・・・・自分たちの国を再興してくださる約束の救い主はまだ来られないのか・・・・キリストはもう165年もやって来ていないのか・・・もう来ないのではないか・・・まだなのか????と言ううめきのような思いもあった祭りなのです。

そしてソロモンの廊とは神殿の東側にある廊下で、ここでは律法学者やいろんな先生方の演説もありました。イエス様もそこを歩いていた・・公の場所であります。

ここにユダヤ人たちはやって来てイエス様に詰問(問い詰める)するのです。

10:24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」

今ユダヤではイエス様に対して分裂しているのであります。

ヨハ

10:19 このみことばを聞いて、ユダヤ人たちの間にまた分裂が起こった。

10:20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」

10:21 ほかの者は言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。悪霊がどうして盲人の目をあけることができようか。」

イエス様を取り囲んでいるユダヤ人たちは、本当はイエス様を信じていない人たちでした。

10:25 イエスは彼らに答えられた。「わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行うわざが、わたしについて証言しています。

10:26 しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。

私はあなた方に、私が良き羊飼いである。すなわち救い主である。キリストである。

と言ったではないですか?しかし、あなた方は信じないのですとはっきり言います。

いろんな神様が行われた奇跡も信じないのです。

それはどうしてか?

ここで厳しい現実が語られます。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。

今日の箇所は、イエス様はすべての人を救うために来たと言われているのに、救われない人もいると言う厳しい現実が語られています。

あなた方はイエス・キリストが、私は良き羊飼いですと言われているのに‥そこに属していない羊なのですと言われるのです。

これはわかっていながらイエス様を受け入れようとしないユダヤ人(祭司長、律法学者、パリサイ人)への言葉です。

ですからイエス様を求める人に向かっての言葉ではありません。

自分は罪びとと思う者 自分には救いは必要であると思う者、病人に向かって語られている言葉ではありません

マタ

9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

9:13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

自分は正しいと思う者、丈夫なものだと思う者・・・そんな人は私の羊に属していないよ。と言われるのです。

ですから、今教会に来ておられる方は安心してください。あなたはイエス様に属する羊なのです。そしてこの鳳の地にも今は教会には来ていないけれどイエス様が求めておられる羊がたくさんおられるのです。

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。

10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

イエス様の羊には、この素晴らしい約束が与えられているのです。

イエス様は私達の事を知っていて下さっているのです。

そして、そして私たちへの約束は

① 永遠のいのちを与えてくださいます。

② 決して滅びることがありません。

③ 誰も私の手(イエス様の手)から奪い去られることはありません。

と宣言されるのです。

その条件は私の羊は、私の声を聞き分けますという事です。

そして私(イエス様)の権威は父なる神様から与えられているのです。いや私は父なる神様と同じなのです。私は神の子なのです。と重大な宣言が語られるのです。

これが、

10:24 それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。」

と問い詰めたユダ人たちへのイエス様からの答えだったのです。

10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

10:30 わたしと父とは一つです。」

わたしと、父とは一つです。とはっきりと宣言なさったのです。

この答えはユダ人にとっては驚きでした。私と父とは一つですという事は、私はまさに神であると言っている事です。

今の時代でも、私が神であるという人がいたら、普通の人間の感覚ならば受け入れがたい事でしょう。

私がキリストである。と今、宣言する人がいたら私も受け入れられません。ユダヤ人たちは生まれた時から神様を畏れ、神様を冒涜することのないように生きてきました。それゆえ今、イエス様が語られた「わたしと父とは一つです」という言葉にイエス様を、

神を冒涜するものだと考えたのです。

この後どうなったのか

ヨハ

10:31 ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。

10:32 イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」

10:33 ユダヤ人たちはイエスに答えた。「良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神

とするからです。」

10:34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、おまえたちは神々である』と書いてはいないか。

10:35 もし、神のことばを受けた人々を、神々と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、

10:36 『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している』と言うのですか。

10:37 もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じないでいなさい。

10:38 しかし、もし行っているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」

10:39 そこで、彼らはまたイエスを捕らえようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。

こののち、イエス様はユダヤ人たち(律法学者・祭司長たち)から離れて身を隠されたのです。やがて神様のご計画で、エルサレムで十字架にかかる時が来るまでエルサレムからは離れて暮らされたのです。

ヨハ

10:40 そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。

今日の中で、とりわけイエス様が証言された事

「わたしと父とは一つです」この言葉は重要です。

わたし、イエス様は天地創造をされた父なる神の同じである。三位一体の教義とも言えますが・・・イエス様は神である。ということ

この証言によって最終的にはイエス様は十字架にかかられたのです。

自分を神としたという、神を冒涜した罪です。

しかし、クリスチャンは「わたしと父とは一つです」という事を信じた故に救われて永遠のいのちがあるのです。

あなたは「わたしと父とは一つです」との言葉にどう答えるのでしょうか。

10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

イエス様の羊として・・喜びの中を歩むか

イエス様を知らない羊として歩むかの分かれ目があるのです。

実は私は、無神論者で、神様はいないと考えて生きてきたのですが。教会に来て聖書を読んで・・・・天地を造られたまことの神様が、唯一の神様がおられるという事を知ったのです。それで聖書を信じ、洗礼を受けました。イエスキリストの事はよくわかっていなかったのです。それで洗礼を受け・・・どちらかと言うと旧約聖書が好きで、神様の掟、律法を守ろうとして頑張っていました。

本当に変な話ですが・・・自分が罪人である。自分には救い主が必要である。十字架のイエス様が必要である・・・と言う福音の基本はよくわかっていなかった。ただ神様を信じて洗礼を受けました。

今日の聖書日課から言えばユダヤ人の方に属します。私にイエス様はそう必要ではなかった。

何年か経って・・・自分の罪、弱さ・・・自分一人では到底神様の前に立てるものではないとわかってきて。私のために十字架にかかり死んでくださったイエス様が私の救い主だと知ることになりました。

「私と父とは一つです」という言葉がようやく自分の事として信じられたのです。

その時、神様は恐ろしい方ではなく・・・愛の方であり

それはイエス様によることを受け入れました。

10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

それ以降、その喜びは消えることがありません。これは理屈ではなく信じて受け入れる 聖霊の働きであります。

イエスキリストが神の子救い主である 「わたしと父とは一つです」との宣言は私達の救いのために大切な大切な御言葉です。

この証言によってイエス様は神を冒涜したという罪で処刑されました。

しかし、イエス様を信じる私たちにとってこれは大きな恵みのみ言葉なのです。そしてこのみ言葉は決して変わる事がないのです。

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