2022年5月1日

説経題「ペテロとイエス様」

聖書箇所 ヨハネ21:1~19

ヨハ

21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。

21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。

21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じように

された。

21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

おはようございます。

昨日、皆様にお知らせして祈っていただいていた剣道七段の審査に合格させてもらいました。週報にも書いて公にしていたので落ちたらどうしようという思いはありましたが、神の家族ですからどちらでもオープンでと思っていました。合格率は1/7ぐらいと言われているのでなかなかの難関です。張り出された番号を見た時は、本当に嬉しかったし・・ホッとしました。

私は、48歳の時に19年集った教会を離れました。

大阪に来て友達は、ほぼ教会関係だったので、孤独で何も無かった時、学生時代にやっていた剣道を再開しました。

二段でした。

その時は、小学生相手でも、10分もすれば息が上がって、ゲロ吐きそうなくらいでした。

そこから剣道にハマって、多い時は週に六回稽古に行っていました。孤独から解放されました。

その時、七段なんか夢の夢でした。

それが70歳になって取れるなんて、本当に嬉しい事でした。神様の憐れみです。本当に神様の恵みと憐れみだけだとつくづく思いました。

先週は、復活のイエス様がエルサレムで隠れている弟子たちに現れた事。その時いなかったトマスにも8日後に現れてくださったところから金兄から説教をしていただきました。今日はその続きです。

今日の箇所はドラマチックな箇所です。聖書を追うだけで情景が浮かんできます。

人と言うのは、すぐに変われるのか??今日素晴らしい体験があったから・・・・素晴らしい言葉を聞いたから・・・・すぐに変われるのか?

という事を考えることはないでしょうか。

人は、たった一言の言葉で変わる事もないとは言えませんが・・・人間はずいぶん複雑です。そこにはいろんな要素があり、時間があり、体験を積み重ねて変わっていくことが多いのではないかと思います。

今日は特に十字架にかかる前のイエス様に 「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

と言ったペテロ これは彼の心からの思いであります。それに対してイエス様は22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

と言われた事。

そしてペテロはイエス様が捕まった時・・・・どこまでもついて行こうと官邸までも入ったのに・・結局は「私はあの人の事は知らない」と言います。それも三度も言います。その時イエス様の預言通り鶏が鳴きました。

ルカ

22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。

22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。

22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

彼は十字架にかかる前のイエス様を裏切ってしまった思いで・・・・また自分の信仰の決心が弱い者だと知った時・・・・イエス様と目が合い・・・外に出て泣いたのです。3年半もイエス様にすべてを捨ててついてきたのに・・情けない自分に泣

いたのです。挫折体験でありましょう。

イエス様に二度と顔を合わせられないというような思いでしょう・・・。

この思いを引きずりながら。十字架にかかり死なれたイエス様の復活を見る。

そんなペテロとイエス様の姿を見ていきたいと考えています。そしてこれは私の信仰体験とも大いに重なりますのでその証も含めます。そしてペテロとイエス様との関係は、ここにおられる皆様とイエス様との関係とも深くかかわり、繋がると確信するのです。

初めに私は信仰を持って三年目(31歳の時)「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

とイエス様に言って献身の思いを言いました。会社も辞めて、植木屋さんのアルバイトをしながらやがて神学校に学びました。詳しい事情は省きますが。。。3年で卒業のところを二年で休学になってしまいました。

その後しばらくしてもう一度神学校に復学し・・・・・あと1学期を残すだけで卒業と言うクリスマスの時に再び休学になりました。そしてもう神学校は委ねました(諦めました)イエス様に申し訳ないという思いもありました。

子どもたちの学校も含めて・・・神様に従っているけれど・・献身の道は委ねて・・・・やがて教会を出ることになりました。そして最初の日曜日に来たのが堺育麦キリスト教会です。

三度イエス様を知らないと言い・・・イエス様と目が合って・・・外に出て激しく泣いたペテロの気持ちはわかる気がします。私だなあと思いました。

そのイエス様が十字架にかかり、死なれて復活されました。

ペテロの思いは、喜びはあるけれど複雑でした。

21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。

テベリヤの湖畔とは・・・ガリラヤ湖の事です。ペテロたちはエルサレムを離れて故郷の町に帰っていました。たぶんカペナウムの町。ペテロの実家です。

エルサレムで復活のイエス様を見た弟子たちは、すぐさま力を得て、復活のイエス様を宣べ伝えるという事はしなかった。できなかった・・これは聖霊が降るまではまだおびえて暮らしていたのです。

でもイエス様の弟子として歩みたいという思いはあったのでしょう。

私が神学校を卒業できなかっても信仰は失わなかったのにも似てます。そこにもう一度イエス様が現れるのです。

21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

ペテロの元に一緒にいた弟子たちはペテロ、アンデレ、ゼベダイの子たちとはヤコブとヨハネの事、この四人は元々この地域の漁師でしたし一緒にいても不思議ではないですが。

そこにトマス、ナタナエル、他に二人の弟子も一緒にいた・・・・・・・。

一緒にいたんです。

何をするかもわからずに・・・・ただ一緒にいた。復活のイエス様を見たけれど・・・何をするかわからずに一緒にいた。

でも生活もあります。

ペテロは漁に行くんです。もともと漁師ですから。これなら何とかやっていけると自信もあったでしょう。

21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

ペテロと一緒に他の弟子たちも船に乗り込んだのです。

しかし、その夜は何も取れなかった・・・・・。

この一行は軽く書いているけれど重たい言葉です。重たい現実です。

ペテロにとって自信のあった・・・ほかの弟子たちを養う事もできると思うくらいの得意な漁が何も取れなかった。それは自然相手ですからあるかもしれませんが・・・ペテロはほかの弟子たちも一緒に乗っているのに・・・面子丸つぶれと言う悲しい思いもあったかもしれません。

三年半イエス様について行っていたことで腕も鈍ったか・・・と不安もあったかもしれません。

私も献身をほぼ諦めてもともとやっていた土木の仕事に帰った時があります。それまでは献身者として神様に仕えるのが優先という事で自分の特技を生かすのではなく、あえて違う事をしていました。植木屋さんとか日雇い労働者的な仕事をやっていました。しかし、献身したものとしても実際どうしていいかもわからず、元の仕事に戻りました。

ペテロが私は漁に行く!という言葉がダブります。本当は、それはしたくなかった・・神様に仕えていきたかったけれど・・・私にはそんな力もない・・・・もう委ねてと言えば格好いいですが・・・ほぼ諦めて・・・それでも日々を前向きに生きるためにも、現実問題として食べるために・・・家族を養うために・・・・元の土木関係の自分の資格も生かせる仕事に戻りました。

私の場合、神様の恵みで和泉市役所の中で市の職員の代わりに市内の工事を管理するという働きでした。建設コンサルタントと言うものです。会社は私を和泉市に即戦力の優秀な技術者ですと売り込んでいて・・・

実際、私はその時13年間土木の現場からは離れていました・ 技術と言うの

は日進月歩 機械もどんどん進んでいて・・測量機械なんか、距離なんか光で測れるんです。昔は高価で一般には普及していませんでしたが、地元の業者でも使っている。私は使い方も知らない。 13年も経っていればもう浦島太郎みたいなものでした。

また、やった事のない職種でしたので実際はわからない事ばかり・・・・会社ではわかったような顔をして、黙して語らず・・実際は冷や汗をかきながらベテランのふりをして・・・・家に帰ったら必死で本を読んで勉強するという・・・・。うかつに人にも聞けないので大変でした。

3か月して、次の年の更新の時に、市役所の課長代理の人が・・・・「豊島君、君は本当にベテランか?私は来年の更新を推薦できないよ」と言われて大焦りしました。

ペテロが一晩漁をして何にも取れなかった・・・・・なんか私も自信も喪失して不安だった時を思い出します。

私は必死で頑張りますから・・・とお願いして・・・・・・それから何人かいた同業の人の中で一番多く、長く更新してもらえました。子供たちの学校も卒業できました。

一晩必死で働いて何も取れなかったペテロたち・・・・疲れもあったでしょう・・・

その時岸辺から声がするのです。

この箇所は聖書をゆっくりと読んでみます。情景を浮かべてください。

21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって

来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。

21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

この魚が捕れたという話は実は同じような事が、ペテロがイエス様から召し出された時にあった事を思い出させます。

ルカ

5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、

5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。

5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。

5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。

5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。

5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからで

ある。

5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

ペテロはこの時からイエス様に、何もかも捨てて従ったのです。

その後三年半経ち・・そのイエス様を三度知らないと言ったペテロは、今もその心の傷は癒されていないと考えます。

私はイエス様に何のお役にも立っていない・・・その呻き

そして愛するイエス様を、どこまでもついて行きますと誓ったイエス様を、裏切ってしまった・・・・と言う思いもあったでしょう。

しかし、今、そのイエス様は私の前に来られている。私はどうすればいいのでしょう・・・整理がつかないかもしれません。一人服を来て湖に飛びこんだペテロの不可解な行動も、その事が関係していると想像します。

イエス様と目が合って外に出て激しく泣いたペテロの心は複雑でした。

しかし、しかしですよ・・・イエス様の方から見ればイエス様はペテロを弟子として見ているのです。私達のどんな失敗もイエス様はそれも受け入れて私たちを離さない。離れない。私はどこまでもあなたと一緒だよ・・・と言う約束は変わらないのです。

人間の方が、私はダメだったから・・・弱いから・・・私はイエス様にふさわしくないから・・・と思っていても。イエス様はそうではないのです。

実はペテロは覚えていないかもしれないけれど

ペテロが私はどこまでもあなた(イエス様に)ついて行きます。と誓った時。

その前にこんなことをペテロに言っているのです。

ルカ

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペテロが偉そうに

ルカ

22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

と言う前からイエス様はペテロの弱さも知りながら・・・・あなたの信仰が無くなら

ないように祈ってくれていたんです。

私達にも同じです。私達の弱さとか、イエス様への裏切りみたいなことも・・・イエス様はその心をわかってくれているんです。

イエス様は私達のために祈ってくれているんです。

イエス様はこの食事の席で、ペテロに個人的に語り掛けます。

これは不思議な箇所です。イエス様を裏切ってしまったと思い。泣いてしまったペテロへのイエス様からのフォローの時です。

先週は疑うトマスにイエス様はフォローされました今週はペテロです・

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

イエス様からのこの質問。微妙な質問ですね。イエス様はペテロさん。あなたはここにいる弟子たち以上に私を愛しますか???と問われます。

昔のペテロならば、はい愛します。命懸けで愛します。と胸を張って答えたでしょう。しかし、ペテロはそんな自信も吹き飛んでいたのです。

私だってイエス様からこう問われたら・・はい愛しますとは胸を張れません。イエス様に従うと誓いながら・・・二度も神学校を休学・・・献身はもうないようなものになっていたのですから・・・・。

でもイエス様を愛しているかと問われたら、こんな情けない者でもイエス様を愛していますと小さな声で言いそうです。

ペテロもそうでした。そんな気持ちと思います。

そのペテロにイエス様は私の小羊を飼いなさいと使命を与えられるのです。

これは弟子としての、召命です。今でいえば牧師としての召命です。

イエス様は前のようにペテロに期待して声をかけられました。ペテロは全く自信がありませんでした。

21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

そしてペテロにもう一度イエス様は問いかけるんです。

ここで愛するという言葉は日本語ではとらえきれないニュアンスもあります。

新改訳聖書には愛するとありますが。ギリシャ語では愛は三種類の表現であります。

アガペーの愛 フィレオ―の愛 エロスの愛。日本語ではすべて愛ですが、

意味が違います。私も学生時代倫理哲学の先生が、このことを一生懸命説明していたのを覚えています。その時はクリスチャンでないのでなんか難しい話だなあと思っていました。

まずエロスの愛は肉欲的な愛。自分勝手の愛というようなものです。まあ下等です。

次にフィレオ―の愛は相互の愛 友情、お互いが愛しているから愛する。

アガペーの愛は一方的な愛。相手が愛さなくても愛する愛。神様の愛はこのアガペーの愛です。

一回目にイエス様が言われた21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 この愛はアガペーの愛です。すなわち神様が私達を愛するような、一方的な愛でイエス様を愛しますか?と問われました。

ペテロは、自分はとてもそんなものではないと知っているがゆえに・・・

「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」この愛はフィレオ―の愛です。友情の愛です。とても神様の愛(アガペーの愛)で愛せるなんて言えません。

このペテロの気持ち イエス様を三度知らないと言った自分に、イエス様をアガペーの愛で愛するなんて言えません。でも精いっぱいのペテロの気持ちで私があなたを愛することはあなたがご存知ですと言いました。

私もこの気持ち 本当にわかります。でもここで話はかみ合っていないのです。なんか気まずい雰囲気の中でイエス様がもう一度尋ねられたのです。

二回目も一回目と同じイエス様はアガペーの愛を使い・・・ペテロはフィレオ―の愛で答えています。

21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

ペテロが精いっぱいの答えをしたとき・・・イエス様はもう一度、ペテロに問いかけられるのです。

21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しま

たので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

三回ペテロにイエス様が問いかけられた中で、ペテロは三回イエス様を知らないと言ったことを思い出したでしょう・・・・。その心の傷があったところにイエス様から私の羊を飼いなさいと勧められる。イエス様はペテロに期待しておられる・・・その事が嬉しかったでしょう。

しかも三回目のイエス様の私を愛しますかとの問いかけはフィレオ―の愛だったのです。

それはペテロ、お前の弱さも知っているよ。完全な愛がお前にない事もわかっているよ。それでもいいんだよ。

あなたの私への愛はわかっているよとの言葉だったのです。

ペテロは心の傷が癒されて、ペテロなりに精一杯胸を張って・・・私もフィレオ―の愛で心からイエス様を愛しますと答えるのです。

それは人間としての最高の愛です。

ここに高慢ではなく・・・神様の前でへりくだったペテロの信仰を見るのです。

私、豊島も同じ思いでした。完全な愛ではないですが・・・私は精いっぱいの愛であなたを愛します。と答えて牧師への道が開かれました。

そしてイエス様はその道はたやすくはないよ。でも私に従いなさいと声をかけられたのです。

これはペテロにとって嬉しい事だったと信じます。イエス様を三度知らないと言ったペテロの心も癒されました。

私に従いなさいという言葉は、ペテロにとって喜びでした。

私豊島も喜びでした。

この説教を書いている時、私の思いばかりで・・・私の信仰によって、弱さによって振り回してしまったような・・家内、家族の事をふと思いました。

特に家内には迷惑かけたなあ・・・・と言う思いもありました。

先週の祈祷会の賛美で 聖歌582番 神の御子にます主イエスという賛美をしました。それが好きだった人の名前が豊島悦子でした。私は、家内はいつくしみふかきと歌いつつ歩まんが好きなのはよく知っていましたが・・・

この曲は忘れていました。そしてその歌詞をかみしめながら賛美している時

ああイエス様は私にだけでなく、家内にもフォローをしてくれていたんだと思い、涙で賛美しました。私は、歌詞にあるすべてを捨てて、したがいまつらん…と言うこの賛美は最初の献身の時は好きでした。でも挫折してからはこの曲は歌えませんでした・・・・今も、躊躇するものです・・・が。悦子は私よりも乗り越えて・・こ

の聖歌が好きだと言っていたんだなあ・・・・と感動しました。

説教の初めに人は簡単には変われないという事を言いました。確かにペテロもこの言葉の後からすぐに伝道に立ったわけではありません・・・もう少し時間がかかります。しかし、今日の出来事はペテロの心に大きな、大きな慰めと励ましを受けたことは間違いないのです。

ペテロとイエス様 それは私達にも働いていて下さっているのです。

祈り

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