2022.4.24

説教箇所 ヨハネ20:19~31

説教題 見ずに信じる者は幸いです

分解 19~20 ユダヤ人を恐れて

21~23 聖霊を受けなさい

24~25 トマスの疑い

26~29 見ずに信じる者は幸いです

30~31 使徒ヨハネがみたこと聞いたこと

序論 去年のイースターの次の週のメッセージを担当しました。今年もイースターの次の週にメッセージを担当することになりました。メッセージの箇所は去年と同じところです。去年は私の子供のころのランボルギーニカウンタックの話を序論としてお話ししました。カウンタックを見たと言っても信じてもらえずに友達からは無視されるという経験の話をしました。百聞は一見に如かずということわざがあります。一度は耳にしたことがあると思います。意味は人から百回聞いたとしてもあくまで想像なので自分の目で一度みたら確信を持つということです。おそらく誰もが経験したことだろうと思われます。私がイエス様を信じたきっかけになったのは私と年子の妹がいましてその妹が南大阪聖書教会で救われまして妹が伝道者となり教会に無理やり連れてこられました。無理やりなんですけど私自身妹から誘われたからといって教会に来る人間ではないことは周りの人も私自身も来ることがないのはわかっていますから私にとって都合のわるいことがありそれがばれて脅迫されて教会に連れてこられるという筋書きでした。都合の悪いということが何かというのはここでは触れないでおきます。当時宗教というとオウム真理教の先入観がありまして宗教は怖いというイメージがありました。しかし教会に行ってみると変な言い方ですけど普通の人ばっかりなのに驚いた記憶があります。そのころ27,8年前に豊島先生と出会いました。その妹が伝道に熱心な人で私の父親に言ったことが印象的でした。それはどういうことかといいますとうちの父親もあんまり宗教には理解を示さない人でしたから妹が神様のことやイエス様のことを真剣に説明していることに不思議と真剣に聞いていました。そのことがすごくびっくりしました。そして父親が最後に言ったことが俺は見たことしか信じないからなんぼ言うても無理やという言葉でした。確かに私たちはイエス様や神様を見たことがありません。でも私の心はイエス様が全部とは恐れ多くて言えませんが何パーセントは支配されています。見ずに信じる

ことはたくさんありますけどイエス様が処女からお生まれになり十字架につけられたにもかかわらずに蘇生ではなく復活されたことは人間の常識では見ても信じられないことです。しかし私たちクリスチャンはこの非常識といえることを当たり前のように信じています。見ていなければ信じられないという感情はこの箇所で書かれてあるトマスの感情によく似ていると思います。ここでのトマスもペテロやヨハネや弟子たちが嬉しそうに話しているのに自分だけという感情が買って引っ込みがつかなくなりこういう行動になったような気がします。しかしトマスのことは一度聴いたら忘れられない有名な聖書の箇所です。先週はイースターで張さんの洗礼式やマグダラのマリヤが復活のイエス様の感動的な出会いを先生がメッセージとして解き明かしてくださいました。今日はトマスの心がイエス様によって開かれるということを解き明かしていきたいと思います。それでは本文の方に入っていきたいと思います。

ユダヤ人を恐れて

先週はイースターでした。その前はイエス様が十字架に掛かられる受難週でした。イエス様が十字架にかかっているとき11弟子はヨハネを除いてみんなその場から逃げてしまいました。ユダヤ人たち(ユダヤ人という表現をしているヨハネの福音書は良い意味で使われていません)が弟子たちを追っていたかどうかはわかりませんが弟子達はイエス様が捕まってから私たちも十字架につけられると思って隠れていました。そしてあるところに集まり息をひそめて戸を閉めていました。その閉じ込められた部屋にイエス様は入ってこられました。あくまで私が想像することではありますが言葉は悪いんですけどお化けのQ太郎をみたいな感じを想像しています。しかしルカの福音書を見ると24:39『私の手や足を見なさい。まさしく私です。わたしにさわってよく見なさい。霊なら肉や骨はありません。私は持っています。』とありますから。だから答えは自分自身では今は知る必要がとおもいます。だからあまり深く考えないようにします。弟子たちが隠れている部屋にイエス様は入ってこられました。そしてまず最初におっしゃった言葉が「平安があなた方にあるように」これはユダヤ人のあいさつの言葉です。でもこの場合もっと深い意味があります。弟子たちは自分がいつ殺されるかわからないという不安におびえながら薄暗い部屋で隠れていた時に死んだはずのイエス様が来られてこの言葉をおっしゃいました。弟子達に対する慰めと励ましこれからの弟子たちの行動に対する希望だったのだと思われます。弟子たちはペテロを筆頭に自分たちが逃げ出してしまうと予告されたイエス様の言葉を強く打ち消してイエス様と行動を共

にすると言いながら舌の根も乾かないうちに逃げて行ってしまいました。しかしイエス様はそのようなことがあってもそのこと(弟子たちが裏切って逃げ出したこと)について怒ることも怒鳴ることも非難することもありません。普通の人であれば恨み言や罵声を浴びせることをするでしょう。さらにイエス様はあなた方を見放すともいわずにこの「平安があなた方にあるように」といわれました。私たちは何か不都合なことがあるとすぐに誰が悪いのか私は悪くない?と考えてしまいます。そしてできるだけ自分が悪くないように考え責任を転嫁してしまいます。いわゆる人のせいにしてしまいます。しかしイエス様はどこが悪いかもわかっていて弟子たちがしたことに対して許す言葉でこの言葉をおっしゃってこれからの弟子たちの歩みを励まし後ろからとりなしてくださいました。そして何よりも十字架にかかったという物的証拠「手(厳密にいうと手首)と脇腹を彼らに示された」とあります。おそらくこの薄暗い家の中でイエス様は生きているとか生きているわけがないとかいう噂が流れていたと思われます。しかしこのことでそこにいる弟子たちは復活したのだと今までのイエス様が生きているという噂(マグダラのマリヤから始まったこと)が本物だと自分の目で確認して確信した瞬間でした。しかしこの時にこの場にいなかった今回の主役である使徒のトマスという人だけはまだ復活のイエス様にあっていなかったのです。

聖霊を受けなさい

ヨハネ20:22「彼らに息を吹きかけて言われた。聖霊を受けなさい。あなた方が誰かの罪を赦すならその人の罪は赦されあなた方が誰かの罪をそのまま残すならそれはそのまま残ります。」イエス様は裏切った弟子たちを赦してこの言葉をおっしゃいました。「平安があなた方にあるように」と。イエス様が弟子たちにしたことは息を吹きかけてとあります。創世記の天地創造をすこしお話しします。天地を作られた神様は1日目光と闇2日目次に空を作ります3日目陸と海と植物4日目星や太陽や月5日目鳥や魚6日目陸地の動物最後に人間を作られました。7日目完成を告げられた。

創世記2:7人間の創造「その後神である主は土地のチリで人を形造りその鼻に命の息を吹き込まれた。そこで人は生き物となった。」神様は命の伝達を息を吹き込むという方法を使います。ユダヤ人の恐怖におののき恐れていた弟子たちにヨハネ20:21「私もあなた方をつかわします」とおっしゃって新しい命の息を吹き入れ聖霊を受けることによってこの時再度言い方はよくないかもしれませんが生まれ変わる。ということになります。イエス様が弟子たちを赦したようにヨハネ20:23「あな

た方がだれかの罪を赦すならその人の罪は赦されあなた方がだれかの罪をそのままのこすならそれはそのまま残ります。」につながっています。イエス様は自分自身が弟子たちを通して赦すという実践しています。そして弟子たちにこれから歩んでいく道に愛をもって希望をもって力ずよく生きることができるように新生された出来事だったと思われます。

トマスの疑い

人間は基本的に自分が見ていないと信じることができない生き物です。子供のころカウンタックを見たと言っても信じてもらえずよかったなぁとは言ってもらえずに妬みを抱かれてしまいます。そして無視されてしまいます。おそらくヨハネ20:18でマグダラのマリヤが「私は主にお目にかかりました」とはなされたが弟子たちは信じなかったと思われます。むしろマグダラのマリヤをこの人は夢を見ているのかと軽蔑したかもしれません。しかし19節からの言葉でトマス以外の10人の使徒たちそれにそこにいた使徒以外の弟子たちは自分の目でイエス様の存在を確認しました。ヨハネ20:25「それでほかの弟子たちが彼に(トマスのことです)私たちは主を見たと言った。」とあります。この言ったというのは言い続けたという意味です。イエス様を見た弟子たちはうれしくて仕方がなかったのでしょう。しかし自分の目で確認していないトマスはうらやましいというか自分だけ見ていないというか妬ましい気持ちもあってみんなに言い返した言葉が25節の後半の「私はその手にくぎの跡を見私の指をくぎのところに差し入れまた私の手をそのわきに差し入れてみなければ決して信じません。」といった。余談ですがイエス様が天に帰られて使徒たちや弟子たちがこの世に残されました。そしてみんなが使徒として認める条件の筆頭がイエス様を自分の目で見たことがあるというのが一番の条件でした。そしてエルサレム会議では救いの条件は信仰だけかもう一つ少しの律法や割礼が必要かという議題ともう一つの議題は使徒パウロは本当に使徒なのかどうか?パウロ自身はイエス様を見たことはないではないかということが議題に上がったのですがしかし使徒パウロは堂々とこのことを押し切って使徒として認めさせ救われるには信仰だけが必要でその他のことは必要ないということを勝ち取りました。トマスが決して信じませんといっているようにかなり意固地になっていたのがこの箇所からわかるようにただ一人で使徒たちや弟子と闘っていた様子がこの箇所で手に取るようにわかります。

見ずに信じる者は幸いです

20:26八日の後とあります。イエス様を見た弟子たちの証言を信じること

ができないトマスはこの8日間不安と気まずい雰囲気の中すごしたことでしょう。でも8日間彼らと一緒に過ごしていたことです。ほかの弟子たちはイエス様を見たと言っているのに自分ひとりだけは信じないと言い張っているからその中でいても肩身の狭い思いをしていたはずです。その8日が彼にとってのよい機会になっていました。そして8日後今度はトマスも一緒にいたところに復活のイエス様が姿を現されました。そしてまた「平安があなたがたにあるように」とおしゃいました。そしてトマスに向かってこう言われました。20:27それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて私の手を見なさい。手を伸ばして私のわきに手を入れなさい。信じないものにならないで信じる者になりなさい。」トマスがみんなに言った言葉をイエス様はそのままトマスに返しました。このことからイエス様はどんなにつまらないことでもすべてお聞きになりイエス様の自分の心にとめておられます。疑い深いトマスはこの一言で迷っていた心が吹っ飛び「私の主。わたしの神」と信仰告白をしています。20:29イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」今まで散々百聞は一見に如かず。といってきました。この使徒トマスもイエス様の復活の姿を見てこのヨハネの福音書の有名なところをヨハネが後世の人に書き伝えました。神様は不要なものを私たちには与えません。しかし言い換えると必要なものは与えてくださいます。イエス様がこの時代のこの地域にに住んでいた人しかおめにかかることはできません。しかし2000年後のこの時代に神である御子イエス様の存在を信じている人はたくさんいます。私もその中の一人であります。クリスチャン生活をしていますといろいろな人に出会います。その中で神様から直接啓示を受けた人や聖霊体験をされた方の話を聞くことがたまにあります。私はそんな体験がありません。うらやましいと思います。しかし、神様そしてイエス様は私が何を考えどんな行動をするかお見通しです。このトマスのように。その中で不必要なもの必要なものは何か私なんかよりはるかにわかっています。私が欲しいと望んでいるものと神様が必要だと考えるものは大方の隔たりがあります。そして私が欲しくないと思っているものを与えてくださいます。それが御心ということです。後々考えれば絶対にこの方が良かったという結論になることは今までの経験上何度もあります。例えば私にそういう啓示を与えるとどういうことになるかといいますと。私は神様から選ばれているという傲慢な考え方(天狗)になり行動もそうなると思います。かなりのよからぬことです。私にとって啓示や聖霊体験といったことは神様が与えてくれていません。しか

し処女マリヤのおなかを通して生まれてきたイエス様は神の御子で私たちの罪を身代わりに受けてくださって十字架につけられたにもかかわらず3日後に復活されたということを見ていないにもかかわらず信じさせてくれています。見ずに信じることの証であります。突き詰めて言えば神様が私たちにこの普通では信じられないこと(処女マリヤの懐妊とかイエス様の十字架にかかって命を落とされた後の復活)を信じさせてくださいます。私たち罪にまみれた人がお金も払わず人に良いことをしたとかしていないとかそういう基準ではなくイエス様が一方的に私たちを選んで信仰という息を吹きかけて私たちの心の中にあたえてくださって聖霊様を心に迎え入れることは本当の恵みであります。私たちは神様から恵みを与えられるような人ではありません。しかし神様は恵みというものを一方的にあたえてくださいます。だから私たちが信じることはイエス様や神様を見なくても聖書や牧師先生や兄弟姉妹の口をとうして信じるようにさせてくださるのです。直接神様を見なくても心の中に聖霊様を住まわせて信仰を与えてくださいます。20:29「見ずに信じる者は幸いです」今この時代に生きているクリスチャンにとって最も幸いな言葉であります。見なくても信じることができるクリスチャンになれれば本当に幸いだと言い切れます。

使徒ヨハネが見たこと聞いたことではそのために神様はヨハネにどんなことをさせたのか?またどういう役割を与えたのかといいますと、

ヨハネ20:30~31「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをもイエスは弟子たちの前で行われた。しかしこれらのことを書かれたのはイエスが神の子キリストであることを、あなた方が信じるためまた、あなた方が信じてイエスの御名によっていのちを得るためである。」

ヨハネが書いた後世に語り継がれた奇跡を拾っていきますと、水をぶどう酒に変えたカナの婚礼、カぺナウムの王室の役人の息子を瀕死の床から救った奇蹟、ぺテスダの池にいた38年間もの間病んでいた中風の人を立たせた奇蹟、5000人の人々にパンを与えた奇蹟、ガリラヤ湖の上を歩かれた奇蹟、生まれながらの盲人の目を開けておやりになった奇蹟、死んだラザロを生き返らせた奇蹟、などがあります。このようにヨハネはたくさんあるイエス様の奇蹟の中からあるものを選んで記しました。使徒ヨハネは使徒としての条件イエス様を肉眼で見たことがあるということを無条件でクリアーしています。この使徒ヨハネがこのようなイエスさまの奇蹟を見てきて文章にしてきたのは自慢話でもなく傲慢な自分でもありません。ではどういう目的かといいますと地上を歩まれたイエス様という方が単なる人間ではなく神の御子キリストである

ことをこの福音書の読者イエス様を見ていないにもかかわらずに想像だけで信じることでした。今日の日本では本当の命ということの意味は分かっていません。大多数の人は地上での命のことを指して言います。しかしキリスト教の本当の命は永遠の命のことでこの世の地上での勤めが終わってから二手に分かれます。一つはイエス様のおられるところもう一つはイエス様のいないところに行きます。イエス様のいるところに行くのはいいのですがイエス様のいないところに行ってしまうと私自身いったこともないのでわかりません。そうならないように使徒ヨハネに限らずいろいろな人(使徒パウロやルカやマルコや使徒マタイ)の手を通して神様が書かせました。ヨハネやパウロやいろいろな人がイエス様のことを書いたのは自分が書いたことでその本を読む人が一人でも多くイエス様のことや自分自身の罪のことを知って救われるためです。おそらくヨハネもパウロも自分がこの世の勤めを終えた後イエス様のいないところというのは想像もできないと思われます。

なぜなら見ていないのです。しかし本当の命がイエス様のおられるところがあると神様から信じさせてもらって文章を使って後世の人に書き記した伝道をしています。自分がこの世からいなくなったとしても文字は残ってこの文章を読む人には本当の命を持ってもらいたいと思っていることです。今の私たちは見ていないことが多いと思われます。しかし人の救いは神様が決めるものであります。その目的に応じて神様が決めます。例えば牧師先生の口をとおして聖書をとおして友達の行ったこと、家族のとった行動いろいろな方法を使って神様はあらゆる人やあらゆる手段を通して人々を救いに導きます。トマスもそうです。そしてそのトマスに言われた言葉が「見ずに信じる者は幸いです」この言葉はこれからの私たちや後々の人々に対しての生き方をイエス様がしめしているような気がします。

先週の恵み

百聞は一見に如かずということわざがあります。人から百回聞いても自分の目で一回見る方が確信できるということです。ヨハネの福音書でも有名なところでトマスの行動をモチーフにしたところです。使徒たちや弟子たちはイエス様の弟子だからイエス様が十字架刑に処せられたから自分たちも処刑されるという戦々恐々としながらその場から逃げてうす暗い小屋に隠れていました。そこに処刑されたはずのイエス様が入ってこられました。「平安があなた方にあるように」と挨拶をされまし

た。しかしこの挨拶はその意味だけではなくイエス様を見捨てて逃げた弟子たちに対して怒ることや責めることはせずにむしろ赦す意味合いでした。そして早くこの薄暗い部屋から出て外に行きなさいという意味合いで私があなた方を助けようという意味も含んでいました。しかしその場にトマスだけがいませんでした。弟子たちは復活されたイエス様と会ってうれしくその場にいなかったトマスに言いました。すると妬ましく思っていたトマスは「その手にくぎの跡を見私の指をくぎのところに差し入れまた私の手を差し入れてみなければ決して信じませんといいました。しかし8日の後復活のイエス様はトマスのいる前に現れてトマスが言ったことをそのまま行動しました。そして「見ずに信じる者は幸いです」とおっしゃいました。私たちは見て初めて信じるような生き物です。しかし信仰や救いといったことは見ずに信じています。処女マリヤの懐妊や十字架につけられたイエス様の蘇生ではなくて復活を信徒でもない人に言えば非常識なことを当たり前のように信じています。神様が私たちに色々な人や書物いろいろな方法で何千何万というアプローチをしています。そして信じる信仰をお与えになっています。これは一方的な恵みです。この恵みをたくさんの人が持ってもらいたいものです。

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