2022年4月17日 イースター説教

説教題「復活の朝」

聖書箇所 ヨハネ20:1~18

20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」

20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。

20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。

20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、

20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。

20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き

取ります。」

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」

20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

おはようございます。主の復活 イースターおめでとうございます。

先週の受難週は、皆様いかがお過ごしでしたでしょうか?

私は、先週の日曜日4/10に召された今井姉のご主人良一様の葬儀の司式を依頼されて本当に祈らされました。良一様の信仰告白を私自身がはっきり聞いていなかったゆえに、今井様をどのような立場でキリスト教の牧師として、キリスト教式の葬儀を執り行えばいいのか・・・・・。

今までの今井様との関りをずっと調べて・・・幸い私のパソコンの中には写真やお手紙などの記録があります。ただまとめてはいないので・・・パソコンの中を捜して、いろんなことを思い出し・・みことばと照らしあわし・・・・

今井良一様は、神の子として救われ・・・永遠の命を与えられている、クリスチャンとして天に見送るという事に平安が与えられ葬儀の司式をさせていただきました。

葬儀はいろんなケースがありますので・・・・目に見える形で私が司式してできない時もあります。

それでも私たちにこの方は救われていた・・・・と言う平安がある時。堺育麦キリスト教会の神の家族として天に召された方として覚えて全聖徒主日礼拝には偲んでいます。お一人一人は主の元におられると私達は信じ平安を与えられています。

鷺ノ森大全さんや、森田姉のお母様、大杉さん、梅田さん…若野さん・・・

葬儀の形に関わらず、そう信じています。

それでも今井良一さんは私に司式を依頼されて良かったなあと・・・神様に感謝しました。

告別式の説教は皆様におくりましたので、そのあたりの事はご理解いただけると思います。感謝な時でした。また皆様のお祈りに感謝いたします。

そんな事が受難週にありました。

受難週のイエス様の歩みを覚える時

イエス様が私たちの罪の身代わりに死んでくださった。十字架の死だけを思うと・・・悲しくて、申し訳なくてたまりません。

しかし、主はすべての救いのわざを成し遂げてくださってよみがえられた!!!

これはなんと素晴らしいニュースでしょう。復活こそ私たちの信仰の最大の根拠、力なのです。

Ⅰコリ

15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。

15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

15:14 そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

15:15 それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。

15:16 もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。

15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。

15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

今日は復活の朝の出来事をヨハネの福音書を中心に4つの福音書を見ながら学んでいきましょう。

20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来

た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

ユダヤの一日は夕方から始まります。今でいう金曜日の夕方から安息日が始まります。その前にイエス様のお身体は急いで墓に葬られました。そして安息日が始まり、何もできない時間があります。土曜日の夕方にユダヤ歴の一週間が終わりました。そして朝がやってきます。それが週の初めの日 日曜日の朝です。

マクダラのマリヤはイエス様のお身体に香料を塗ろうとやってきます。朝早くまだ暗いうちにとあります。

マルコ福音書を見ると、

16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

マクダラのマリヤさんだけでなく、たぶん三人で行ったのでしょう。墓の前には大きな石があるし、ローマの番兵が誰も入れないように番をしているので、彼女たちはイエス様に会いに行ける何の確証もないままに…ただイエス様への愛で墓に向かっていったのです。

マタ

27:62 さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、

27:63 こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。

27:64 ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」

27:65 ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい」と彼らに言った。

27:66 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。

ですから、墓に行くことも危険でした。ローマの封印を外して墓の中には絶対に入れません。 でも行った時に墓の石はどけられていたのです。

マタ

28:2 すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

28:3 その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。

28:4 番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようにな

った。

そして女たちは、墓の中にイエス様がおられない事を知り弟子たちに知らせに行くのです。

20:2 それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」

20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。

20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。

20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、

20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。

イエスが愛されたもう一人の弟子とはヨハネの事です。ヨハネらしいいい方です。

ヨハネの方が若かったし、足も速かった。ヨハネは墓の前で覗き込んだ。ペテロは遅れてきたけどそのまま墓の中に飛び込んだのです。

20:4 ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。

20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。

20:6 シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓に入り、亜麻布が置いてあって、

20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。

20:8 そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子も入って来た。そして、見て、信じた。

イエス様は墓の中にはおられなかったのです。

この時、番兵たちはどうしていたか?

マタ

28:11 女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった

事を全部、祭司長たちに報告した。

28:12 そこで、祭司長たちは民の長老たちとともに集まって協議し、兵士たちに多額の金を与えて、

28:13 こう言った。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。

28:14 もし、このことが総督の耳に入っても、私たちがうまく説得して、あなたがたには心配をかけないようにするから。」

28:15 そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。

ペテロとヨハネは、墓の中を見て‥信じた・・・何を信じたのでしょうか?墓が空であること。イエス様のお身体がない事を信じたのでしょう。復活までは信じていなかった。

20:9 彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかったのである。

20:10 それで、弟子たちはまた自分のところに帰って行った。

弟子たちは、また自分のところへ帰って行った。そりゃあ当然と言えば当然です。人が復活するなんてことは、すぐには信じられません。・・・・イエス様が既に何回も行っていた受難の預言も彼らは理解していなかったのです。

マタ

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

三日目によみがえるという事は理解していなかった・・・だからここでは何かよくわからないがイエス様のお身体がいなくなった。盗まれたか・・どうなったか???よくわからないままに自分たちのところに帰りました。そして人々を恐れて隠れていました。

男性と言うのは弱い者ですね・・・しかし、女は強し・・逃げることもせず、ローマの番兵も、封印破りも恐れずイエス様への愛でやってきたマクダラのマリヤはそこに残るのです。そこで泣くのです。

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひ

とりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。

20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

七つの悪霊を追い出していただいたといわれるマリヤは、

ルカ

7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。

7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。

7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

7:47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています」と言われた。

7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

まさに罪ゆるされて、その喜びの中でイエス様についてきた人なのです。

マリヤが覗き込んだ時二人の御使いが見えました。

その御使いに私の主がわからないのです。と泣くのです。

20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」

20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。

このマクダラのマリヤは復活されたイエス様に一番最初に出会った人となります。

彼女はイエス様とはわからなかった・・・・後にエマオ途上の二人の弟子も旅の道中でイエス様と話をしている間・・・イエス様とはわからなかったという事があります。イエス様とわかるのは聖霊が働かれる時じゃあないかと思います。

20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

この言葉・・感動しませんか・・・

罪人として処刑されたイエス様・・・その罪人の体を引き取るという事は、この世的な何か益があるでしょうか?絶対にないでしょう。人からの非難もあるでしょう。

でもマリヤは・・・そのの管理人だと思って、教えて下さい。私が引き取ります。と言うのです。なんたる愛の言葉でしょうか。

良きサマリヤ人の話で、傷ついたサマリヤ人を介抱して、宿屋に連れていき、自分のできるだけのお金で介抱を頼み、足らなかったら言ってください。私が払いますといった無私の愛の言葉を思います。

ルカ

10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

何の得にもならないと思うのに・・・マリヤはイエス様のお身体を引き取るというのです。

その時イエス様から声がかかります。

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。

このマリヤと呼びかけた言葉は彼女にイエス様がわかるようにしてくださいました。

「マリヤ」この言葉は彼女にどんなに嬉しかったでしょうか・・・・

「豊島守」 まあ「守」かな・・そんな声が聞こえたらどんな嬉しいでしょう。

もう死んでいるイエス様からの声なのです。マリヤは先生・・・ラボニとヘブル語でイエス様とわかって呼びかけました。

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)」とイエスに言った。

この一節は大好きな箇所です。

イエス様に会えなくなって・・・絶望している時に・・・まさに闇のような心の中に

イエス様から七つの悪霊を癒していただいた事。イエス様から頂いた多くの愛を思い出す中で・・・もうイエス様はおられないと思っていた時

イエス様から懐かしい呼び声がするのです。

そして生きておられるイエス様にお会いできたのです。

よみがえられたイエス様にお会いできたのです。

個人的にお会いできたのです。

現代でもそんなことはあるかもしれません。どんなに嬉しいでしょう。

マリヤはイエス様に飛びつこうとしたのでしょう。

20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい。」

20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

これが復活の証し、週の初めの日の朝 墓の前で起こった事なのです。

イエス様の預言通り、イエス様は私達の罪の身代わりとして死に、三日目によみがえられたのです。

私はこの言葉、イエス様の復活を、聖書の言葉を通して信じています。

大いに喜んでいます。私の信仰の原点はここにあるからです。

その意味でこの復活の朝の喜びは大きなものなのです。

単なる希望ではない 聖書の語る大いなる事実として信じているゆえに、私達は生かされているのです。

15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。

15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

祈り

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