2021年9月26日(日)

説教題 「塩けを保ち和合して暮らす」

聖書箇所マルコ9:38~50

マル

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」

9:39 しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。

9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

9:41 あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。

9:42 また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

9:43 もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。

9:45 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

9:47 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

9:48 そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。

9:49 すべては、火によって、塩けをつけられるのです。

9:50 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

おはようございます。

聖書日課は先週からの続きです。

先週はクリスチャンの生き方を教えてくれました。

9:35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」

みなのしんがりとなって仕える者でありなさい。

と教えられました。

さて今週も、クリスチャンとしての生き方についての教えがイエス様によって語られます。

キリストの福音 十字架のイエス様を知ったもの。救われたものとしての生き方についての言葉と考えられます。

私たちは新約聖書の中でも、これをしてはならない・

これをしなければならない・・・・。

というイエス様からの命令の言葉を見ます。

イエス様はいつも、いつも甘い、耳に心地よい言葉だけではありません。

こうしなさいと言う命令です。

旧約聖書の律法と同じように見えます。

そして私たちがそれを守ろうと頑張り、それを守れない事で落ち込むならそこには救いはありません。

律法が人を苦しめるだけです。

しかし、イエス・キリストはそんな私たちのために来てくださった。イエスキリストを信じ、私達を律法の呪いから解放してくださいました。

そこに福音があります。

そしてキリストの福音に立つとき、私たちの生きる指針としてまた戒め、律法があります。

そういう意味でイエス様からの命令は、キリストにあって救われた者への生き方を教えてくれるのです。

3つの聖句に注目しました。

① 9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

② わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

③ あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

まず、9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

のみ言葉についてですが

聖書を読んでみますと

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」

9:39 しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。

9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

9:41 あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。

この箇所はイエス様の弟子ヨハネが、自分たちだけがイエス様の弟子であり、あとの者は正しくない者たちである。との心の狭い、仲間意識みたいな姿を見ます。

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」

これって心狭そうですが・・・現代の教会でもあるところもあります。自分たちだけが正しい信仰を持っている。他の人たちはみんな間違っていると考える人もいます。

イエス様はそうではないと言われます。

神様はいろんな方法で人々を導いておられます。

今、キリストを救い主として信じていない人をも神様は導いておられます。

そのような人々を敵とみなすことはやめなさい。

明らかにキリストに敵対する人とは戦う必要もありますが・・・・

私達、今でいえばクリスチャンたちに反対しないものは私たちの味方です。

私たちに良くしてくださる人たちには神様の恵みがあるのですと言われるのです。

9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

9:41 あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。

今、クリスチャンとして生きる私たちは、この社会で生きています。特に日本はキリスト教国ではありません。残念ながらクリスチャンの人口は国民の1%以下

その中で私たちはキリスト者として生きています。喜んで生きています。

で、その中で私たちはこの世、社会と敵対して生きていくのではないと思います。

クリスチャンになって最初の頃は、自分はこの社会に生きているのではない。この世はサタンが支配する国。偶像礼拝に満ちた社会。キリストとは相いれないものと思いました。

ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。

という言葉を思っていました。

この世の神は偶像だから・・それとは離れなければいけない。

お寺にも神社にも近づかない・・・子供達にも盆踊りも禁止、祭りも禁止

教会の行事だけの中で生きていました。

自分たちだけが正しい信仰に生きているという考えでした。

まあ極端な信仰でした。

前の教会を離れて・・・堺育麦キリスト教会に導かれて・・・・神戸ルーテル神学校の授業で信仰義認の話に感動し、新しく福音に導かれる体験をして、私の考え、信仰生活はかなり変わりました。

私はキリストによって救われている。そしてまだキリストの事を知らない人がこの世界にはたくさんいる。日本なんかほぼ大部分の方々です。その方々にイエス・キリストの素晴らしい福音をお知らせするのが私たちの務めです。

あの人はクリスチャンではないから・・偶像礼拝の中にいる人だから・・・・一緒に調子を合わせてはいけない。自分たちは一線を引かなければならない。確かにそうかもしれませんが、より多くの方々に福音を伝えるには・・・・そこに飛び込んでいかなければならないと示されました。

そして一緒にキリストと共に生きる方々ができるように心から願うのです。

そんな思いで、堺育麦キリスト教会に遣わされて、ここで牧師になって・・・堺は自分の出身地でもなく、まわりに知り合いがいるわけでもなく、どこから福音を伝えていけばいいかとほぼ途方にくれる感じでした。まずはトラクトを作って、ご近所に配ろうとしました。私たちの教会のある鳳中町だけでも3000世帯ぐらいあるんです。そこをずっと歩いて地域を考えました。

そのころダーク先生が来られてからいろんなところにトラクトや教会案内を一緒に配って、ウエスティーのホールでチラシを配って叱られたり・・・なかなか地域へのつながりができませんでした。ご近所さんだけが知り合いみたいな感じでした。こんな素晴らしい福音をいただいているのに、どう伝えていったらいいのか・・・

本当に焦ったり、祈ったりでした。

牧師になってしばらくして、ひょんなことから私が三谷ファミリークリニックに糖尿病

で通院することになり・・・・、しばらくして主治医の巽先生からちぐさのもりの開設の話があり、豊島さんも手伝ってと言われました・・・・・

牧師という事ではなく、ただのおっさんという事で関わることにさせていただきました。

その時、福音を語るという事は目的にはしませんでした。とにかく地域の方々と親しくなること。それがメインでした。

聞かれれば私は牧師ですとは言いますが、信仰を勧めるという事も封印しました。

教会にいても、小さな教会ですから、誰かが訪ねてくるというわけではありませんから・・私が出ていかなければ人とは関われません。

と言って、むやみに訪問してもなかなか人との関りなんて言うものができるわけではありません。

ちぐさのもりの働きにわたしを導いてくださったのはまさに神様の恵みでした。

そこから私はたくさんの方々と知り合いになりました。西区の福祉関係の方々とも、知り合いになりました。

全く、この地域で人脈もなくて、つながりもなかったものが結構人脈ができました。

その人たちに、もし気が向いたら読んでください・・・。興味があれば聞いてください。という事で、少しづつ福音を語っています。(なかば押し売りみたいな感じで毎週、説教をLINEなどで送らせてもらっています)

ちぐさのもりに関係している方々はほぼほぼクリスチャンではありません。

でも私を牧師と認めたうえで、私に反対されるわけではなく・・・親しくしてくれている人ばかりです。この方々を大切に思っています。

大鳥大社の宮司さんの奥様とさえ親しくさせてもらっています。

そしてちぐさのもりの働きをとっかかりとして・・・・さらにいろんなところに知り合いが増えています。フェイスブックも用いられています。その方々との交わりの中で

9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。

このみ言葉をいつも心に刻んでいるのです。

そして二番目

9:42 また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。

わたしを信じるこの小さい者たちって誰の事でしょう?

イエス・キリストを信じている人たち。クリスチャンになったばかりの人たち。小さ

い者たちとは、力弱い人たちの事でしょう。信仰がまだ弱い人たちでありましょう。イエス・キリストを信じ。主に従っていこうと毎週礼拝に集い、歩んでいる皆さんは信仰の強い人たちであるでしょう。

つまずきを与えるという事で、良く引用されるのがⅠコリント8章の偶像に備えた肉を食べても良いかどうかという問題です。

信仰の強い人は、この世の偶像なんて神ではない。そこにささげた肉なんて何の意味もないただの肉だ!という事で偶像に備えた肉でも普通に食べてしまいます。しかし、信仰の弱い人。偶像を恐れている人にすれば、あの人が食べているんだから私も食べてみようと食べてみたら・・・・何か罪を犯してしまったみたいで落ち込んでしまう。これはつまずきを与えたことになるという事です。

Ⅰコリ

8:1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

8:2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。

8:3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

8:4 そういうわけで、偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています。

8:5 なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、

8:6 私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

8:7 しかし、すべての人にこの知識があるのではありません。ある人たちは、今まで偶像になじんで来たため偶像にささげた肉として食べ、それで彼らのそのように弱い良心が汚れるのです。

8:8 しかし、私たちを神に近づけるのは食物ではありません。食べなくても損にはならないし、食べても益にはなりません。

8:9 ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。

8:10 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。

8:11 その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。

8:12 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。

8:13 ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。

こんなことであります。信仰を持っている強いものが小さい者につまずきを与えないようにしなさい。と勧められています。

私が大鳥大社の中でいることは、昔の私のようにクリスチャンは神社には行ってはいけない。と思っている方には。つまずきを与えているかもしれません。

自分が正しいと思っている事。何にも気にしないでいることの行動でも、誰かをつまずかせることが起こってしまう。

これはいつも祈って気をつけなければならないと思います。

そんな人は むしろほうがましです。 こんな想像して恐ろしい事です。子供の頃、海に深く潜れなくて、大きな石をもって潜った事があります。その石が離すことができなかったら沈んだままです。大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれた

というような恐ろしい警告がなされているのです。

その後の数節は、私たちは自分に厳しくなければならないとの教えです。

今日は割愛します。

9:43 もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。

9:45 もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

9:47 もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。

9:48 そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。

人にではなく自分に厳しきものでありなさいとの言葉であります。

そしてまとめとしての三番目

9:50 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

塩けとは何でしょうか?

自分に厳しくあることです。

自分に甘い人には塩けがないと言えるでしょう。

また塩気とはローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。

と言う生き方です。この世に埋没することではありません。一線を画すという生き方です。

クリスチャンは、世にあっていろんな社会に、そこに入ります。

また人々と親しくします。

しかし、塩気が無くなってしまう事のないようにクリスチャンとして生きます。

塩気が無くならないように…と言っても塩気ばかりでは辛すぎていけません。

まさにこの塩梅(塩加減)が難しいものだと思います。

最近料理を作りますから、塩けの大切さと、入れすぎた時の悲惨さがわかります。

人をつまずかせないように。塩気を失わないように・・・・

特にここではあなた方は自分自身の中に塩気を保ちなさいと言われます。

これはあなたの心の中で塩気を保ちなさいという事です。

外の人には甘い柔らかなものであって、心の中には自分自身で塩気を保ちなさい。

まさに人に優しく自分に厳しくという生き方であります。

そして人々は私の味方と信じて・・・

互いに和合して暮らしなさい。

和合とは打ち解けあって仲良く暮らすことです。

私たちのこの世にあっての生き方の結論として

あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

ここにつきるのであります。

そしてこれが、神様が私たちへの勧めです。

これは、命令ではありますが。このように出来ないからと落ち込む事もありません。

できなくて当り前みたいなものです。そのためにイエス様が来てくださったのです。主にある時私たちは、どんな失敗も赦されているのです。

イエス様の十字架により、罪が赦されているのです。

それゆえに、私たちは喜びの中でキリストの命令の中に生きようとさせていただくのです。

これが、神様が私たちに与えてくださっている理想の生き方なのであります。

目指しましょう!!!!

あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

人に優しくあっても、自分には厳しく、塩気を保ち、互いに打ち解けあって仲良く暮らして行こうではないですか。

イエス様が助けてくださるのです。

難しい生き方かもしれませんが、主が共にいてくださるのです。

最後に一つの詩を読んで終わります。

あしあと(フットプリント)という詩です。

あしあと(Footprints)

ある夜、私は夢を見た。

私は、主と共に、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上に

二人の足あとが残されていた。

一つは私の足あと、

もう一つは主の足あとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

私は、砂の上の足あとに目を留めた。

そこには一つの足あとしかなかった。

私の人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつも私の心を乱していたので、

私はその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ、私があなたに従うと決心したとき、

あなたは、すべての道において、私と共に歩み、

私と語り合ってくださると約束されました。

それなのに、私の人生のいちばんつらい時、

一人の足あとしかなかったのです。

いちばんあなたを必要としたときに、

あなたが、なぜ、私を捨てられたのですか?」

主は、ささやかれた。

「私の大切な子よ、

私は、あなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みの時に。

足あとがひとつだったとき、

私はあなたを背負って

歩いていたのだ」

主があなたと共にあなたを導いてくださいます。

祈り

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