2021年9月5日

説教題 「願い続ける」

聖書箇所 マルコ7:24~37

7:24 イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。

7:25 汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。

7:26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。

7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」

7:28 しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

7:29 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」

7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。

7:31 それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。

7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるよう、願った。

7:33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。

7:34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。

7:35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。

7:36 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。

7:37 人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにされた。」

おはようございます。

今日は第一週ですので通常に戻して聖餐式を行います。という予定でしたが今

日はやり方を少し変えます。

先日、大分県のフルゴスペルキリスト教会という所で、集会に集まった人たちにたくさんのコロナ感染者が出たとニュースで知りました。

マスク無しでの合唱が非難されています。また軽い飲食もあったように聞いています。私たちも教会の礼拝は大切なものだと考えて、対面とオンラインで行っています。

もし感染者がでたら・・・・と考えると本当に厳しいものがあります。

しかし、私は礼拝を行うという事も大切な教会の働きと確信しています。

しかし、この世に対してもあまりにも非常識な礼拝は避けたいと思います。

先日、聖餐式を行い。教会はやっぱり聖餐式が大事だなあと感動したばかりです。

そして聖餐式の重要性も学びました。

今日は第一日曜日なので聖餐式の予定です。

そこで考えました。

で、パンとぶどう酒をいただくと言うのは、やはり飲食になると考えられえるので・・・・・飲食はしないで聖餐式のみことばを朗読させていただき。

皆さんは心と霊で聖餐式の恵みにあずかって欲しいと思います。

後程、聖餐式は形を変えて行います。

さて、太田頌子姉は9/2に無事に退院されました。神様がお祈りに応えてくださって本当に感謝です。お元気そうな姿を見ることができて嬉しいです。

今日ご一緒に礼拝を守れるとは思ってもいませんでしたから・・・まさに驚きと感謝です。

これからまだ治療は続きますのでそのためにもお祈りください。

小谷姉

昭二兄

さて先週はマルコ福音書とヨハネ福音書を勘違いして説教をしてしまいました。本日は間違いなくマルコ福音書からです。(笑い)

さて本日の聖書日課は、イエス様がユダヤ人ではない、外国人(異邦人)に癒しを行った画期的な箇所です。

もともと神様は、すべての人を愛され、すべての人が救われることを望んでおられます。

しかしその方法として創世記12章でアブラハムと言う人を選びだし、アブラハムを通して全人類がアブラハムと言う人を通して祝福が与えられるという約束です。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。

12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。

12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

アブラハムという人物 家族を含めても小さな、小さな家族からイスラエル民族が生まれ育ったのです。イスラエルとユダヤ人とは同じです。

ですからこのユダヤ人を通して人類の救いが広がっていくんだと言う約束です。

その意味で、イエス様もアブラハムの子孫 ユダヤ人です。まずユダヤ人に救いが伝えられ、そしてユダヤ人を通して世界に神様の祝福、救いが広がっていくという事です。

しかし、ユダヤ人は自分たちが神様に選ばれた民という事に満足し・・・自分たちを通して世界のすべての人類に祝福が届けられるという任務も忘れて

自分たちだけが神様に選ばれた民族だという事。選民思想がありました。

自分たち、ユダヤ人だけが神様に選ばれ愛されている・・・その他の民族は汚れた民であるという意識です。

やがて来られる救い主、旧約聖書の中に預言されている、救世主、メシヤ(ギリシャ語でキリスト)はユダヤ人だけのためにあるとさえ思っていたのです。

そしてイエス様もユダヤのベツレヘムで生まれ、ガリラヤ湖付近で神の国を宣べ伝えます。これもユダヤの国です。そしてユダヤの国の都 エルサレムに行き、そこで十字架にかかるのです。いわばその生涯はユダヤの中でありました。

そのイエス様がユダヤの国を離れて外国に行くときがあります。

それが今日の聖書日課の箇所です。

7:24 イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。

ツロと言うのは、ユダヤの国の隣国 フェニキアと言う国の町です。地中海に面した大きな港町です。

そこをでてと言う、そことは、たぶんガリラヤ伝道での拠点カペナウムだと思います。あるいはその近辺 とにかくユダヤのガリラヤ湖の周りでの働きでした。

そこから隣の国に行った。当時は隣の国と言っても、この時代は当時の全世界がローマ帝国の支配化でありましたから。自由に行き来ができた。ノービザみた

いなものです。

それでも神様の民と自負しているユダヤの国とは違う・・・いわば割礼のない人々が住んでいる異邦人の国と言うのは大きな違いがありました。

イエス様たちは、この時、ユダヤの国の中でものすごい人気でした。人々を癒す人でした。奇跡もいっぱい起こしています。5000人の給食もついこの間ありました。たくさんの人々がイエス様のところに押し寄せてきているのです。

そこから離れるという意味もありました。前にも言ったリトリートと言う感覚でしょう。

ガリラヤ湖の向こう岸に行ったくらいでは、群衆がどんどんやってきます。もっと離れた地域に行って静かにしたいと思ったのです。

ここにきていることは誰にも知られたくないと思われたが隠れることができなかった。

7:24 イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。

国は違っていてもイエス様の評判は聞こえていたんです。そのツロの町にギリシャ人の母親がいました。マタイ福音書ではカナン人と書かれています。とにかく異邦人です。

7:25 汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。

汚れた霊につかれた小さい娘

自分の可愛い娘が苦しんでいるんです・・・突然叫びだしたり…高熱でうなされたり・・・・ひきつけたり・・・母親にはどうすることもできないのです。ただ横でおろおろするだけです。こんな時、世のお父さんも自分の子のために心配すると思いますが・・・お母さんはもっとすると思います。

自分の娘。どんなに重い病気でも娘への愛は偉大です。娘のためになら自分のすべてを、いのちさえ差し出しても構わない・・・そんな愛があります。今パラリンピックが開催されていますが・・どんな重い障害を持った子にもお母さんがいて・・・そのお母さんの愛によって子供が守られ成長している姿を見ます。

日本ではどうすることもできない心臓移植などの手術をするために莫大な費用を集めるためにお母さんが街頭に立っている姿を見ます。

親は、元気で頭のいい子だけが可愛いのではなく・・・病気ばかりで、動けない子であっても同じ愛を注いでいるのです。神様はすごい事を人間にプログラムされていると思います。

病気で動けない子といたら・・普通の人はかわいそうにと思うくらいでしょうが・・・神様はその母親に、父親に、その子に対して可愛いと思う心を与えてくれてい

ます。客観的にみるとそんなにたいしたことのない子でも、親にとっては特別の存在なのです。

運動会などでも、他の子はどうでも良くて・・・自分の子が一番かわいく見えるのです。これは神様が与えてくれたプログラムと思います。

残念ながら最近、そんな子供に対する愛が欠落している親に会う事もありますが・・・・・大部分の親は、子供のために無償の愛を注いでいるのです。

ここでは小さい娘とあります。

お母さんはどんなにその子の事を思ったでしょう。

今ならあらゆる病院に連れていくでしょう。しかし、効果はないのです。

そんな時、風のうわさで聞いた・・・ユダヤに素晴らしい人が現れた。預言者か救い主か?とにかく偉大な方が現れた、目の見えない人を見えるようにし、悪霊を追い出し、中風の人を癒し、歩けない人を歩けるようにされる・・・・

その方の名はイエスと言われる。

その方はユダヤ人の救い主だと噂されている。テレビも新聞も、携帯電話もないこの時代に隣の国の事が良く伝わったものです。

確かに瞬間に情報が伝わることはできませんが、昔であっても、人々の噂話は今よりも活発で・・・いろんな情報は伝わっていました。

この時、母親は、このイエス様にかけました。このお方に頼もう。このお方こそ私の娘を癒してくれる人に違いない。

そう信じてイエス様のところに来て足元にひれ伏したのです。

7:25 汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。

お忍びで外国であるツロに来ているイエス様の前に、足元にひれ伏したのです。

7:26 この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。

この女はギリシャ人です。ユダヤ人から言えば無割礼の民、汚れた民・・・神様の祝福からは程遠い異邦人です。スロ・フェニキヤの生れ ユダヤとは全く関係もありません。イエス様とは何の関係もありません。地縁も血縁もありません。全く何のコネもない人です。

そんな人がイエス様の噂を聞いて・・・

イエス様はだれとも会わないように隠れていたい時。ゆっくりしていたい時

足元に来てひれ伏して・・・迷惑がられていると思われるのも構わずに。私の娘から悪霊を追い出してください・・・・と何度も何度も何度も・・・ここでは願い続けたとあります。

娘に対する愛と、このお方こそ癒してくれるお方と信じてお願いしているのです。

どこまでこの女にイエス様への信仰があったかはわかりません。でもこの女の人はイエス様にかけたんです。願いづけたんです。

子供の頃にお百度参りの手伝いをした事があります。近所のは

その母親に向かってイエス様から声がかかりました。

やっとイエス様が声をかけてくださった・・と喜んだでしょう。

7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」

これは厳しい言葉でした。イエス様はまず子供たちに満腹させなければなりません

これはユダヤ人たちが神様に選ばれた民です、まず彼らに祝福を与える必要があります。私はそのために来ているのです。

ユダヤ人たちを癒すのは私の使命です。私はユダヤ人のためにあげるパンを小犬にあげることは良くない事です。

旧約聖書を読んでいるとイスラエルの民に神様がどれほどの愛と恵みを与えられたかが良くわかります。奴隷状態だったエジプトから出エジプトをして、追ってくるエジプトの軍隊、前は海 その絶体絶命の時に海が割れて、彼らは助けられました。その他にも神様の恵みは数限りなくあります。

ユダヤ人たちにとってその歴史は誇らしいものでしょう。

私たちは神様に愛された民 神様の祝福された民

異邦人とは違うと言うおごりもあったでしょう。

そしてイエス様はまずそのユダヤ人たちのために来たと言われるのです。ギリシャ人である女の事を犬と呼ぶのです。

ユダヤ人への祝福を小犬に投げてやるのは良くない事です。

これは現実の中でもあることです。

イエス様とて、この母親、娘の事は心に響いていたでしょう。でもそれを聞くことは自分の子供達への祝福が後回しになる。イエス様も苦しみながらの答えのように思います。

たとえば、教会に良く、電話があります。

私は非常に困っている。食べるものがない。お金でも食べ物でもいいから持ってきてくれませんか?もうしばらくしたら生活保護の申請が通るからお金も入るからお返しします。とか

病気で仕事に行けていないので、何にも食べていない・・・・いくらか助けてもらえますか?とかいろいろあるんです。

その言葉にかわいそうにと思い、何回もお助けして・・・帰ってきたためしがありません。

また相談に乗ってくださいと言う電話もあります。いろいろ相談にのって教会に来てくださいとお話したりします。中にはすぐにこちらへ来てほしいという方もあります。

何回も裏切られた思いをしていますが・・・最近ではこのイエス様の言葉を語ることにしています。

あなたを助けたいけれど・・私は堺育麦キリスト教会の牧師です。自分のところの関係者ならばどんなときにも、どんな所へでも出かけていきますが・・・あなたは私の子供ではない。わたしにも限界があります。まず教会員を優先します。というような事をお話します。

だからイエス様の言葉が冷たいようですが・・その心の中には葛藤があることも思うのです。

しかし、現実は、この女性は、また娘さんはギリシャ人であり・・・イエス様の手が届かないのです。と言いました。

7:27 するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」

さてこういわれた母親の方はどうでしょう?

イエス様に最後の望みをかけて・・・・しかも滅多に来ることもないツロの町にイエス様が来られた・・・もうこの機会を逃したらイエス様にお会いすることはできない。

なんとしても願いを聞いてほしいい

娘を癒してほしい・・・そのためなら自分はどんな苦労でも受ける。女は弱しされど母は強しという言葉もあります。

もうどんなことがあっても聞いてほしいと願い続けているのです。でもその心の奥底には私のようなギリシャ人の頼みを聞いてくれるだろうか???という恐れもありました。

そしてイエス様は、私は私の子供を優先する。犬にあげるパンはない!と言われたのです。

プライド高い人なら…この言葉にぶちぎれて・・・怒って帰るかもしれません。

しかし、彼女はこの中でも冷静だった・・・

売り言葉に買い言葉と言うことばがあります。

相手の挑発的な言葉を受けて、負けずに強い言葉で言い返す。わたしを犬と言ったな。なんと失礼なと怒ってしまう事です。

この女はそうはならなかった・・・・

本当にすごい事です。賢い女性です。

旧約聖書でダビデと言う王様になった人がサウロ王に追われて荒野を放浪している時がありました。部下たちと共に移動しているので兵隊たちの食料も必要です。その時その地域の金持ちが羊の毛の刈り取りの祝いをしていました。その所に家来に挨拶に行かすのです。私はダビデです。荒野を巡っている時、私たちはあなたを襲う事もせず、守ってあげました。つきましてはいま、少し私たちに食料をくれませんか?と丁寧に挨拶に行くのです。

ところがこのナバルはケチな奴で、私はダビデなんか知らない。そんなごろつきになんで食料を分けてやらないといけないのか、ダビデなんか最近よく見るごろつきみたいなものだ。と言うのです。

家来はこれをそのままダビデに伝えました。

ダビデは怒り狂い、者ども剣を取れ!!ナバルを殺してしまえ!!と出かけるのです。

まさにナバルの売り言葉にダビデの買い言葉です。

激しい言葉に激しく応答していい事はないのです。

この時はナバルの妻アビガイルと言う人が機転をきかし、ダビデをなだめる言葉を伝える箇所があります。まさに賢い女でありました。

それに勝るとも劣らない、この母親です彼女はイエス様に

7:28 しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」

彼女は主よそのとおりです。と現実を認めるのです。確かに私はユダヤ人ではありません。異邦人です。ギリシャ人です。イエス様がたとえて言われた犬です。

このことを怒らず、認めるのです。

しかし彼女は、それであきらめたのではなく

しかし、食卓から落ちたパンくずはいただきます。

あなたのパンには大きな恵みがあるのです。落ちたパンくずでもいいのです。それを食べさせてください。食べたいのです。と食い下がるのです。

この女にとって自分の小さなプライドなんかどうでもいいのです。

娘を助けたい!!その愛の心が大きいのです。

ここで彼女から三つの事を学びました。

① 現実は素直に認める。(自分がギリシャ人であること、犬と言われることも認める)

② 現実がそうであっても、あきらめない(落ちたパンくずでもいただきます)

③ なぜか娘のため キリストにかける心

可愛い娘の癒しのためには自分がどう思われようと、どう辱められようと、このイ

エス様に頼る心。これは信仰です。

あきらめない心を見ます。

願い続けたのです。

この言葉に対するイエス様の答えです。

7:29 そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」

7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。

イエス様は確かに意地悪な答えをしました。しかし、それに対してもなお求めるもの。この女の願いを聞かれたのです。

まさに

マタ

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

求めなさいとは、時制としては一回限りでなく。求め続けなさいと言うことばです。

求め続けなさい。捜し続けなさい・・・・叩き続けなさい・・・そうすれば愛のイエス様はその願いに聞いてくださるのです。

実際はユダヤ人もギリシャ人もないのです。すべての人とためにイエス様は来てくださっているのです。最初はユダヤ人のところに来られましたが。本当の目的は、すべての人のためにイエス様は来てくださっているのです。

それが、このツロと言う外国への訪問の時に明らかにされているのです。

私たち一人一人のためにもイエス様は来てくださっているのです。

そして求め続けるもの。現実を認めつつも、あきらめずに、イエス様こそ救い主と信じるものに恵みを与えてくださるのです。

私たちにもこの女性のような愛と信仰を与えてくださいと祈るのです。

祈り

聖餐式(コロナ対応)

讃美歌 1,2節讃美 讃美歌205 (歌詞をかみしめて小声で賛美しましょう)

(この間に、聖餐の覆いを取り、蓋を取る。)

式辞

愛する兄弟姉妹、私達は今、聖餐にあずかろうとしています。そこで主イエスの言われたことを思い起こしましょう。

「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。これは、罪のゆるしを得させるようにと、あなたがたのために流すわたしの血である。」

私達は、このみことば通りに、キリストご自身がこの礼典の中においでになり、私達のすべての罪をおゆるしになった確証として、ご自身のからだと血とを、私達に与えて下さる事を信じなければなりません。

従って、私達は、共にこのような尊い賜物を与えて下さった主イエス・キリストの父なる全能の神に感謝をささげ、きよい心をもって互いに愛し合い、聖なる全キリスト教会と共に、主イエス・キリストにある慰めと喜びとをいただこうではありませんか。

主の祈り(牧師が唱えますので心合わせて下さい)

制定の言葉

私達の主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、そして言われた。「これは、あなたがたのためのわたしのからだである。わたしを覚えるため、このように行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびにわたしを覚えるため、このように行いなさい。」

配餐

コロナ感染予防のために本日は、飲食は致しません。

しかし、私たちは主イエスが十字架にかかる前の最後の過ぎ越しの食事の際に制定されたこの聖餐式を覚えるのです。

あなた方の心と霊で、イエス・キリストの聖餐の恵みを覚えてください。

三分間の黙とうをします。

宣言

願わくは、十字架につけられ、死からよみがえり、私たちのすべての罪を贖われ、その聖なるからだと血とを、今、わたしたちに与えられた主イエス・キリストご自身が、それによって私たちを強め、まことの信仰のうちに、永遠のいのちに至るまで守られるように。アーメン

祈祷

恵み深い父なる神様。限りない憐れみといつくしみをもって主の食卓にわたしたちを招き、今、聖餐にあずからせてくださいましたことを心から感謝いたします。あなたはこれによって、御子イエス・キリストのあがないの恵みを、わたしたちのうちに確かなものとし、わたしたちの罪をゆるして汚れをきよめ、永遠のいのちを約束し、御国の相続者となる望みを堅くして下さいました。聖霊の助けにより、今、感謝をもって、私たち自身の心とからだとを神に喜ばれる生きた聖なる供え物として御前にささげます。

また、主のからだの枝である自覚がいよいよ深められ、互いに励まし合いながら主に仕える事ができますように。そのようにして、キリストの復活のいのちに共に生かされる事を喜び、キリストの苦しみにあずかる証しを立て、おりを得ても得なくてもみことばを証しし、主ご自身の宣教のみわざに加わる事ができますように。

主よ、常に恵みと祝福とを私たちに満たし、主イエスが再び来られる日まで、主の平安のうちを歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

讃美歌 3,4節

祝祷

願わくは、主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

願わくは、主が御顔を持ってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。

願わくは、主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。 アーメン

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