2021年8月29日

説教題「わたしの時はまだ来ていない」

聖書箇所 ヨハネ7:1~8、14~15、21~23

ヨハ

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。

7:2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。

7:3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。

7:4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」

7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。

7:7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。

7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」

7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。

7:11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか」と言って、イエスを捜していた。

7:12 そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言う者もいた。

7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。

7:14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。

7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」

7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。

7:17 だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

7:18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。

7:19 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」

7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」

7:21 イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。

7:22 モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。──ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです──それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。

7:23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。

おはようございます。

先週太田頌子姉のためにお祈りしましたが。8/25に無事に手術が終わって、頌子姉の元気そうなお声を電話で聞きました。

また小谷姉も昨日退院されたと伺いました。本当に良かったです。神様ありがとうございます。

今井姉のご主人は

コロナもまだまだ収束せずさらに拡大しているような状態です。

皆様にも大変な事がいっぱいある事と思います。

それでも日曜日の礼拝を大切に思い、主を礼拝するために集って来られている皆様の上に神様からの豊かな祝福があります。

いろんな事情で教会には来れていないけれど、それぞれの場所で工夫して礼拝している皆様にも神様からの祝福がありますようにお祈り致します。

私ごとになりますが、昨年の今頃は、悦子が末期がんで8月25日に自宅に帰ってきて・・・・・9月5日までの12日間。

いろんな方々がお見舞いに来てくださり・・・・家内もいつも笑顔で過ごせて

私たち家族も最後の時を悦子と一緒に過ごすことができました。

不思議な、不思議な神様の恵みの中に生かされた時でした。

でも毎日の介護で、まさにいっぱい、いっぱいのような時でした。

昨年のこの期間の日曜日は8月30日でした。コロナで教会の礼拝はなしで、土曜日に録画を撮って・・日曜日に皆さんがそれぞれの場所で聞くという形でした。

日曜日は、悦子の部屋で、私達家族と、私の妹と森田さんも来られて、礼拝をしました。悦子の地上での最後の礼拝でした。恵まれた時でした。

その日は13人もの来客がありました。

その時は、まだもう少し生きてくれるように思っていました。

でも今から考えると皆様とお逢いし、良き思い出の時間を持てたと感謝しています。

もう一年経ったんです。短いようで長いような・・・

そんな感慨にふけっております。でも確かに言えることは

ロマ

8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

このみ言葉はまさに真実であると考えるのです。

さて今日の聖書日課に入ります。

今日は聖書を読みながら、その背景、情景を解説していきます。

という事で私は皆様に大変大きな失敗をしていたことを言わなければなりません。

本日の聖書日課は、先週の週報にも書いているようにマルコ7:1~8,14~15,21~23 でした。それを何を間違ったか…私はヨハネ福音書と思い込んでしまいました。いつも日曜日に次の週の説教を研究し始めるのですが・・・その前は確かにマルコで見ていたのに・・先週の日曜日にヨハネと勘違いして・・・その聖句をパソコンに書き写して・・・・そこからずっとヨハネと思い込んで準備していました。やりながら 今日は三つに分けているのに、なんか意味がわかりにくいなあ・・・そのまま続けて読まないと意味がわからないなあ・・・と思ってはいましたが。

先週までヨハネ福音書6章を話していたので話はつながっていたのです。

で、気が付いたのが、昨日、やっと説教準備も終わった・・とホッとしていたら・・・

えっ!マルコという事で大ショック

なんか話ずらい箇所をまとめたのに・・・・今さらマルコは時間がないという事で。

本当に申し訳ないですがヨハネ7章から説教をさせていただきます。

でも私は勉強になりました。ですから私は今日の箇所を聖書日課と思い込んで準備しましたので・・・皆さんもそういう思いで聞いていただければありがたいです。(まさに冷や汗ものです)

ヨハ

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。

7:2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。

7:3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。

7:4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」

7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

ヨハネ6章はイエス様が、わたしがいのちのパンであるとの宣言をされました。そしてその言葉につまずくものもたくさんいました。

6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

イエス様と共に歩くのは12弟子ぐらいになりました。

その後(7:1)です。イエス様はガリラヤ湖周辺を巡っておられました。ユダヤの中心地(エルサレム)の方にはいかなかった。それはユダヤ人たちが(祭司長、律法学者たちユダヤを治めている宗教指導者たちがイエス様を殺そうと狙っていたのです。

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。

さてこんな時ユダヤでは仮庵の祭りが近づいていました。

7:2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。

仮庵の祭りとは、イスラエル民族が出エジプトをして荒野を放浪している時、テント暮らしであった事を思い起こすために・・・仮庵を作ってそこで寝たりする祭りユダヤでは過ぎ越しの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りは三大祭りでありました。それゆえ多くの人々がエルサレムに集まってきました。

大体10月頃です。

イエス様の時代も、敬虔なユダヤ教徒の男子は、この三つの祭りの時にはエルサレムに上る信仰がありました。

今、毎朝父と一緒に聖書日課を聴くドラマ聖書を使って、私が父のおむつを替えたり、胸に貼るシールを張り替えたり、酸素濃度測ったり、血圧測ったりしている朝の時間に聞いています。昨日の出エジプトの34章の中で

34:23 年に三度、男子はみな、イスラエルの神、【主】、主の前に出なければならない。

とありました。そしてそれはイエス様の時代にも続いているようでありました。

イエス様が十字架にかかられるのは過ぎ越しの祭りの時。4月ごろ・・ですから、今日の仮庵の祭りは、受難の半年前ぐらいの事です。

イエス様の兄弟たちはイエス様を神の子とは信じていませんでした。でもイエス様が人々の救いのために活動していることはわかっていましたのでイエス様に、こんなガリラヤ地方でくすぶっていないで。あなたは目立ちたいんだからエルサレムに行ったらどうですか?と皮肉を言うのです。

7:3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。

7:4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」

7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

あなたの弟子たちも逃げてしまったではないですか・・・・12弟子ぐらいしか残っていない・・人々に伝えたいならエルサレムに行って語ったらどうですか?と言うのです。

7:6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。

7:7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。

7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」

7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

イエス様は「私の時はまだきていません。」と言われます。

何事にも時があるのです。今、まだイエス様は公に出ていくときではないのです。それは神様のご計画の中にあるのです。

3:1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。

3:2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。

3:3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。

3:4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

3:5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。

3:6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。

3:7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。

3:8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

3:9 働く者は労苦して何の益を得よう。

3:10 私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。

3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

あなた方は祭りですから、エルサレムに行ったらいいではないですか。私は行きません。私の時がまだ満ちていない、期が熟していない・・・と言うのです。

そしてイエス様はガリラヤでいわば身をひそめていました。エルサレムにはいかなかったのです。

しかし、聖書は不思議な事を書いています。

7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。

7:11 ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか」と言って、イエスを捜していた。

7:12 そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言う者もいた。

7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。

イエス様はイエス様の弟たちがエルサレムに行った時、密かにいかれたのです。

公けではなく、内密に上って行かれた・・・とあります。

例えていえば、靖国神社に総理大臣が参拝したら問題になるので・・・玉ぐし料は自費で、記帳は個人名で書きました・・・というような感じでしょうか。

今日の参拝は個人的なものです。だから公けではありません。

すなわち、私の時はまだ来ていないのです。と言う現れです。

時を待たれているイエス様の姿を見ます。

しかし、人々はイエス様の大きな関心をいだき、イエス様を捜しまわります。また噂しあいます。

7:12 そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ」と言う者もいた。

7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。

そしてイエス様は密かに来たので、まさに人々の前には、姿を現されないのかと思いきや・・・

またしかし、と続きます。

7:14 しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。

なんとイエス様は宮に上って、人々に教え始められた

ガリラヤ地方の田舎の会堂で、安息日に語り始めた・・ようにです。しかし、ここはユダヤ教の本場の本場エルサレムの宮です。

野球で言えば夢の甲子園みたいなところ。剣道で言えば、大浜体育館ではなく、東京の武道館で試合しているようなものです。

聞いている人は、祭司長、律法学者・・そうそうたる面々です。

7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」

イエス様の話す言葉は、律法の専門家の人たちが聞いても驚くような素晴らしい話だったのです。そこには権威がありました。

田舎の大工の息子が語っているとは思えませんでした。

7:16 そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。

これは私の教え、考えではありませんよ。わたしを遣わした方、天の父なる神様の教えを語っているからですと言われます。

7:17 だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。

7:18 自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。

7:19 モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」

7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」

群衆は、あなたは悪霊につかれています。乱心しています。気が狂っています。

自分たちが正しいと思ったら・・イエス様が間違っているとしか思えないのです。

イエス様が来られたのは、まさにその事です。

当時の宗教指導者たちは、自分たちは正しいと考えていました。しかし、それは天の父なる神様のみこころとはずいぶんずれてきているよ。正しく神様のみこころに立ち返りなさいよ。とイエス様は語り掛けるのです。

それは旧約聖書を読んでいて、いつもある事であり、繰り返されている事です。

人は正しい神様のみこころ 聖書を与えてくださっていても いつの間にか自分の都合の良いように解釈し。聖書の上に‥たくさんの教え、規則を作り上げて、それで人々を苦しめているのです。

正しく愛の神様の元に人は帰るべきなのです。その実氏を作るために私は来たのです。とイエス様は語るのです。

アそれに対して自分たちを批判されたと取る、群衆はあなたは悪霊につかれていますと極め付けるのです。

自分たちを正当化するのです。

群衆(ユダヤの指導者たち)が今イエス様を殺そうとしているのは

イエス様が安息日に人を癒したからです。その事に腹を立てる・・・いやイエス様に対して恐れをいだいているのです。

7:21 イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。

7:22 モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。──ただし、それはモーセから始まったのではなく、父祖たちからです──それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。

7:23 もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。

これはどのことを言っているのかと言いますと。

ヨハ

:1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。

5:2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。

5:3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。

5:5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。

5:6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」

5:7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」

5:8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

5:9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

5:10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」

5:11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」

5:12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」

5:13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。

5:14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」

5:15 その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。

5:16 このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。

5:17 イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」

5:18 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。

イエス様は何も悪い事はしていない。まさに正しい事をしているのに・・・ユダヤの指導者たちからは憎まれ、殺そうとされ、

弟子たちの多くはイエス様を離れていき・・・イエス様の本当の兄弟たちもイエス様を信ぜず。そんな時。まさにまだ時が来ていない時。

今日の聖書を読んでいると・・・イエス様はその時でさえ自分のなすべきことをされていた。そしてやがて来るイエス様の究極の使命、十字架での救いの完成へと歩んでおられたのです。

私の時は、まだ来ていません。

私達にもそんな事はあると思います。まだ公けにも出れない・・・そんな中で人々は私の事を誤解している・・それをうまく説明もできない。

何もかも不透明・・・

それでも私たちは忍耐して、なすべきことを淡々とやっていく。時を待つ

神様は最善の時を備えてくださっていると信じて待っていく。

私の時はまだ来ていないという時でもイエス様は、本来いのちが危ないと言うので隠れていたのに・・・信仰者として仮庵の祭りには内密に出かけていきました。

そして人々が捜しているので、目立たないようにするべきところであるのに

イエス様は人々の前で、堂々と神様からのみ言葉を語ったのです。

目立ちたいわけではないけれど・・・・なすべきことは行っていったのです。

私の時はまだ来ていない・・・そんな時にも私たちは忍耐を持って、希望を持って時を待つのです。

ロマ

5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

今日は聖書箇所を間違えての準備で、説教をするにはまとまりのない箇所でどうしようか?何を語ればいいのかと苦しみましたが

一番思うのは、まだ私の時は来ていない 私たちもそんな時、忍耐の時があります

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