2021年8月22日
説教題「御霊と肉の違い」
聖書箇所 ヨハネ6:56~69
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
6:59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
6:61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。
6:62 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」──イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである──
6:65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」
6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
6:67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
6:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
おはようございます。
先週は「聖餐式を再開します」という題で説教をし、また説教の中で聖餐式を執り行いました。
久しぶりの聖餐式でした。高橋愛美ちゃんは初めての聖餐式だったそうです。美緒さんもかな??
いのちのパンであるイエスキリストを食べる。
その血を飲む・・。
私たちはこの世にあって、いろんな心配をし、試練があり・・・不安があると思います。特に今、コロナ禍の中、天候も異常な中・・・日常生活も普通ではないです。そんな中にあって、神様が大丈夫ですよ。わたしはあなたと共にいますよ。と恵みを授けてくださる聖餐式でした。
私はとても嬉しかった。感動しました。
み言葉の約束を信じるものには、聖餐の恵みが豊かに備えられるのです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
まさにこのみ言葉にアーメンであります。
そして私たちは先週、聖餐の恵みにあずかりました。またまだ洗礼を受けていない方々の祝福のためにもお祈りをさせていただきました。
ところがこのイエス様の言葉につまずく人たちもいました。
6:59 これは、イエスがカペナウムで教えられたとき、会堂で話されたことである。
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
確かに、霊的な言葉です。普通の感覚ならば、ひどい言葉でありましょう。信仰を持って聞く時恵みですが・・・そうでない時はつまずきなのです。
何かの本で読みましたが、江戸時代 キリスト者たちはキリシタンと呼ばれていましたが・・・信徒だけで密室に集まり・・・「これは私の体である・これを食べなさい」 「これは私の血である・・・これを飲みなさい・・・」と言う声だけが漏れてくる。
キリシタンたちは人肉を食い、生き血を吸っている 恐ろしい人たちだと言う話が広まったそうです。
現代でも、聖餐式は、考えれば不思議です。ある教会では聖餐式は、信徒以外は入れません・・・私が初めて行った教会も洗礼を受けるまでは聖餐式の場に出られませんでしたので、扉の向こうで何をしているのかわからず・・・興味がありました。
確かに「これは私の体である」「これは私の血である」と言ってイエス様の体を食べたり、血を飲んだり・・・・
これはひどいことばだ。そんなことを誰が聞いておられよう。
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
こういう言葉が言われるかもしれません。しかもイエス様の弟子たちの内の多くの者が・・・と書いてあります。弟子たちの多くの者はイエス様の言葉を理解できなかったのです。
6:61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。
6:62 それでは、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
あなた方はと、弟子たちに言っています。このことでつまずくのか???
イエス様がわたしはいのちのパンです。わたしを食しなさいと言う言葉につまずくのか??と問うのです。
つまずくという事は、イエス様をただの人間と考えているという事です。どんなに素晴らしい人間でも・・・どんなに素晴らしい預言者でも・・・教師でも・・・
その人を食べれば永遠に生きるという約束。永遠の命の約束があるとは・・・・理解できません。
つまずくのですか?つまずくという事はイエス様が普通の人間だと思っているからつまずくのですか?と問いかけられます。
それなら、私が元いたところに昇るのを見たら・・・・イエス様の昇天を見たら・・・イエス様が神様の所に帰って行くのを見たら・・・・信じるのですか?
そうなったらどうなるのでしょうか?
実際イエス様は、十字架の上で、死に、三日目によみがえり・・・そして40日目に天に昇りました。元いたところに、父の元に帰りました。
でも、信じる人もあれば・・・受け入れることができなかった人もいたのです。
ここで大切な事が語られます。
御霊と肉という言葉です。御霊とは神様の事です。聖霊様の事です。肉とは人間の思い。人間の考えです。
すなわちイエス様が語られる言葉。約束を御霊の助けで聞かなければ・・神様の事はわからないのです。
御霊と肉と言う比較は聖書の中に数えきれないほどあります。
ガラ
6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。
Ⅰコリ
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神様の与えてくださった事は見えないものが多いのです。でも見えないからと言ってないのではありません。私たちは見えることに重点を置いて判断することが多いですが・・・見えない事は多いのです。例えば愛という事も見えません。
友情というのも、あなたを信頼していますという事も見えません。でもそれはあるのです。でも見えないのです。何かの事件がある時見えることがあるのです。
神様の備えてくださったものは皆そうでありますと書かれています。
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
ロマ
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
イエス様ははっきりと弟子たちに語っているのです。
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
しかし、イエス様の言葉を信じない人がいます。
6:64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」──イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである──
これはイエス様を裏切ったイスカリオテのユダの事を預言しています。
そしてイエス様はユダだけではない。イエス様を信じない人々が出てくることを言われます。
6:65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」
これは、なかなか難しい言葉です。そしたら最初から救われない人がいるのか?と心配になるような言葉です。
でもこれは救われない人がいると言うのではありません。
神様はすべての人が救われることを望んでいます。またその道を備えてくださっています。
しかし、救いと言うのは、神の子とされるという事は・生まれつきの人間にはできない事なのです。
そこに神様の助け、聖霊様の助けがあって初めて救いに至るのです。
自分で、私は神を知って、そしてキリストの十字架を知って、神様を信じた。そして自分の意志で洗礼も受けた・・・
そんな風に考えている方もあるかもしれませんが・・それは傲慢で・・実はその背
後に父なる神様がご計画し、また道を備えてくださっているのです。
そういう意味で
6:65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに、『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。」
という事なのです。
皆さんも救われた後・・・考えてみたら・・・ああ神様は私を導いていてくれたんだなあ・・と思い当たることがたくさんあるはずです。
それはその時は試練や苦しみと思われる事であってもです。
ヘブル
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
ここでイエス様のことば
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
こういうことを聞いて、御霊で聞いていない人たち 肉で生きる人たちは、イエス様のことばにつまずいたのです。
6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
弟子たちの内の多くの人たちが離れ去って行ったのです。
もはやイエス様と共に歩かなかった。
この時は、まだ人々はイエス様の本当の姿、それを理解していなかったのです。
イエス様と共に歩かなかった。・・・・・。
まだ時が来ていなかったのです。
イエス様のお心は、どんなに苦しかったでしょう。
しかし、さすがに12弟子たち彼らはイエス様について行ったのです。
ペテロの信仰告白が語られます。
6:67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」
6:68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。
6:69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」
ただペテロたちが自分の思いで、イエス様を神の聖者と信じてついて行ったか?と言えば疑問なところもいっぱいあります。
でも彼らに働かれる、父のみこころ 霊の力が12弟子たちを導いた。
私達も、私たちの働いてくださる神様の助けによって今日も導かれているのです。
なんか不思議です。
私達が、すごい信仰で生きているのではなく・・・・・ただただ私たちの内に働いてくださる霊の力で生かしていただいているのです。
そこで大切な事、それは私たちに働いてくださる霊の力、聖霊様の導きに心を開いて…その声を聞くか?
肉の力 肉の思い、それは自分の思いで物事を聞くか?
です。
同じ聖書の言葉が語られて
礼拝に出て、神様のみこころ。神の言葉を聞いて あるいは自宅で聖書の言葉を読んでも
聖霊の力が働いてくださるか・・・
自分の思いで受け取るか
ここにかかっているのです。
私も失敗ばかりであることが多いです。
しかし、心静まり、こころを開いてイエス様からの招きの声を聞き続けるものとさせてくださいと祈るのです。
今日は参照聖句として、いろんな、み言葉もお配りしました。
イエス様の声をしっかりと御霊に働いていただいて受け取って、いのちをいただこうではありませんか?
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
祈り