2021年8月15日

説教題「聖餐式を」

聖書箇所6:51~58

6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。

6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

おはようございます。

聖書を読んでいていろんな疑問が湧いてくることがあります。

皆さんもなぜかなあ??

という事はよくあるでしょう。しかし、それを深く突き詰めることはないので・・・なぜかなあ??? という所で止まっていて、疑問がそのままになっていることも多いと思います。

今回の疑問は・・・・・・、私は40年以上クリスチャンですし。ずっと大切に守ってきた聖餐式についてです。

プロテスタントの大切な儀式 聖礼典と言いますが。それは洗礼と聖餐式この二つだけです。

これは神様が定められた聖なる礼典です。

特別な礼典です。大切な礼典です。

教会で行う式は結婚式とかお葬式とかありますが、

牧師だから偉そうに言うわけではありませんが、役職、務めとして結婚式、お葬式は牧師でなくてもできます。しかし、聖礼典である、洗礼、聖餐式の執行は召された人、教会では牧師しかできないという事であります。

キリスト教会ができて以来大切に守られてきました。

それはイエス様がこれを行えと命じられたものだからです。

そこで私の疑問の中の一つですが

聖餐式についての勧めです。

小教理問答の NO14

聖壇(せいだん)の礼典(れいてん)①

家長が、その家の者に対して、いかにこれを単純に、教えるべきかについて

聖壇(せいだん)の礼典(れいてん)とは何ですか。

答 それは、われわれの主(しゅ)イエス・キリストの、まことの肉(にく)、まことの血(ち)であって、われわれキリスト者(しゃ)が、パンとぶどう酒(しゅ)とともに食(しょく)し、飲(の)むようにと、キリストご自身によって設定(せってい)されたものです。

それはどこにしるされていますか。

答 聖(せい)なる福音(ふくいん)記者(きしゃ)、マタイ、マルコ、ルカそして聖(せい)パウロが次のように書いています。「われわれの主イエス・キリストは、渡(わた)される夜(よ)、パンを取り、感謝(かんしゃ)してこれをさき、弟子(でし)たちに与(あた)えて言われた。取(と)って食(しょく)しなさい。これはあなたがたのために与(あた)える私の体(からだ)である。私の記念(きねん)として、これを行いなさい。食事ののち同じようにして杯(さかずき)を取り、言われた。みなこの杯(さかずき)から飲みなさい。これは罪(つみ)のゆるしを得(え)させるようにと、多くの人のために流す、私の血による新しい契約(けいやく)である。飲むたびに、私の記念(きねん)として、これを行いなさい。」(第一コリント11;23~25、マタイ26:26~28、マルコ14:22~25、ルカ22:16~20)

このような飲食が、どんな役に立ちますか。

答 それは、「これは罪(つみ)のゆるしを得(え)させるようにと、あなたがたのために与えられ、流(なが)されるのだ」(ルカ22:19~20、マタイ26:28)とのみことばに示(しめ)されています。すなわち、この聖(せい)礼典(れいてん)において、このみことばをとおして、われわれに罪(つみ)のゆるしと、生命(いのち)と、祝福

(しゅくふく)が与えられるのです。それは罪のゆるしのあるところに、生命(いのち)と祝福(しゅくふく)があるからです。

これは私達がコロナ禍になる前、毎週の礼拝の後で読んでいた小教理問答のNO14(聖壇の礼典①)すなわち聖餐式についての事です。

そこで疑問だったのは、こんな大事な聖餐式の勧めについて、マタイ、マルコ、ルカの福音書に書かれ、パウロもⅠコリントで書いているのに、ヨハネ福音書にはなぜ書かれていないんだろうという事でした。

確かに聖書の福音書は、マタイ、マルコ、ルカは共通した記事が多くあります。ですからこの三つを共観福音書と言います。そしてヨハネだけは独自観があります。例えばイエスキリストの誕生 クリスマスの物語もヨハネ福音書には書かれていないのです。

ですからそういう事でヨハネ福音書には聖餐式の事が書かれていないんだ。とぼんやりと思っていました。

深くは考えずに生きてきました。

でも聖餐式はクリスチャンにとって、大切な、大切な時なのに・・・・・ヨハネさんはなぜこのことを書いていないのかなあ???とも考えていました。

それが今日の聖書箇所を読んで、学んでいる時・・・今まで読んでいて気が付かなかったことを恥じましたが。今日の箇所は聖餐式であると気が付きました。

マタイ、マルコ、ルカは、その福音書にある通り、弟子たちが最後の晩餐をしたときにイエス様が語られた聖餐式の勧めを記録に残しましたが・・・・

ヨハネさんはもっと早くに6章の時点で書いているのです。

だから最後の晩さんの時にイエス様が勧めた聖餐式の教えを書いていないんだ。

ヨハネさんは聖餐式を大切と思っていないのではなく、もっともっと大切に考えていたんだ。と感動をしました。

わたしの長年の疑問が解けました。

クリスチャン生活って面白いですね。聖書を何回も何回も読んでいても気が付かなかったことがある時光が当たって、自分の事として教えられる・・・。

そんな事が一生続くのだと思います。

今回、なぜその事に私の心が至ったのか???

それはコロナ禍の事もあると考えます。

コロナ感染予防のために、私たちの教会は飲食を辞めました。それは感染予防という事で仕方がない事と思います。いつか皆さんとご一緒に礼拝後、共に食事をしてゆっくりと交わりの時間を持ちたいと願っています。

それは皆様も同じでしょう。

そしてその時、聖餐式も辞めました。

聖餐式を辞めると言うのは悩みました。教会の最も大切な働きだからです。

ルーテル教会の大切な信仰告白の中で、アウグスブルグ信仰告白というものがあります。そこには教会の働きについて書かれています。

簡単に言えば教会とは福音が純粋に語られ、聖礼典が正しく執行されるところである。とあります。

教会はいろんなイベントや、賛美、食事の交わり・・・それも大切でないとは言いませんが。シンプルに絞って言えば、教会は聖書から福音が純粋に語られる事。聖礼典(洗礼式・聖餐式)がされるところだと言うのです。

言い換えれば、これを外しては教会ではない!!!

聖餐式のない教会は、教会ではないという事です。

クリスチャンにとって洗礼は一回限りのものですが・・・信仰生活においてイエス様が制定された聖餐式を行っていくこと・・・聖餐を受け続けていくことこれは生涯にわたって大切な、大切な事であるのです。

この聖餐式を辞めにすることは神様が定められた教会の存在意義そのものを否定することになるのでは・・・とも考えました。

しかし、今までに人々が経験したことのないコロナ感染の中で・・・自分たちだけが良かったらいいというのではなく・・・感染拡大を防ぐという意味で・・教会からクラスターを出さないという意味で、一時的な聖餐中止をしてきたのです。

2020年4月から聖餐式は中止されてきました。

もう一年半近くになります。

その間、クリスチャンは信仰が大事だと言っても、一市民として日本国民として政府の指示に従うという意味でも飲食を教会では控えるという事を守ってきましたが・・・

先々週からイエス・キリストはいのちのパンと言う説教個所が続き、私たちはこの世のパン。なくなるパンではなく永遠に続く、なくならないいのちのパンであるキリストにあって生きるという事を教えられてきました。

特に今日の聖書箇所では

6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人

の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。

6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。

6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。

6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

とあります。イエス様の事を覚え、その体であるパンを食し、イエス様の地であるぶどう酒を飲むという事は・・・。普通の飲食とは違う、大切な時であると確信しました。

ある意味聖餐式を行うという事は不要不急ではなく

現在に至るまでのクリスチャンたちが・・・どんな迫害のある中ででも守ってきたことであるのです。信仰の中心であるのです。

イエス様は、弟子たちに聖餐式の設定を行い。これを続けていくように教えられました。

Ⅰコリ

11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、

11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」

イエス様が十字架にかかる事。それは本来滅ぶべき罪人である私たちの罪の罰を受ける事でした。そしてイエス様の体を、いのちを奉げられました。それは私のため、あなたのためです。十字架にささげられたイエス様の空度を覚えるために、パンを与えられました。ですからパンを食べる時私たちは私たちのためにいのちを奉げてくださったイエス様を覚えるのです。またみ言葉の約束を通して、イエス様の肉をいただいた私たちは永遠の命をいただくのです。

また私たちは日々罪を犯すものです。その罪のためにイエス様は血を流された、

それは今も流し続けておられるのです。その血によって私たちは新しい命に生かされていくのです。

なぜ聖餐式が行われているか?

それは信仰弱き私たちに 具体的なパンとぶどう酒を食するという事によって

体験として

視覚教材として、私達が忘れることなく 思いを新たに堅くすることができるためにイエス様が設定してくれたのです。

これはある意味神様からの恵みの手段です。

ルターは神様が私たちに与えてくださる み言葉(聖書)と洗礼、聖餐を恵みの手段と言いました。

聖餐式は私達が守るものではなく、神様がわたしたちに用意してくれたプレゼントなのです。なんの値打ちもないものに、神様の方から一方的に下さる恵みの手段なのです。

しかも、忘れやすい、私たちにいつも目に見える形で体験させてくださる恵みの時なのです。

わたしの体と私の血を受け取りなさい。との招きなのです。

私たちは一年半、聖餐式の恵みを受けていません。

これは霊的な意味での大きな渇きであり、渇いていることもわからない脱水症状になっているかもわからないのです。

一回が劇的ではないかもしれません。それは洗礼の方が一回限りですから劇的です。でも神様から恵みとして与えられる聖餐はまさに私たちにこまめに水分補給が必要なように、こまめに永遠に死ぬまで続けられる霊の水分補給のような気がします。

飲んでいなくても気が付かない時があります。

でも大切な時なのです。

そこで今日は、久しぶりの聖餐式を行います。

コロナ禍の中ですので、コロナ感染予防に注意して行います。

まず、パンとぶどうジュースは既にしっかり手指消毒した役員の方々によって分けられ、サランラップをかけています。

聖餐式の前に、全員の手指消毒をしていただきます。中尾姉に消毒に回っていただきます。

またパンとぶどう酒は輝美姉、道子姉が手袋をつけて皆さんに手渡しします。

皆さんはそれを受け取って下さい。

飲食の時以外は必ずマスクを着用していてください。

洗礼を受けていない方には牧師がお祈りに回ります。皆さん場所は移動せずに、それぞれの場所で待機していてください。

聖餐式の時の賛美はマスク着用で行います。

もう一度小教理問答の聖餐式に箇所を読んでみます・

聖壇(せいだん)の礼典(れいてん)

家長が、その家の者に対して、いかにこれを単純に、教えるべきかについて

聖壇(せいだん)の礼典(れいてん)とは何ですか。

答 それは、われわれの主(しゅ)イエス・キリストの、まことの肉(にく)、まことの血(ち)であって、われわれキリスト者(しゃ)が、パンとぶどう酒(しゅ)とともに食(しょく)し、飲(の)むようにと、キリストご自身によって設定(せってい)されたものです。

それはどこにしるされていますか。

答 聖(せい)なる福音(ふくいん)記者(きしゃ)、マタイ、マルコ、ルカそして聖(せい)パウロが次のように書いています。「われわれの主イエス・キリストは、渡(わた)される夜(よ)、パンを取り、感謝(かんしゃ)してこれをさき、弟子(でし)たちに与(あた)えて言われた。取(と)って食(しょく)しなさい。これはあなたがたのために与(あた)える私の体(からだ)である。私の記念(きねん)として、これを行いなさい。食事ののち同じようにして杯(さかずき)を取り、言われた。みなこの杯(さかずき)から飲みなさい。これは罪(つみ)のゆるしを得(え)させるようにと、多くの人のために流す、私の血による新しい契約(けいやく)である。飲むたびに、私の記念(きねん)として、これを行いなさい。」(第一コリント11;23~25、マタイ26:26~28、マルコ14:22~25、ルカ22:16~20)

このような飲食が、どんな役に立ちますか。

答 それは、「これは罪(つみ)のゆるしを得(え)させるようにと、あなたがたのために与えられ、流(なが)されるのだ」(ルカ22:19~20、マタイ26:28)とのみことばに示(しめ)されています。すなわち、この聖(せい)礼典(れいてん)において、このみことばをとおして、われわれに罪(つみ)のゆるしと、生命(いのち)と、祝福(しゅくふく)が与えられるのです。それは罪のゆるしのあるところに、生命(いのち)と祝福(しゅくふく)があるからです。

肉体的(にくたいてき)な飲食が、いかにしてそのような、大きなことをすることが出来るのですか。

答 もちろん、それをするのは飲食(いんしょく)ではなく、ここに言われているところの、「あなたがたのために与(あた)えられ」「罪(つみ)のゆるしのために流(なが)され」とのみことばです。このみことばは、肉体的(にくたいてき)な飲食とともに、聖(せい)礼典(れいてん)における主要(しゅよう)な部分(ぶぶん)です。そしてこのみことばを信じる者は、このみことばが、語(かた)り、宣言(せんげん)すること、すなわち、「罪(つみ)のゆるし」を得(え)るのです。

どのような人が、この聖(せい)礼典(れいてん)にあずかるのにふさわしいのですか。

答 飲食(いんしょく)や、肉体的(にくたいてき)準備(じゅんび)をすることは、確(たし)かに外面的(がいめんてき)にはよい訓練(くんれん)です。しかし、「これは罪(つみ)のゆるしを得(え)させるようにと、あなたがたのために与えられ、流されるのだ」とのみことばを、信(しん)じる者(もの)こそ、まさしく、ふさわしく、適(てき)している人です。しかし、このみことばを信(しん)ぜず、疑(うたが)う者(もの)は、ふさわしくなく、適(てき)していない者です。それは、「あなたがたのために」とのみことばは、純粋(じゅんすい)に信(しん)じる心を要求(ようきゅう)するからです。

それでは聖餐式を始めます。

聖餐式

讃美歌 1,2節讃美

(この間に、聖餐の覆いを取り、蓋を取る。)

式辞

愛する兄弟姉妹、私達は今、聖餐にあずかろうとしています。そこで主イエスの言われたことを思い起こしましょう。

「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。これは、罪のゆるしを得させるようにと、あなたがたのために流すわたしの血である。」

私達は、このみことば通りに、キリストご自身がこの礼典の中においでになり、私達のすべての罪をおゆるしになった確証として、ご自身のからだと血とを、私達に与えて下さる事を信じなければなりません。

従って、私達は、共にこのような尊い賜物を与えて下さった主イエス・キリストの

父なる全能の神に感謝をささげ、きよい心をもって互いに愛し合い、聖なる全キリスト教会と共に、主イエス・キリストにある慰めと喜びとをいただこうではありませんか。

主の祈り

制定の言葉

私達の主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝してこれを裂き、そして言われた。「これは、あなたがたのためのわたしのからだである。わたしを覚えるため、このように行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびにわたしを覚えるため、このように行いなさい。」

配餐

配餐のために二人の役員の方に前に出て来てもらう。

「これは、主イエス・キリストのからだである。」

「これは、主イエス・キリストの血である。」

(この間に聖餐に与らない人、子どもたちのために祝福を祈る)

宣言

願わくは、十字架につけられ、死からよみがえり、私たちのすべての罪を贖われ、その聖なるからだと血とを、今、わたしたちに与えられた主イエス・キリストご自身が、それによって私たちを強め、まことの信仰のうちに、永遠のいのちに至るまで守られるように。アーメン

祈祷

恵み深い父なる神様。限りない憐れみといつくしみをもって主の食卓にわたしたちを招き、今、聖餐にあずからせてくださいましたことを心から感謝いたします。あなたはこれによって、御子イエス・キリストのあがないの恵みを、わたしたちのうちに確かなものとし、わたしたちの罪をゆるして汚れをきよめ、永遠のいのちを

約束し、御国の相続者となる望みを堅くして下さいました。聖霊の助けにより、今、感謝をもって、私たち自身の心とからだとを神に喜ばれる生きた聖なる供え物として御前にささげます。

また、主のからだの枝である自覚がいよいよ深められ、互いに励まし合いながら主に仕える事ができますように。そのようにして、キリストの復活のいのちに共に生かされる事を喜び、キリストの苦しみにあずかる証しを立て、おりを得ても得なくてもみことばを証しし、主ご自身の宣教のみわざに加わる事ができますように。

主よ、常に恵みと祝福とを私たちに満たし、主イエスが再び来られる日まで、主の平安のうちを歩ませてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

讃美歌 3,4節

祝祷

願わくは、主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

願わくは、主が御顔を持ってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。

願わく

は、主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。 アーメン

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