2021年8月8日
説教題「信じるものに救いがある」
聖書箇所 ヨハネ6:35、41~51
ヨハ
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
ヨハ
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、イエスについてつぶやいた。
6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」
6:43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。
6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:45 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
6:46 だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
おはようございます。
若野愛子姉が天に召されました。皆様も驚きと悲しみの中にあると思います。私
たちの教会の大切なメンバーです。
若野さんは、がんで耳原総合病院のホスピスに入院されていましたが7月26日に天に凱旋されました。若野さんは卓球もしたり、運動もしたり、ご高齢になってもヘルパーさんの仕事をしていたりとお元気な方でしたので・・・また退院して私たちと一緒に礼拝できる時もあるのではないかと祈っていましたので・・・・驚きと寂しさがあります。優しかった若野さんを思います。
しかし、先週の説教でも話しましたが、たとえどんなに元気な方でもいつかは終わりがあります。
しかし、若野さんはいつまでも残るいのちのパンであるイエス様を信じていました。 この約束のみ言葉に立つもので在ります。
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
少し若野さんの事を偲びたいと思います。皆様それぞれに若野さんとの個人的なつながり、交わりもあった事と思います。
2020年3月22日に若野さんがされた証しを参考にさせていただきます。
若野さんが教会に行きはじめられたのは新潟県でいた時です。中学の時友達に誘われてスェーデン人の宣教師の方が開かれた教会に通いました。
毎週日曜日にはほとんど朝から夕方まで教会にいて4,5人の友人とトラクト配布を一軒一軒尋ねながらしたこともありました。
夏には教会から臨海学校に行き、海で友達が洗礼を受けていましたが
英語の教師をしていた叔父がおりまして、ある人に結婚を申し込んだところ、その人から教会で洗礼を受けて欲しいと言われ、結婚をあきらめたという話を、事あるごとに親から言われ、私は洗礼を受けることができませんでした。
私の家は祖父の代からJRに勤め、「成長の家」という仏教もキリスト教もありの宗教の講師でした。
東京で同じく主人の父親が講師をしており、講師の娘という事で盛岡におりました時、見合い結婚しました。
主人は東洋工業・マツダの直営の会社におりましたが、東京、名古屋、大阪と転勤となり堺の白鷺から鳳へと引っ越してきました。
鳳に引っ越して。しばらくして主人が大腸がんとなり、東京のいとこから生駒聖書学院長の栄先生が鳳に教会を開かれたそうだけど家が近いと電話があり、エリム教会(エリム教会はすぐそこの山埜さんの家のところ)に集わせていただき2001年9月に主人と共に洗礼を受けることができました。
その後、エリム教会が堺東に引っ越し・・
しばらく車で通っていましたが・・車を運転するのが危なくなり、歩いて通える堺育麦キリスト教会に、榮先生の了解も得て、寄せてもらうようになり、2019年7月21日に転入式を行っていただきました。
教会の皆様とも親しく交わりをさせていただきました。
今回、
堺育麦キリスト教会での記念写真(若野さんがはいっているもの)を印刷させていただきました。結構大変な作業でした。でも若野さんの事を偲びながらいい時間を持たせていただきました。
2017年のクリスマス礼拝(悠々楽団)の時が最初のようでした。当時は堺東のエリム教会に籍はありましたが、なかなか通う事が難しくなっておられました。それで2018年4月から育麦の礼拝に出席されるようになられました。
それからはご病気で入院されていた時以外は、本当に忠実に欠かさず礼拝に集われていました。
若野さんは、お若いころにキリストに出会い・・・・・
その後キリスト教を忘れることはなかったと思いますが・・なかなか機会に恵まれず・・・
晩年になってまたキリストに明確にお会いし、信仰を再確認し
念願の洗礼を受けることができました。ご主人と一緒にです。
その後も忠実な信仰生活を送って来られました。
若野さんの好きな聖句の一つ 聖書に線を引いている個所は詩篇55篇22節です。
詩
55:22 あなたの重荷を【主】にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。
若野さんの信仰の柱のみことばであります。
コロナの中で人々が会う事が難しくなりました。私たち教会の有志で7月4日の礼拝後に可能ならば、若野さん宅に伺い、共に讃美歌を歌い、お祈りをして入院に送り出したいと考えていましたが、7/6入院の予定が早くなり7/3に入院されました。入院後は面会もかなわず、寂しい事もあったと思いますが・・・
主がホスピスでの最後の時を与えて下さり、痛みなく過ごすことができたのではないかと思います。それでも病の中で生きづらいこの世の命から、いのちのパンであるイエス・キリストにより永遠の命を与えられて天国に凱旋された事を心から
信じます。
離れていても私たちと心はつながっていることを信じます。
若野さんを偲んで少し話させていただきました。
先週のいのちのパンと言う説教の続きになります。
大きな、大きな、私達への招きの言葉 イエス様の結論が語られました。この言葉に福音が込められています。ぜひぜひ暗唱して心に刻んでいて欲しいみ言葉です。
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
その後イエス様が続けて語られます。
ヨハ
6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行うためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行うためです。
6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
ここまででも感動のみ言葉ではないですか。
イエス様は私のところに来る者を、私は決して捨てません。と言ってくださいます。こんな方がいるでしょうか?
私たちは人に裏切られたり・・・捨てられたりする経験を多くの方がもっているのではないでしょうか?
人間の世界ですから・・・・・・
また自分が人を捨てたという体験もあるでしょう。
そんな事は、私は全くないという方がいればそれは幸いなのか・・・
鈍感なのか・・・・・
讃美歌312番 いつくしみ深きの歌詞で ♪世の友 われらを棄て去る時も・・・イエス様は決して捨てないと約束されるのです
それは神様のみこころなのです。
もうこんなにまでしてくださるとは・・・・感動です。
6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
そして今日の聖書日課に入ります。
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである」と言われたので、イエスについてつぶやいた。
6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」
ここでユダヤ人たちとは、当時の律法学者、パリサイ人と言う宗教指導者たちであると同時に一般の人々の事もさしています。すなわちイエス様を神の子と信じない人たちです。
救われる前の私たちの姿でもあるでしょう。
イエス様がわたしは天から下ってきたパンである。という言葉 私はいのちのパンですと言う言葉。それにつまずき、つぶやいたのです。
なんであのイエスは自分を神の子というのか!!
あれはナザレの村で育ったイエスではないか。
父はヨセフ、母はマリヤではないか?
6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」
当然と言えば当然の考えです。
たとえば私が今、私は天から下ってきた者だ。いのちのパンだ。と言ったら誰もつぶやくでしょう。
まあつぶやいて当たり前かもしれません。
その人々に対してイエス様が語られました。
6:43 イエスは彼らに答えて言われた。「互いにつぶやくのはやめなさい。
6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
イエス様は互いにつぶやきあうのはやめなさい。と言われます。私たちはよくよくつぶやきやすいものです。
44節を考えてみますと
わたし(イエス様)をこの世に遣わした父(父なる神様)が引き寄せられない限り
父なる神様が引き寄せる 導くことをしない限り・・・だれも私のところに
どんな人もイエス様のところに来ることはできませんと言われます。
ですから私たちが自分でイエス様のところへ行っているのではなく、その背後に神様が働き 引き寄せられたのです。
イエス様のところに来た人を私(イエス様(は終わりの日に、その人をよみがえらせます。との約束です。
6:45 預言者の書に、『そして、彼らはみな神によって教えられる』と書かれていますが、父から聞いて学んだ者はみな、わたしのところに来ます。
今でいえば父から聞いて学ぶとは 神様から与えられた聖書から学ぶという事であるでしょう。
聖書から、み言葉から、私のところ、イエス様のところに行くのです。
6:46 だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
ここで重大な事が語られます。誰も父を見たものはありません。と断定されます。誰も父なる神様を見た人はいないのです。
神様は私達には見えないのです。
ただ、ただ、神から出たものすなわちこの者だけが父を見た。
イエス様だけが父なる神様を見たのです。なぜなら父なる神様の元から来たからです。
私は父を見たのです。
これはユダヤの人たちにとっては、畏れ多い事。父なる神を見たという事自体が、ものすごい不敬虔な事です。
神を見たと言って、うそをついている。自分は神の元から来たという事自体恐ろしい罪です。
6:46 だれも父を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
この言葉は大ウソつきか、はたまた気が狂っているか?本当の事か???
聞くものにチャレンジを与えます。
皆さんはどうでしょうか?
イエスと言う人は人間の子である。そんなことはない。彼は大ウソつきだ!!
と言う人もあるでしょう。
救われる前の私はそうでした。私の考えでは天地を造られた神様も信じられないし・・・その子イエス様を全く信じられませんでした。
聖書の言葉も、つまずきだらけでした。
でも私の場合は、ある時お前の考えは井の中の蛙。お前の頭では神様がいないと考えているが
お前の世界は思考能力の範囲は狭い井戸にしか過ぎない。
お前はその小さな井戸を海と思っているようなもの
そうではない。天地を造られた神様がおられる・・・・井戸の外には信じられないような大きな海がある。
そうは考えられないだろうか???
ヨブ
38:1 【主】はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
お前はお前の小さな知識で神を否定しているだけではないか?と問われました。
そしてうまく説明できませんが神様がおられると信じました。
そうしたら世界が変わったのです。聖書の言葉の持つ意味が、私の受け取り方が変わったのです。
イエス様は神の子なんだろうと信じたのです。弱い信仰ですが・・天地を造られた神様がおられる・・・そして聖書の言葉は真理であると受け入れたのです。
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
6:48 わたしはいのちのパンです。
救いというものは、み言葉を信じるという所から始まるのです。
生まれつきの人、肉なる人間は、み言葉を受けいれられません。
イエス様が神の子であることも信じられません。
しかし、信仰によって子供でもイエス様を神の子と信じられるのです。
そこには信仰がいります。
信じてしまえば簡単な事ですが・・そこに至らない人があるのです。
聖書に神様の存在にずっと否定的だった私なんかもそうです。でもある時、そこには聖霊様、神様が働いていてくれたと後からわかりますが。
み言葉を信じたのです。その時世界が変わったのです。
井戸の中しか知らなかったカエルが大きな海を見たのです。
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
6:48 わたしはいのちのパンです。
このみ言葉が素直に信じられたのです。
6:42 彼らは言った。「あれはヨセフの子で、われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た』と言うのか。」
とは言わなくなったのです。
不思議です。それからもう40年以上疑う事はないのです。
感謝にあふれるのです。
イエス様はまたお話になります。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
イスラエルの民に与えられた 荒野で与えられたマナも大切でした。
私たちに与えられた神様の恵みも大切な事です。いろんな祝福や恵みがありました。
しかし、その恵みだけではやがて死ぬのです。
イエス様と言ういのちのパンを食べるものは死なないのです。永遠の命が与えられるのです。
そして生きている間も、イエスに在って命ある生き方をさせていただくのです。
信じるっていうのは理屈ではないです。ある意味ジャンプがあります。
たとえば鳳の駅で、天王寺行の電車が来ます。理屈でどんなにこの電車は天王寺に行くとわかったとしても・・・信じて電車に乗らなければ天王寺に行けないのです。これも信仰です。
またあなたにこのリンゴはどんなに甘くておいしいかと説明してくれます・・・リンゴを触らせてくれます。
でも結局のところそのリンゴを食べなければその味はわからないのです。美味しさはわからないのです。
これも信仰です。
私はいのちのパンですと聖書に書いてあり、それを読んで理解します。
でもイエス様をいのちのパンとして信じる事。このパンを食べる事食べる事とはこのイエス様を私の救い主と信じる事です。ここに信仰がいります。
これは簡単な事ですが・・・・
また難しい事でもあるのです。
私は信じました。
またここにいる皆さんも信じました。
若野さんも信じました。
私たちの信仰は強いものではなく、揺れ動きやすいものです。
生涯信じ続けれるのかと思えば・・・心配になるかもしれません。
信仰とは自分の感情によるものではありません。
感情は上がったり下がったり・・・・救われていると思ったり、自分は神様に見捨てられていると思ったり・・・感謝でいっぱいになったり、落ち込んだりします。それは感情です。感情を基礎にして信仰はありえません。信仰は変わる事のない神の言葉聖書の上に立つのです。
しかし、それは私の力ではなくイエス様が守ってくださるのです。
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
私たちのためにイエス様がその救いの道を用意してくださったのです。
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありま
せん。
感謝します
祈り