2021年7月25日

説教題「仕えるために来られた方」

聖書箇所 マルコ10:35~45

マル

10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」

10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」

10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」

10:39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。

10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

おはようございます。

東京オリンピックがついに開幕しましたね。

1964年(昭和39年)私が12歳の時のオリンピックは今も鮮やかに覚えていますし、日本にとって戦後復興の象徴の時でした。

大きな祝福がありましたが・・・今回のオリンピックは、問題が多いなあ…と思います。昔の夢をもう一度!!!という感覚ではいけないと、考えさせられています。

ただ始まった限りは、パラリンピックまで無事に終わることをお祈りしています。

ネットニュースで、天皇陛下がオリンピックの開会宣言をしたとき、隣に座っていた菅総理は、起立している天皇陛下の横で座っていて・・・途中で誰かに促されて立ち上がっている姿が映っていました。

これはまた叩かれるなあと思いますが・・・長い開会式で菅さんも疲れていたんではないかと思います。でもたった13秒の天皇陛下の開会宣言の時ぐらいは、緊張しておいてほしいなあとも思います。

天皇陛下はこのオリンピックの開催にあたり、ただ単純にお祝いムードではなく、感染を憂い・・・それでも自分の使命を果たすために開会の宣言をなさいました。

たった13秒の宣言に心を込めてしていたのに・・・・

バッハさんなんか13分も演説したそうな。こんな時の長話は本当に罪だと思います。

その時の空気を読めていない、発言、ふるまいって、私達もしてしまいます。自分を反省しつつ見ていました。

今日の聖書日課は、もっと空気を読めていない人の発言であります。

本日の聖書日課に入ります。

先週はマルコ6:56節まで来まして、

今週の箇所は先週の週報には35~45という事で何章かを書き忘れていました。6章が終わって順番に来ていますが、今週は少し飛ぶ・・・7章ではなく・・・・7~9章を飛ばして10章まで来ました。

すなわち3章以上飛んでいます。

マルコ福音書は16章と短いので3章飛びますと状況はずいぶん変わっています。

先週は6章で、イエス様一行は

まだガリラヤ地方を中心に活動していました。

今日の箇所では、ユダヤの中心地エルサレムに向かっていくところです。

だんだんとイエス様の最後の時が近づいているのです。

8章では。ペテロがイエス様の事を、あなたは神の子キリストです。と素晴らしい信仰告白をします。その後イエス様は弟子たちに初めてご自分の受難を預言されるのです。

マル

8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

この預言を弟子たちが理解できず、受け入れられない様子があります。

マル

8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。

8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

このあと弟子たち(ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人)にイエス様は変容のお姿を見せ、ご自分が神の子であることを教えます。

この選ばれた人3人 そこにヨハネとヤコブも入っていることを覚えていてください。

その後もイエス様は弟子たちと共に神の国をのべ伝えます。

そして二回目の受難の予告をされます。

マル

9:30 さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。

9:31 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。

9:32 しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。

イエス様のこの地上に来られた意味、その最終目標が受難と復活であることを証しします。それを聞いて弟子たちは恐れます。

この先生について行って大丈夫なのかと???

エルサレムに行ったら殺されるというのです。

しかもイエス様を憎んでいるパリサイ人、律法学者(当時のユダヤの宗教指導者たち)のイエス様への態度もわかります。

それでもイエス様はエルサレムに向かっていくのです。

今日の聖書日課の前の状態です。

マル

10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしてい

ることを、話し始められた。

10:33 「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。

10:34 すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」

この状況!!!ものすごい怖い状況!!です。

イエス様はエルサレムに行くことは殺される事。

しかし、尻込みする弟子たちをわかっていながら

イエス様が先頭を行くのです。先頭を歩かれる姿・・・そのあと驚き、恐れながらついて行く人たちがいたのです。

10:32 さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。

その恐れを覚える弟子たちに、12弟子をそばに呼んでこれから起こることを予告するのです。

これは三度目の受難の予告。預言です。

それがわかっていながら・・・イエス様は先頭を歩くのです。

こんな時に

今日の聖書日課に入るのです。

10:35 さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」

イエス様はまさに大きな覚悟で・・・・弟子たちにもわかってもらえない中でエルサレムに向かっていく。孤独な・・・・行進です。

そのイエス様の孤独に追い打ちをかけるようにヤコブとヨハネがやって来てイエス様に頼みごとをするのです。

10:36 イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」

10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

イエス様の命がかかっているのに・・・自分の事だけかい!!という気持ちに私たちならなるのではないでしょうか?

マタイの福音書ではこの箇所にはヤコブとヨハネだけでなく、お母さんが一緒だったと記されています。

マタ

20:20 そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。

20:21 イエスが彼女に、「どんな願いですか」と言われると、彼女は言った。「私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。」

なにこれ!!って思います。

お母さんと一緒って・・・ヤコブとヨハネはマザコン?

って思います。

何よりもお母さんも含めてイエス様の事を心配するよりも自分たちの事。優先ではないですか!

でも私たち人間の弱さでもあります。結局は自分中心なんです。

政治の事を言うのは語弊がありますが、今オリンピック,コロナ禍、菅首相を始め政治家の皆さんは、国の事、未来の事、苦しんでいる人々の事 そんな事より次の選挙の事ばかり考えている様子が見え見えです。

でもそれも笑えない批判できない・・私たちもみな自分の事ばかり考えているのではないでしょうか?

10:37 彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」

イエス様は十字架での受難の預言を三回しました。一回目の預言の時、弟子たちはイエス様が死ぬという事に驚き恐れました。

しかし、イエス様はご自分が神の子であることを、その八日後、変容の主の姿を通して教えました。

その時見たのはペテロとヤコブとヨハネの三人だけです。この見たことを誰にもしゃべってはいけないとイエス様に言われました。だからほかの弟子たちは知らないでしょう。

ヤコブとヨハネはイエス様が神の子で栄光の座につくことをわかっていた。だからこんな願いをしたとしたら・・・それはインサイダー取引みたいなものです。卑怯です。

インサイダー取引とは、会社の内部情報に接する立場にある役職員等が、その立場を利用して会社の重要な内部情報(重要事実)を知り、情報が公表される前にこの会社の特定有価証券等(株式、新株予約権証券、社債券、投資証券、他社株転換社債等)を売買することを言います。

ヨハネとヤコブはイエス様の事を他の弟子たちよりも深く知っている。それを利

用して自分の立場を有利にしてもらおうとお願いしている。

これは絶対したらいけない事です。

しかもお母さんにも話している・・・。

私たちもそうしてしまうかもわからない弱さです。

10:38 しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」

イエス様の使命は、罪人たちの、私たちの罪の罰を身代わりに受けることです。私たちの赦しのためにご自分の命を捨てる事です。ここでは盃を飲むと言っています。

それはイエス様でも難しい事なのです。

ヤコブとヨハネよ、自分の事しか考えていないあなた方には無理な事ですと言います。

イエス様が十字架にかかる前にゲッセマネという所で必死の祈りをしています。

そしてイエス様は杯を飲んだのです。

マル

14:32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」

14:33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。

14:34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」

14:35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

14:36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

こんな祈りを成されたのです。

あなた方(ヤコブとヨハネ)は私と同じ苦しみを受けれますか?と問うた時

ヤコブとヨハネは簡単に飲めます!!と答えるのです。軽い口約束みたいな感じです。

10:39 彼らは「できます」と言った。

それに対してイエス様のことばがあります。

イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。

今は空気も読ます、自分勝手な願いをし、イエス様の飲む杯を軽い言葉で、飲めます!!と言っているあなた方もやがて。キリストの十字架、復活、聖霊降臨の後、確かにキリスト立派な弟子として・・・イエス様の杯を飲みバプテスマを受ける人生へと導かれますとイエス様は預言されています。

イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。

確かにこの時のヤコブは、後に12使徒の中でも、キリストに仕えるゆえに・・イエス様の飲む杯を飲んだゆえに・・・・一番最初に殉教をしたのです。

使

12:1 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、

12:2 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。

もう一人のヨハネは、殉教はしませんでしたが、使徒の中で誰よりも長く生き、ヨハネの福音書を書き、ヨハネの手紙1,2,3を書き、途中島流しにもなり、その中でこれから起こる神様のご計画を記す黙示録の著者にもなりました。

また何よりも十字架で死んだイエス様のお母さんマリヤを引き取って一緒に暮らしました。漫画に書いてありましたが使徒たちは殉教、殉教と自慢しているけどマリヤさんを介護した方がもっとえらい事をしているんだ。という個所がありました。ヨハネは介護も含めて確かにイエス様の飲む杯を飲みました。

ヤコブとヨハネはイエス様から雷の子という名前をつけられた。相当激しい気性の兄弟だったんでしょう。そのヨハネは後に愛の人と呼ばれる人になったのです。

確かにイエス様の杯を飲んだのです。

10:39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。

10:40 しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

あなたたちはやがて確かに変えられる。しかし天の御国でイエス様の右と左に座る。すなわち右大臣、左大臣・・・もう天国の立場がえらくなる。そんな事は関係のない事です。

それを望んで何かをするのではないのです。

と彼らをたしなめられました。

さてそれを聞いた他の弟子たちは怒ったとあります。

10:41 十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。

ヤコブとヨハネが自分たちの出世をお願いしたという事で、抜け駆けをしたという事で腹を立てた。

この気持ちはわかります。ヤコブとヨハネは自分さえよければというような自己中心です。しかし、他の10人の弟子たちも、イエス様の事なんか心配もしていないという事で言えば、50歩100歩です。下賤な言葉で言えば目くそ、鼻くそを笑うというようなものです。他の10人の弟子たちが正しいのではないのです。

そこでイエス様は弟子たちに語ります。これは人間関係の神の原則です。それはこの世の原則とは違います。しかし、これが本当に大切な事なのです。と語られます。

10:42 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

10:43 しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。

10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

人々を支配するのではなく・・仕える者になりなさい。

立場や権力が大事なのではありません。皆のしもべとなりなさい。と説かれるのです。

私の前に行っていた教会では牧師先生は絶対でした。牧師の前にみんなは整列してお出迎えをしていました。アメリカの教会なんかでも牧師は神様に近い人としてあがめられているし、みんなが下にも置かない扱いをされていました。

私は牧師というのはそんな風に扱われるものだと思っている育ちをしていました。

最初の神学校に行った時。初めて訪問した時・・・・誰かおじさんが玄関でスリッパを出してくれました。その方は駐車場を案内してくれる時、私の車の前を必死で走って駐車場に案内してくれました。結構お年なのに息を切らしてです。

そして神学校の一番偉い校長先生にお会いしたいと言いましたら、その方が校長先生でした。有田優先生と言って本当に謙遜な方でした。まさに仕える者、しもべになっている人の見本かと思いました。

それが形だけでなく、まさに自然にされている方でした。

有田先生を思い出しました。

ヤコブやヨハネは私たちの姿でもあります。

でも彼らもまた、イエス様を見つめて歩んでいる中でやがて変えられるという希望も見ます。

それはどうしてか?

それは、罪の中に生きている私たちのために、徹底的に仕えてくださったイエス様が飲みがたい杯を飲み私たちを救い出してくださったゆえなのです。

皆に仕える者の本当の模範はイエス様にあるのです。

10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

イエス様が来られたのは人々の上に立って、権威と権力を示し、みなから仕えられるためではないと言われます。本来神の子なら崇められて当然なのにそうではないと言われるのです。

イエス様が来られたのはかえって仕えるためであります。と言われます。

ピリ

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

私たちのために救いのために来られたのです。

それは

10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

贖いという言葉が出てきますが、贖いとは、人手に渡った土地などを買い戻す事、身代金を払って奴隷を自由にする事などの意味があります。私たちはそれぞれの罪のゆえにその罰を受けるもの。サタンの支配の中に奴隷のような状態になっているものです。それを買い戻すためにイエス様は来られた。

しかし、私たちの罪は大きく、それを買い戻すためには莫大な犠牲がいる。

牛や羊のいけにえでは足りない。

まったく罪を犯したことのない聖い神の子イエス様がご自分の命を差し出すことによって私たちはゆるされるのです。

まさに多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなので

す。」

イエス様はあなたのために来られた・・・

空気を読めず、このようなイエス様の前に自分の出世、自分の事だけを求めているようなヤコブやヨハネさんのためにも

それを責めるのではなく・・・

イエス様の事を理解してくれて心配してくれていない弟子たちの中にあって。

空気を読めない私たちのために、イエス様は来てくださったのです。

そのために救いのための杯を飲むために・・

今、エルサレムに向かって歩んでいるのです。それは私やあなたのためになのです。

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