2021年6月13日 堺育麦キリスト教会の礼拝です。 動画はこちらからです。 https://youtu.be/DYWfjaCBim0

*礼拝の途中で父の状態が悪くなり、救急車で搬送されました。

礼拝の録画中でしたので、父の対応を娘たちがしてくれ、礼拝を優先しました。

説教の内容が、父の事とも重なります・・・

父の急変も知らずに説教をしていました。

無事に礼拝録画ができたことを感謝します。

父には軽い脳梗塞の症状があり、左手足にマヒが残っています。先日(6/9)の転倒事故とは直接の関連はなさそうです。高齢という事もあり、いろんな要素で発症するのだと思います。

高齢ゆえに入院して治療をすることのリスクの方が大きいかもしれませんと病院の先生からも言われ、

私も入院することは父にとっても厳しいと考え、自宅に帰ってもらう事にしました。

麻痺も残っているので難しい事もあると思いますが、皆様のお祈りよろしくお願いいたします。

詳細はまたご報告します。

礼拝の説教原稿は以下です。

説教題「人知れず働かれる神様の働き」

聖書箇所マルコ4:26~34

4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。

4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。

4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、

4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

4:33 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話

された。

4:34 たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。

おはようございます。

先週の水曜日は父の転倒事故で皆さんにご心配をおかけしました。

ポータブルトイレから立ち上がる時にそのまま前に倒れて頭を打って倒れていました。呻いているのに気が付いて行ってみると、額が切れて出血していて、腕とかを打ったみたいで動かすことができないほど痛がっていました。訪問看護師さんにも連絡してきてもらいました。額の出血は大したことがなかったですが、頭を打っているのと、骨が折れているかもしれないと言う感じでしたので。救急車をお願いして、結局耳原総合病院に搬送されました。

心配しましたが、脳の方は特に異常はなく、骨折もないという事で自宅に帰ってきました。事故の中でも守られていたなあ・・・と感謝しました。

父は、大したことがないのに救急車まで出してもらって「悪いなあ・恥ずかしいなあ・・・」と言っていました。一晩経過観察で私が付き添いましたが。もうだいぶ落ち着いてきました。

父はそんな中でもできるだけ自分でトイレに行きたいと願い、痛い腕を使いながらも頑張っています。食欲も回復してきました。どうぞ続けてお祈りください。

また介護する方々のご苦労も体験させていただいています。

今のこの時期、とりわけコロナ禍で孤立しがちな介護者・またご家族のためにもお祈りさせていただいています。私たちのためにもお祈りよろしくお願いいたします。

さて、今日の聖書日課はたとえばなしが2つです。

イエス様はたとえ話をたくさん話しています。

4:33 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。

4:34 たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。

イエス様は難しい話をしていなかった。

説教もそうですが、話というのは難しい話にすることはいくらでもできます。

難しい言葉を使って話をする。神学用語を使う。ギリシャ語やヘブル語、英語を

混ぜる。

そうするとなんか賢そうに聞こえる。

三位一体とか義認とか贖罪、贖い・・・・・

しかし、聴く人の理解能力を超えていればその話は心に入りません。

難しい言葉、言い回しを使っても、その話の本質。つまり結局のところ何が言いたいのか?そこがわからなければいけません。

私も最近、教理の説明のような時が続きました。

三位一体とか難しい言葉も使いました。それでは聴いている人に全くわからない時があります。 まあそれでもそんな話が必要と思ってしているのですが・・・・。私は皆さんが少しは心にとどめていただけると信じて語っています。こういうややこしい言葉も時には必要と祈りつつ語っています。

最近、国会で菅首相が、どんな質問をされても、その質問の言葉に関わらず、ただただ「国民の命と安全を守ることを第一にしております」と同じ言葉を繰り返しています。これはどんなに正しい言葉でも、全く心に響いて来ませんね。

悩みながらでも、冷や汗かきながらでも、だれにでもわかる、生きた、いのちのある言葉を語って欲しいと思います。菅首相がしゃべりだしたら・・・またおんなじ言葉・・・という事で聞く気も失いそうになります。

福音の説教も同じことを語っています。それは変わる事はありません。福音が変わる方がおかしい事ですから、言っている事は毎回同じです。

でもその言葉を語る時に毎回感動して、いのちのことばを語っているかを問われています。

特にこの聖書の時代、イエス様が話をしている人たちは、学問を積んだパリサイ人、律法学者たちにではなく、罪人とさげすまれている人々、無学な人々、に語ることが多いのです。

その人たちの心に届くようにと・・イエス様は日常の誰もが知っている事、わかることを題材にしてたとえ話をしています。

子どもにもわかるようにという事です。

ある意味説教は、子供にでもわかるように語るべきだと言われます。

本当は子供に語るのが一番難しいのです。

神様の福音を、真理を、子供にも理解できるように語る。

イエス様はそのためにたとえ話を多く使って語っているのです。

どんな人にもわかるように…という愛の配慮です。

そしてイエス様のたとえ話は。解説(解き明かし)がついているたとえ話がありま

す。聖書の中で、たとえ話の意味がイエス様から解説(解き明かし)されているものです。たとえば4つの種の話なんかはそうです。

マル

4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。

4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。

4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。

4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。

4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。

4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」

4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」

4:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。

4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。

4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」

4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。

4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。

4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。

4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、

4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです──みことばを聞いてはいるが、

4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。

4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百

倍の実を結ぶ人たちです。」

この話は最初のたとえ話では理解できないところもありますが、イエス様からの説明を聞けば大納得です。

4:33 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。

4:34 たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。

全てのたとえ話に、説明が聖書に書かれていれば私たちにもわかるのですが・・・・・

当時は弟子たちには教えてくれた。解き明かしてくれていたのですが・・・・私たちには残っていないので、全部がわかるわけではないので残念です。

しかし、多くのたとえ話は、前後関係などから意味がわかります。

たとえば良きサマリヤ人の話とか・・放蕩息子の話とか・・・・・

説明がなくても前後関係からわかります。

ほぼ誰もが正しく理解できます。

しかし、今日のたとえ話は・・・・たとえ自体はわかります。ほぼ自然現象です。

4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。

4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

畑なんかをしている人・・・最近は趣味でしている人も多いです。ガーデニングをしている方にもわかると思います。

小学校の時には朝顔の観察日記をつけた人もあるでしょう。ですからこの自然の現象は誰でもわかります。

種を蒔いたら・・・芽が出てきて・・・苗になり(お米や、麦を連想しますが)次に穂

穂の中に実が入ります。

実が熟すると収穫するのです。

これは良く見る風景です。

イエス様はこのことをたとえ話で話されました。

少し詳しく見ていきましょう。

4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

ここでのテーマは神の国です。神の国とはどういう真理がありますか。神の国に入るのはどうすれば入れるのですか?どうすれば人は救われて神の国に入ることができるのか?という事です。

その事が、誰もが知っている自然の中から語られます。

神の国は人が地に種を蒔くようなものです。

これはみことばが誰かの心に蒔かれた。私たちの心に蒔かれた・・・・・。そんな事を想像します。

神の言葉はどのように実を結んでいくのか?

私たちの救いを考えてみましょう。

いつかどの段階かで福音を聞きました。それはクリスチャンに会った。友達がクリスチャンだった。聖書の言葉を見た。読んだ本の中で心を惹かれた・・・・いろんなケースがあります。

私が教会に自分の意志で行ったという方もいますが・・・・・それは珍しいかもしれません。

なんかの機会に私たちはみ言葉を聞いた。福音を聞いた。

それでもすぐに信じるわけではありません。

私を考えても、田舎の家の近くに教会ができて・・・父が救われて・・その関係でシスターや宣教師、牧師先生ともつながりができて・・・・み言葉を聞いたかもしれませんがあまり心には残っていませんでした。

教会に親孝行と思っていっても、奇跡が信じられず。

使徒信条につまづき・・・・教会には続けていこうとは思わなかった・・・・

しかし、ですよ・・・・そんな私にも 後から考えると・・福音の種が蒔かれていたんです。

皆さんもそうです。

でもそこからすぐには変化もなしです。

でも4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

いろんなことがあって・・・私は救われたわけです。皆さんもそうでしょう。

私は大阪に転勤になって行きはじめた教会の方々や牧師先生の導きで救われたと思いますが・・・・ただそれだけではない。

その背後に神様が働かれていたという事です。

私たちは人間の働きを考えます。あれをしたから・・・こんな勉強をしたから・・・こんな愛のわざがあったから・・と思います。

それは大切です。

でもそれだけではないのです。神様のわざがあるのです。

今、コロナ禍の中で、私たちはなかなか会う事もできません。顔と顔を合わせてみ言葉を学ぶこともできません。交わることもできません。また新しい方に伝道する機会も作れません。

人が救われ、成長していくことに関しては・・できない事ばかりです。

私は牧師として、何もできない・・私が出来る事はないか・・と焦ります。

私が何とかしなくては・・と思います。

そんな時に今日の聖書日課のみ言葉です。

種が蒔かれた時・・それはやがて芽を出し・・・育つのです。

人はみことばによって育っていくのです。

人間の働きは大事ですが・・・本当に育てているのは神様なのです。

私たちの知らないところで人は育っていくのです。

Ⅰコリ

3:6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

3:7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

ここに私は立つんだと教えられました。

4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。

4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

私たちの行いで人が救われ、成長していくように思うならばそれは傲慢な思いです。

その背後にある神様のわざに、私たちはもっと信頼し、希望を持っていくんだよと教えられました。

ここで大切な事は、私たちはなすべきことを淡々としていく。

4:27 夜は寝て、朝は起き、

これは平凡な日常です。

淡々とした日々です。なにか特別な事があるわけではありません。

植物の成長で言えば、種を蒔き・・・水をやり・・雑草を取り・・・肥料をやり・・・・

それ以外に私たちにできることはないのです。

私達が麦の芽を引っ張って育てる事、成長させることはできないのです。

しかし、本当に不思議ですが・神様が育ててくれるのです。

ここに信頼してゆだねること。希望を持つこと。これが大切です。

人の成長は神様がなされるのです・・・私たちはその中で小さな手助けぐらいができるだけです。

それでも夜は寝て、朝は起き・・・

この淡々とした日常を送っていくのです。

ここで言えることは

私たちの働きを、日常を生きる。淡々と、しかし、その背後に働かれる神様のわざを信じて歩むのです。

今私たちは、代り映えのしない日常を送ることがいかに大切な事か・・・

いろいろとしたい事。焦る気持ちもあります。

でも私たちに大切な事は忍耐をもって希望をもって日々を過ごすことです。

私は、結構忙しい人間ですので、いろいろやっていないとつらい人間です。いろいろと考えて新しいアイデアを考えて・・・まあマルタ的なところがあります。

そういう人の弱さは、神に信頼して忍耐して、希望を持って過ごす。日々をたんたんと生きるという事です。

夜は眠り、朝は起き

今、父の介護もあるので一日のリズムは守られています。ただ、最近は夜もいろいろ気になって熟睡できないこともあります。ですから夜は寝て、朝は起き・・・

この短いみ言葉にも深い意味を覚えます。

4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。

神様は人を自然の中で育ててくださるのです。

逆に言えば突然実はならないのです。苗から穂 穂の中に実が入るのです。

特に現代において私たちはすぐに実を求めます。ITの進んだ時代なんか特にそのスピードは上がっています。

神様が育ててくれているのに・・・早く、早く 実を成らせようとしている愚かさも感じます。

ある人が、いろんな人の人生の最期について書き。死に顔を見て、宗教とは関係なく、一様に穏やかな死に顔の人は農業をしている人だと書いていました。生き馬の目を抜くようなビジネスの最前線で生きている人はどんなに成功した人でも平安な顔の人は少ない。なぜだろう

それは人の力、努力が一番大切と信じて生きている人の中にある。焦り、不安、自分が何とかしなければ・・・という心から来るものだと思います。

逆に農業の人は、どんなに努力しても最終的には自然に作物は育つ、すなわち神様の領域の中に生きている

自分たちも出来る事はするけれど・・・最終的には人にはわからない・・・人手によらないものを知っているからです。

それが神への信仰からくる平安かもしれません。と言ってました。

焦らなくてもいい・・頑張りすぎなくてもいい・・・・いや自分の力だけを過信しないでください。育ててくださる神様に信頼してください。

というメッセージがあるのです。

そして実がなる時、収穫がされるのです。

この意味はいろんな解釈があります。このたとえの中で何を考えるかはある程度自由があると言えます。収穫とは人に神の国の種

福音の種が蒔かれて・・いろんなことがあって、人は導かれて救われて・・・洗礼を受ける。そんな事も収穫ではあるでしょう。

ただ人は洗礼を受ければそれで終わりではないでしょう。

洗礼を受けてからも人はいろいろな試練があります。神様の恵みがあります。そんな中で淡々と、焦ることなく・・・日常を大切に生きていく。

順番を飛ばしていくことはできません。人間の力だけで人は変えられ成長していくのではないのです。

人知れず、神様が導いてくださるのです。

このことを私は深く覚えるのです。

何の変哲もない日常かもしれませんが・・・神様を信じ、恵みに喜び

いつも喜んでいなさい。

Ⅰテサ

5:16 いつも喜んでいなさい。

5:17 絶えず祈りなさい。

5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

このみ言葉のごとくに朝起きて、夜眠り・・神と共に生きていく。

私たちの信仰は小さなものかもしれません。まさに小さな、小さなからし種かも知れません。人に誇れるようなものは何一つないかもしれません。

しかし、それを育ててくださるのは私の力ではありません。人の力でもありません。確かに私の力、人の力がいらないとは言いません。でも背後で育ててくださる神様がいるのです。

そしてその約束は、大きな恵みを与えてくださるのです。小さな信仰でもいいのです。

4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。

4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、

4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」

神のなさることに大いなる希望を持っていきましょう。

その事をこのコロナの中で私はなにも出来ていないような時でも・・・・

現実には牧師として立派な働きができているものではない。父の介護で、朝早く起き、食事をつくり、共に食べ、片付けをして、また食事をし、片付け、また食事を作り・家事をして・・・・世の主婦はまさに毎日淡々と生きてきていたんだと深く覚えることが多いです。

何の代わりもないようでも・・・・神の国は成長しているのです。蒔かれた種は実を結んでいくのです。

収穫の時、鎌を入れる。これは世の終わりの象徴もありますが。人の最後という事もあります。

一番良い時に神様が鎌を入れてその人の人生を収穫されるのです。

4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、

4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。

4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。

4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

私たちにその人生の最期の時は、全くわかりません。しかし、蒔かれた種は、神様によって育てられていき・・・実が実り、収穫されるのです。それは悲しみの時ではありません。まさに神の国に栄光の体で入る。素晴らしい恵みの時なのです。

私の家内の事を今回も思いました。家内は神様の時に召されました。教会の愛する兄弟姉妹の事を思います。召された皆様もまた神様の時に収穫されていったのです。

私たちは神様に信頼して歩めばよい。

私たち

私たちはゆだねるところはお任せし、ただ淡々と夜は眠り朝は起き、知らないうちに働かれる神様にまかせて。神様に信頼して歩ませてくださいと祈るのです。

順番がある。順番を飛ばすことはない。忍耐と信頼と希望の中に神様を見上げて歩むのです。

そこに大きなキリストの愛を見せてくださると確信するのです。

エペ

3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

祈り

inserted by FC2 system