2021年12月26日 豊島昭二兄告別式礼拝
説教題「豊島昭二さんを偲んで」
聖書箇所
Ⅱコリント5:17
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
おはようございます。
本日は、まことに異例の事ですが、豊島昭二兄が召されてから52日も経ってから告別式を行う事になりました。私は牧師として教会員の方々の葬儀、告別式は神様から与えられた使命だと思っています。ところがご存知のように、昭二兄が召される時、私は入院しており、動くことができませんでした。
ここで変な話ですが、昭二兄が私の父だからこうしたのでなく、どなたの場合も告別の説教はしてきました。そして今回やりにくいのは昭二兄が私の父だという事です。父と息子として話したらよいのか、牧師と教会員として話したらよいのか難しいところです。
昭二兄と呼ぶのも、父と呼ぶのもあるとは思いますが、今日は礼拝ですし、父に対してちょっとだけ客観的になるように昭二さんという呼び名でお話させていただきます。
昭二さんが召された時、私の娘たちを始め、まわりの皆様にお任せして、昭二さんの火葬まで行い見送りをすることができました。
ただ昭二さんを偲んで皆様と共に告別の式を行う事ができずでしたが、私の体調が戻ってからすればよいとのアドバイスもあり、今日ここに関係者の皆様に集まっていただき告別式の礼拝を行います。
豊島昭二さんは昭和2年5月15日に香川県高松市岡本町で生まれました。
父は虎吉、母はキヌ 9人兄弟の末っ子です。
母は産後のひだちが悪く、5歳の時に亡くなり、お父さんは16歳の時に亡くなりました。5歳の頃、近所の子供たちが蛍狩りに誘いに来てくれた時、玄関で靴を手探りで探している様子を見て、調べてもらうとこの子は大人になったら失明すると宣告されました。
将来の失明に備えて、盲学校に入り、あんまさんになる勉強をしましたが。目が見えていたので点字などは身が入らずあまりできなかったそうです。
盲学校に行っていると徴兵が免除になるのですが・・非国民と言う言葉に耐えら
れず、どうせ見えなくなるんだから、見えるうちに戦争に行って格好よく死んでやろうと。志願して海軍にはいりました。
しかし、戦争ではそうかっこよくも行かず、つらい事が多かったようです。
18歳で終戦になって田舎に帰ってきました。両親はなく頼る人もいないため大変だったと思います。
昭和21年に、近所に住んでいた私の母ミネ子と結婚しました。母ミネ子も幼いころに両親を亡くし、小児まひで体が不自由でした。昭二さんも将来見えなくなるし、お互い障害者同士の結婚でした。
戦後を生き抜くのはどんな人も大変だったと思いますが・・・・二人の苦労を想像すると言葉もありません。
姉が生まれ、私が昭和27年に生まれたころ、詳しい事は省きますが、いろいろ大変な事があって、香川県の豊浜町という田舎町に夜逃げのような形で住む事になりました。
全く親類縁者もなく、親もいない中で両親は、私達3人の子供を育ててくれました。結構貧しかった少年時代を覚えていますが・まあ時代がみんなそうでした。
それでも家は明るく楽しい家庭でありました。
昭二さんはかなりの間、目が見えていました。将来見えなくなると言う不安を抱えながら・・・・目が見えなくなるからと結婚した障害者の妻を疎ましく思ったりして、横暴な亭主、新しいもの好きの借金ばかりする亭主、でもあったようです。クリスチャンになる前の昭二さんは放蕩息子のようだったと証ししていました。(豊島は読み方替えると放蕩です。)
昭二さんは38歳で完全失明しました。それはたくさんの不安があったと思います。
今日、皆さんにお渡ししたものの中にUSBメモリーが入っています。
その中には、昭二さんのクリスチャンになるまでの自伝的な話があります。
(蛍狩り)と言う題です。昭二さんがテープに録音したものを私がテープ起こししました。
そして昭二さんの登場するユーチューブの一覧表・・・腹話術や、介護中のものもあります。一応ユーチューブにアップされているもの全部が見えるようにしています。
また、昭二さんの最後の一年間 介護と言うか息子と共に生きた記録。私の書いた日誌
そして昭二さんのいろんな写真などが入っています。
ものすごい大量ですが・・・何かの時に、昭二さんを偲んでもらえたらとお渡しさせていただきました。
その自伝の中にいろんな葛藤も含まれています。(これもなかなかの大作で
す)
その中から、昭二さんに宗教心が目覚めた富士登山の話と、洗礼の時の証しをそのまま読ませていただきます。(生の声が一番いいように思いました)
富士登山で学んだ事 (完全失明して3,4年後です)
盲人をツアーとして富士登山に連れていった事はないけれど、子供さんがついていくんならよろしいでしょう。と言われ富士登山に行きました。
登りは途中、色々な所を見物しながら五合目まで来て、それから6,7合目と次第に山が険しくなりますが、8合目に山小屋があって、そこで夜中の12時頃まで休み、12時から日の出を拝むために出発するのですがそれからが大変でした。
本当に10cmでも15cmでも少しでも高いところに登っていけば頂上にたどりつくことは決まっているが、暗いときですから、みんなは綱を持って先頭から綱を離さずに登って行く。
群からはぐれないためにそうしなければいけないのですが、片手で綱を握り、もう一方で、手探りで足場を捜し、本当に大変な登山でした。なんとか頂上を極めることができてホッとした矢先の事です。
山を登ると言うことは大変だろうと始めから覚悟していましたが、さあ下るとなったときに私は、はたと困りました。
それというのは、自分が、ひと足踏み出すのに、自分の足を受け止めてくれる大地がどこにあるかわからないのです。
50cm下か、1m下か、10m、100m下か転落死するかも知れないのです。
その時息子に、胴の所に綱を巻いてもらって、息子が綱を持って後ろから「右によって、左によって、姿勢を低くして、左足から先に出して、今度は右足を踏み出して、・・…」と息子に言われるままに山を下りましたが、その時に私は常日頃、人から意見をされてもそれを素直に聞かないような性質が強かったのですが、その時だけは、自分の命に関係することだから自分の息子の言われるままになり、山を下って行きました。
たかが息子と言えば息子に叱られるかもしれないが息子の指示に従って山を下ることが出来たけれど、私のこれからの人生を何に従って歩んで行ったらいいのかなあ、と思うようになりました。その時に私の宗教心が芽生えたのでしょう。
昭和45年11月2日、知人に誘われて豊浜のルーテル教会に本田弘慈先生の特別伝道集会があって、出席をしました。その日の聖句は第二コリント五章十七節:「だれでもキリストのうちにあるなら、その人はあたらしく造られたものです。
古いものは過ぎ去った。みよ、すべてがあたらしくなったのです。」と言うみことばですが、過去の事は全部神さまが十字架によって、罪を赦してくださるということを、メッセージを聞きながら私は「ああ、私は今まで、神さまから離れ、自分勝手、自分中心に生活してきた事。これが本当に罪だったんだと思い、メッセージが終わって、招きの座:「今日信じたい人は、前に出てきてください。お祈りしましょう」と言われるままに前に出て、おおむがえしに先生に言われるままにお祈りをし、悔い改めのお祈りをしました。
その時に、なにか肩から荷が落ちたような感じさえしました。それから、求道生活が始まり、乾いた地に水がしみ込むように、次々といろいろなみことばが心に入って来ました。
それまで。38歳で目が見えなくなってから、盲学校時代に点字の勉強はしていましたが、目が見えていたので点字を読む事はしていませんでしたので。もう点字は触読(手で触って読むこと)が出来ないとあきらめていたのに聖書を読む機会ができて、そして、聖書を読みたいばかりに触読する練習をするようになってたどたどしいですが、やっと聖書を読んで意味がわかるようになってきました。
ほんとうにその時に思ったことですが「わが御子の みわざは指を 目と変えて 点字の聖書 読める喜び」 そんな自分の指が奇跡的に目に変えられたとそのような喜び、感激の中に3ヶ月の求道生活をして、翌年1971年1月31日に豊浜ルーテル教会で、ドイツから来られた宣教師のパスター・シュルツによって洗礼を授けてもらった者です。
1971年1月31日洗礼式のあかしのテープから
1970年11月の2日、初めて出席した特伝において本田弘慈先生のお話を聞いて、なんの抵抗もなく、招かれるままに、恵みの御座に進み、先生のお祈りに合わせて、オウム返しのような悔い改めのお祈りをしました。そして、翌年1月31日に受洗したのです。今このテープを聞き、記録のままにしたためてみますが、信仰の曖昧さ、色々な事はいまさらどうすることもできませんがただ書かれていた通りお読みします。昭和2年5月15日生まれ、聖句はガラテや書4章の8節:神を知らなかった当時、あなたがたは、本来神ならぬ、神々の奴隷となっていたのである。
私は教会に通うようになってから聖書を読む度に今まで私はいかに自己中心的な生活をしてきたことかと気づかされました。
これからはすべてをイエス様におまかせして、みことばに従って歩みたいと決心しています。
まず、家にありました神々を教会の裏庭でお祈りの後焼き捨てたのは、今年の正月の元旦でした。
昨年秋の本田先生の特伝に出席し、今まで私が神さまに頼っていたのは、すべて偶像であることがわかりました。
それまで人から信じるように勧められては、真言宗の人から勧められては、霊場めぐりなどをしたこともありますが、まことの神さまは太陽、地球すべてのものを造られたお方、驚くほかありません。
本当に神ならぬ神々にすがっていたのがなんだか恥ずかしい感じです。
人からは「にわか信心、神頼み」と言われてはいけないと思い、一生懸命に教会の各集会に出席していました。
なぜみんなから「にわか信心、神頼み」と言われるかと考えれば、それまでは色々な神さまに、また易者に占ってもらったりして一喜一憂してきたことなどがあり、今回もまた新しい信心を始めたぞ!と言うように思われていたのだと思います。
また私は父母を恨み、健康な兄弟を憎み、盲人という社会的な差別に腹を立てていました。
私の心を哀れと思われたイエス様は二人の兄姉を用いて教会へと誘ってくださいました。
私は教会に来るようになって一つのみことばを固く握りしめています。聖書にある4つの種と言うお話の中で「岩の上に撒かれたと言うのはみことばを聞くとすぐに喜びますが、その中に根がないので、しばらくの間そうするだけで、みことばの為に困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」の言葉でした。
やっぱりあれはにわか信心、三日坊主だったと言われぬようにと祈り続けてきました。
私は38歳で失明していますから点字を触読することをあきらめていましたが、聖書を読むように気持ちができてから点字の聖書を一生懸命、手探りをしているうちに、すこしづつ、触読をすることができるようになりました。「我が御子の みことば指に 触るるたび 神のみめぐみ いや増しわれに」 「わが御子の みわざは指を 目と変えて 点字の聖書 読める喜び」信仰生活に入り、イエス様が私に対してなさった事は、指を目と変えてくださった事です。
私がイエス様を救い主として受け入れる決心をしたみことばは、赦しの確信でした。みことばは第二コリント5章の17節です。「誰でも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去った。みよ、すべてが新しくなりました。」
私は、五歳の時、母を亡くしました。その後、継母に育てられていました。その継母は優しくて、私自身心の中ではお母さんになってくれた人と思っていましたが。さて、呼ぶときには「おかあさん」と呼んであげることが出来ませんでした。育
ててくれている間、また私が成人となってからも、たとえ旅先から手紙を出すときでも「母上様」とか「おかあさん」と書きながらも、いざお会いするとおかあさんと呼んであげることが出来ませんでした。今日ここにたつと良心がうずきます。心が痛みますが、このあやまちも主が赦して下さることと信じております。
母は42歳で私を産み落とすと、産後の不養生で中風になり、五歳の時になくなりました。
父を責めるようですが、母と父はいとこ同士で結婚したので、その結果私が盲人になったと言うことです。母の死後、父は芸者と再婚しました。私が母と呼ぶことが出来ないのは、ある日お学校の友達に「おまえのお母さんは芸者の梅ちゃん」と指摘されて、それが恥ずかしく感じてそれから後、母を「おばさん、おばさん」と呼ぶようになってしまったのです。心の中ではいつも母になってくれたと思っており、また学校から帰って、母の姿がみえない時「おばさんはどこに行っているのと聞き、おしえてくれたらすぐそこへ行って、母の顔を見て安心したことです。それほど母を慕っていながらとうとう「お母さん」と呼んであげる事が出来なかったそれが本当に悔やまれて、悔やまれてなりません。
また、父母がいとこ同士で結婚した結果。私が目が見えなくなった事に対してもお父さんにくってかかった事があります。
「お父さんが結婚を、もうすこし真剣に考えてくれておればこういうことはなかったのにと言うといつも父は何か思案した顔をして・…今もその顔を思い出します。
これらのことも神さまは赦して下さると信じます。
ヨハネ福音書9:1~3に盲人の事が書かれていますが本人の罪でも親の罪でもないただ神の恵みが彼の上に現れる為です。とのみことばによって神さまは私を盲人とする特技を生かして今、盲人になって苦しんでいる人に神さまを紹介するために遣わされたと思えるようになりました。
また、聖書を読んでいるときマタイの福音書には2羽のすずめは1アサリオンで売られている、ルカの福音書には5羽の雀は2アサリオンで売られている。しかし、どの1羽も神さまの赦しなくして地に落ちることはない。またすべてを等しく愛して下さっている。しかし、あなた方ははるかに雀以上のものではないか。良くして下さらないはずがない。そのようなみことばを思う時このルカの福音書では1羽おまけのような、なんの値打ちもない私でも神さまは等しく愛して下さっている。本当に感謝です。
これからはこのイエス様から離れずに信仰生活を続けていきたいたと思っています。
私が信仰の確信を得るまでのお証をして下さった教会の先生、また私が救われるようにと祈り続けて下さった兄弟姉妹に感謝しています。
これからもお祈りに加えて下さり、私たち家族が救われるようにお願いして下さるようにお祈り下さい。
本当に今日は私のためにこのような場を持ってくださり、また証をする機会をあたえてくださった恵みに感謝します。この日パスターシュルツが洗礼式に当たって私に下さったみことばは次のようなことばです。 詩編103:1~5
我が魂よ主をほめよ。我が内なる全てのものよ、この聖なる御名をほめよ我が魂よそのすべての恵みを心に留めよ。あなたの全ての不義を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたの命を墓からあがないだし、いつくしみとあわれみとはあなたの生きながらえる限り、良きものを持ってあなたをあきたらせる。そしてあなたは長らえて鷲のように新たになる。ということばを戴きました。
そして父と子と聖霊に御名によって洗礼を授けるとお祈りをして下さったその瞬間隣にある役場の12時のサイレンが「ウーン」となったのは私にとって本当に生涯私の為に設定されていたサイレンだと思えるほどに記憶が今も新たなものがあります。
以上です。長い文章を読んでくださり感謝いたします。
洗礼を受けたのが1971年 それから50年 昭二さんはクリスチャンとして、本当にぶれることなく生きてきたんだと、つくづくと思います。
証しの途中にあったヨハネ9章の話はこんな話です。
ヨハ
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
昭二さんが、目が見えなくなった時、親戚の結婚式にさえ「身内に障害者がいたらかっこ悪いから来んといてほしい」というような言葉さえありました。
障害があるのは罰が当たったからだというような言葉も聞きました。しかし、聖書は違うんです。
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
昭二さんに神様のわざが現れるためだと言われたのです。
そして昭二さんの障害を通してその事は現れたと信じます。
イエス様は、どんな弱さを持った人をも愛し導いてくださるのです。
その事を昭二さんの人生を通して私たちに教えてくださいました。
昭二さんはおまけの取るに足りない五番目の雀 それは私だけど・・・五番目の雀でも愛してくださっている。
Ⅱコリント5:17
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
キリストにあってクリスチャンになった昭二さんは、家に帰って母に今までの罪を詫びて新しく生きました。
母は、それは信じられなかったけれどあまりの変りように、また真剣さに感じ入り・・一年後に母も洗礼を受けました。
昭二さんの信仰によって家族がイエス様を信じていくことになったのです。
昭二さんは現役で仕事をしているころは、テープ伝道をしていました。日本中の先生の説教テープを集めて、それを全国の人に貸し出したり、何か大きな集会があると手弁当で録音して、何本か一緒にダビングできる機械を使って集会の終わるころには欲しい人にお渡ししたり・・・(新しいもの好きでクリスチャンになってもそれは変わりません。ちょっと私も血を引いています。お金は使いました。でもそれは稼ぎの中でした。)そして盲人の人にテープを送ることもしていました。
60歳を過ぎて腹話術を習い始めました。聖書の言葉を伝える、ロゴス腹話術と言う会でした。
盲人の人が腹話術を覚えるのは難しくて、当時日本中で2人だったそうです。人形の動きや表情なんかが自分ではわかりません。習う時は母がそばについて二人三脚で腹話術を習っていました。
今回写真が出てきたのを見ると全国大会や京都や芦屋などにも出かけて訓練をしていました。また老人ホームや教会などで発表していました。四国ではテレビにも出たことがあります。
最後は90歳の時、新幹線に乗って東京の教会まで腹話術の奉仕に行きました。その時は体も弱っていて、主治医の先生から途中で倒れたら渡すようにと紹介状も持って、車椅子に乗って、いろんな人に祈られてまさに命懸けで東京まで行って無事に終えることができました。それは昭二さんの大きな思い出となりました。
昭二さんは基本的にはユーモアの人でした。
いつも人を笑わすことを考えていたように思います。
そして結構頑固 いらち 若いころはクレーマーでした。しかもそのクレームには話に筋が通っているのでなめてかかっていたらえらいこっぴどくやられると言う感じの人でした。役所なんかでも恐れられていたかもしれません。
目が見えない障害を持って生きていくには、黙っていたんではやっていけないという激しさもありました。
いつも神経を張り詰めて生きていたので‥誰かがそーと部屋に入って来ても、すぐわかるという。まるで目が見えているような感覚でした。
そんな張り詰めて生きているので、私は昭二さんは長生きはできないだろうとぼんやり思っていました。
94歳まで生きるなんて驚きでした。まさに神様の恵みです。そして昭二さんは神様によって晩年はとんがった生き方でなく・・・ありがたい、ありがたいと、感謝することが多かったです。
一年前に脳梗塞から要介護5の状態になり、自分で歩けなくなりましたが。
ありがとう、ありがとうと感謝することが多かった。
いつ召されても私には天国が約束されている。ありがたい、ありがたい。と言っていました。
そして神様を礼拝することについては、日曜礼拝はずっと楽しみにしていました。
召される前の日曜日も枕元で礼拝メッセージを聞いて。ありがとう良く聞こえたと言っていました。
神様はまさに父に働いて。
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
このみことばが成就し
Ⅱコリント5:17
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
この神様の恵みは、昭二さんだけではなく、今も私たちに語りかけられています。
昭二さんの生涯に働いてくださった神様の恵みに感謝し、また私たちも昭二さんのように生かせてくださいと祈るものであります。
残された私たち一人一人の上に神様の慰めと恵みがありますようにとお祈り致します。
祈り
天の父なる神様 御名を褒めたたえます。
本日は、豊島昭二兄の告別式にあたり、昭二さんを偲び、そこに働かれた神様の恵みと愛を見ることができました。
何方(どなた)の告別式の時にもいつも思う事は、主イエスを信じて神の子とされた一人一人を神様が、ずっと見放さず、そばにいて、つらい時も、苦しい時も、また喜びの時も、不安な時も、いつも共にいて、人間の思いを超えた。まさに人知を超えたキリストの愛で導いておられることを見てきました。
今日も昭二さんの人生の中に働かれらキリストの愛を見ることができました。
自分の父の事ではありますが、一人の信仰者の歩みとして感動しました。
そのキリストの愛と恵みは、ここに参列されているお一人一人にも注がれているのです。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
昭二さんの願い それはこのキリストの愛と恵みを一人でも多くの人に受け取ってもらいたいという事でした。
どうか、私達が昭二さんの内に働かれた神様の御業を覚え、昭二さんに続いて歩ませていただきたいと願うのです。
この祈りを主イエス・キリストの御名によって祈ります