2021年12月19日(日) クリスマス特別礼拝説教

説教題「本当のクリスマスプレゼントは?」

聖書箇所 ヨハネ1:1~14

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

1:6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。

1:7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

1:8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

メリークリスマス!クリスマスおめでとうございます。

本日のクリスマス特別礼拝にようこそお越しくださいました。

さて皆様はクリスマスの起源をご存知でしょうか?

クリスマスは「イエス様の誕生日」というのは間違っているといえば、多くの人

は驚かれることでしょう。

しかし、歴史的にはイエス様の出生の年月日は不明です。

12月25日は、実は「イエス・キリストが人となって私たちの所に来てくださったという、聖書のメッセージを主題として礼拝を守る日」という教会の歴(こよみ)の上での祝日なのです。

この日、世界中の教会は、「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)という、福音(グッドニュース・良き知らせ・ゴスペルとも言われます)の深い真理とその喜びを感謝して、一斉に礼拝を守ることにしました。紀元四世紀の頃です。(かなり古いです)

したがって、礼拝なしにクリスマスは成り立ちません。

クリスマスは何よりも礼拝の日であります。

それはクリスマスという呼び方にも示されています。すなわちクリスマスとは「キリストのミサ(礼拝)」と言う意味です。短縮していうと「クリスマス」になります。

というわけで、私たちはキリストを礼拝するという時をもって本当のクリスマスを体験していただきたいと、このクリスマス特別礼拝を持たせていただきました。

今日の聖書を読まれて、どんな感想をお持ちになったでしょうか。

私は、今日の箇所は、まことに雄大な、感動的な、神様のご計画が現されていると考えます。

もう一節一節が、深い意味合いがあり、短い時間では語りつくすことはできません。

私の一生をかけて読み続けていく箇所、体験していく、このみ言葉で生かされ、励まされ、導かれていく、大切な、大切な箇所だと思っています。個人的にも大好きな箇所です。また私に衝撃を与えた箇所でもあります。

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。

1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

ことばと言うのは「ロゴス」と言うギリシャ語で日本語のことばでは意味が弱い。

日本語に初めて翻訳された聖書はギュツラフ訳と言いますが、難船漂流した日本人の漁民と一緒に日本語にしたものです。そのヨハネの福音書の最初。ロゴスという言葉を「初めにかしこいものござる。」と訳しています。ロゴスは人格を持ったものであり、イエス・キリストの事を指しています。とするならば、この個所は

初めにキリストがいた。キリストは神と共にいた。キリストは神であった。キリストは神と共におられた。すべてのものはキリストによってつくられた、造られたもので、キリストによらずにできたものは一つもない。と言う事です。

この世はキリスト(神)が造られた!。

この宣言が最初の、最初の言葉なのです。

旧約聖書の最初の言葉も、「はじめに神が天と地を造られた」との宣言から書き出されています。

クリスチャンになる前の私は、無神論でした。科学万能主義でした。この世は偶然に、また奇跡的な進化によって世界もまた人間も造られたと考えていました。

しかし、神によって世界が造られたという事を聞いたとき。私の価値観に大きなチャレンジを与えられました。やがてこの言葉を信じた時から私のクリスチャン人生は始まりました。28歳の時です。

神様が私たちを造られたのなら、私たちはみんな幸せに生きられるようにしてくれればいいのに・・・。と思いますが、私たちには罪があるのです。

罪と言うと「キリスト教はいつも人を罪人だと言う。私はそんな大きな罪は犯していない」と言う方もあるでしょう。私も人殺しもしていないし、大きな盗みもしていない。私は他の人よりはましだという思いもありました。

しかし、深く考えれば、ことばだけで人を殺してしまうほど悲しませることもあります。うそを言ったり、小さな盗みをしたり、人をさげすんだり、また妬んだり・・・。自分の心の中が、真(まこと)に正しいものではないことを感じてきました。

聖書ははっきりと「義人はいない。正しい人はひとりもいない」と宣言しています。

このことばはあまりに明確です。まさに真理と納得しました。

罪の最も大きなものは、自分の心の中から自分を作ってくれた神様を締め出し、自分の思い(自己中心)が優先していることから起こると聖書は言います。

人が自己中心に生きる時、実は心の中は「やみ」の状態なのです。

悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出てきます(マ

タイ15:19)

また私たちの心の中に希望が失われ、思い煩いや、不安、絶望がいっぱいになった状態が闇です。

人生を積み重ねていくと・・・・私は正しいものではない。こんな思いが大きくなっていきます。あの人と比べれば私はましだ。悪い事もあるがそれ以上にいい事もしてきた。と自分を正当化しようとしても、まことの神様の前にいつか出なければいけないとしたら・・・・やはり自分は罪びとだはないか。という事が見えてきます。

その時、私達の心は闇なのです。いろんな苦しみや、どうしようもない事・・・悔しい事。。。。 悩みの中で私たちの心は暗くなるのです。

そうではないでしょうか。 いや違う!私はいつも輝いている・・・明るい世界に生きている。ハッピーだ!という方もあると思いますが・・・・本当にそうでしょうか? 人間の力ではどうしようもできない闇があるのです。

しかし、闇に勝つものがあります。

この闇に勝つもの。それは光です。

真っ暗闇の中でも、小さな光があれば・・・。闇は消し飛ぶのです。

その光こそ、私たちの救い主イエス・キリストなのです。

決して消えることなく、私のようなものにも、光を照らし、自己中心の思いから、イエス様を心にお迎えして、明るい人生へと導いてくださるのです。

このキリストが来られたのがクリスマスです。

話は少し変わりますが、日本には高貴な方として天皇陛下がおられます。私の子供の頃、天皇陛下の列車が通るからと言って小学生全員が線路の横に立って、旗を持って見守った事があります。長く待って・・・列車は一瞬で通り過ぎましたが天皇陛下を見ました。旗を振りました。天皇陛下は列車の中から立って手を振っておられました。今考えてみれば天皇陛下も沿道の人にずっと手を振って旅行するなんて大変だったと思います。

私は、そうは感激しませんでしたがお年寄りの人は感激していました。まさに雲の上の高貴な人でした。その天皇陛下があなたの前に来てくれたらどうでしょう。

大震災の時に天皇陛下が人々を心配して、避難している体育館に行って・・・・避難している人のそばに座り込み、同じ目線で手を取り、お声をかけられる姿をテレビで見ることがあります。

お会いした人たちは本当に感激していました。あの陛下が私のようなもののところに来て声をかけてくださった。なんともったいない事。

クリスマスは、天地を造られた神様、その神様の子が(御子)が闇の中で苦しん

でいる私たちのところに、地上に、この世に来てくださったのです。

それも菊のご紋のついたお召列車から手を振るような姿ではないのです。

ピリ

2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、

2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、

2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

これがクリスマスの大きなテーマなのです。

そしてキリストが来られたのは、闇の中にいる私たち一人一人に光を与え

ヨハ

3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

私たち一人一人にいのちを与えてくださるために来られたのです。私たちに幸せに生きることができるために・・・それだけでなく死んでも生きる永遠の命を与えるために来てくださったのです。

イエス・キリストの誕生 その時起こった事をクリスマスの生誕劇などで見たことがある人もあるでしょう。

幼稚園などのクリスマス劇を思い出してください。

一般にあるクリスマス劇はこんな話があります。

ある時、天使がマリヤさんに「おめでとう!あなたは神の子を産みます!」とことばがあります。マリヤさんはびっくりしますがそれを受け入れます。

そして子供の生まれる頃、ユダヤの国では大々的な住民調査が行われ、国民すべてが本籍地に帰って住民登録をせよと言う命令が出されます。難儀な話ですが、マリヤさんと夫のヨセフさんは本籍地のあるベツレヘムと言う町(小さな田舎町)に行きます。

ユダヤの国中の人が一斉に本籍地に帰っているのですから国中大騒動です。旅館も満員です。マリヤさんはもう子供が生まれそうになっていました。長い旅をしてベツレヘムに来た時、泊まる宿屋がありません。頼み込んで家畜小屋で泊まります。綺麗なところではありません。その時産気づいて、マリヤさんは赤ちゃんを産みます。なんと赤ちゃんを入れるベットは飼い葉おけなのです。

そのころ寒い夜に、野原で羊飼いをしている人々がいました。いろんな説がありますが羊飼いは、当時は最下層の人たちの仕事でした。住民登録も関係な

い・・・ひょっとすると人間に数えられていないような人達。誰もが嫌がる野宿で夜番(夜勤)をしているわけです、

彼らにはあまり希望もなくつらい毎日だったと思います。

その羊飼いのところに神様の使いが現れるのです。

ルカ

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

ダビデの町とはベツレヘムの事です。そこに人類の救い主キリストが今日生まれました。行ってみなさい!!と言われるのです。

荒野に響く、素晴らしい知らせでした。 讃美歌106荒野の果てに♪♪

羊飼いたちは驚きながらも喜んで、イエス様を捜し。飼い葉おけに布にくるまっている赤ちゃんを救い主として拝むのです。

世界で一番、最初にキリストの誕生日をお祝いした人。それは羊飼いさんたちだったのです。

そして別の形でイエス様の誕生のお祝いに、救い主を捜して長い旅をしてきた人たちがいました。東方の博士たちです。彼らはユダヤ人ではありませんでした。

異邦人と呼ばれていました。その博士たちがキリストが生まれると教えられ、星に導かれてユダヤの国まで来るのです。そして当時の王様に会います。

ユダヤの王として生まれた方はどちらですか?と尋ねます。王様はびっくりです。

その赤ん坊は自分の地位を脅かす存在だと思います。

博士たちに「そのユダヤの王、私達の救い主キリストが生まれるのをお祝いしたら、帰りに私に知らせて欲しい私も拝みたいからと言います。

博士たちは星に導かれて、イエス様を見つけ、黄金、乳香、没薬という贈り物をします。これは世界で初めてのクリスマスプレゼントでしょう。

博士たちは神様に示されて、王様のところには寄らずに帰りました。

王様は、博士たちが来ないのを知り、博士たちが行ったであろう町の赤ん坊を皆殺しにするという事件があります。イエス様はその時はエジプトに逃げていて助かりました。こんな事件がありました。

私達の救い主イエス・キリストは、時の王様からは命を狙われたのです。

こんなことがクリスマスに起こりました。

私達の救い主イエスキリストは、神の子なのに神様の権威を捨てて人間の世界に来てくれました、優しい方です。それも普通の人間以下の姿です。

今なら病院でお産をするでしょう。当時でもある程度清潔なところでお産をするでしょう。

イエス様は王宮でもない、馬小屋で生まれ、飼い葉おけがベッドだった。これはまさにへりくだった姿ではないでしょうか?

そして最初にお祝いに来たのは…神様が誕生を知らせたのは、社会的に言えば底辺に暮らす羊飼いさんたちです。

イエス様は弱い人に目を向けられている方なのです。

イエス様は明日の希望も見えないような・・・闇の中に住む人たちに光として来られたのです。

光ってすごいと思いません。真っ暗な部屋に入った時・・・どうしたらいいかわかりません。でも小さな小さな光があれば今までの闇は消し飛ぶのです。

私達の心に、イエス様と言う光が入って来られるなら。私たちにいのちが与えられ、全く変わるのです。

1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

来週、豊島昭二さんの事を偲ぶ礼拝が持たれますが、昭二さんはまさに全くの闇の中にいました。目が全く見えなくて、電気がついているかどうかもわかりません。全くの闇です。しかし、そこにある時イエス様が来られました。そして大事な事は、昭二さんはそのイエス様を光として受け取りました。

1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

昭二さんはイエス様を受け入れた時神の子とされ、光と共にイエス様と共に人生が始まったのです。

これはここにいる皆様お一人一人も同じです。

イエス様を救い主と受け入れる時。信じる時、神の子とされるのです。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

しかし、イエス様を受け入れない人たちもいました。今日の聖書で言えばユダヤの王様です。彼は神様中心ではなく、自分の事だけを考えていました。そのような人は光であるイエス様を受け入れないのです。

1:9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

1:11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

イエス様は、そんな仕打ちを受けることもわかっていた・・・・・それでもこの世で苦しんでいる人たちを助けるために・・・神の子なのに・・・この地上に、人間の世界に降りてきてくださった・・・。そしてイエス様は私達にはどうしようもない罪を解決するために十字架にかかられた。このことは、今日は詳しくは話せませんが。

クリスマス それは困難と苦難があるのを承知の中で、神の子イエス様がわたしたちのところに来てくださった。それは天皇陛下が体育館でひざまづいて被災者に寄り添う姿以上の事です。

どれほど私たちは感動感激することでしょうか?イエス様は光として私たちを照らしてくださるのです。

今、私達は何も問題なしに暮らしていると思っている方もあるでしょう。

しかし、永遠の世界。霊の世界から見れば 私たちは神様から断絶して、罪の中に生き、やがて滅びの中に死ぬのです。

それは自分の努力で救われることはできません。

しかし、神様は一方的な憐れみで、恵みで、私達を救い出してくださいます。

それはこのイエス様を受け入れる事信じることの中で起こるのです。それは簡単です。と、同時に難しい事でもあります。自分の力で頑張るものには難しいのです。

他力本願と言う浄土真宗の言葉がありますが・・・親鸞はキリスト教の教えを受けていると思います。

自分の罪の問題は自分の力では解決しない・・・しかし自分よりももっと大きなものイエス様にお任せするなら・・・愛であるイエス様はあなたを助けてくださるのです。

エペ

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

この素晴らしい恵みが、私達に与えられた。これが私たちの救い主イエス。キリ

ストの誕生 クリスマスなのです。

クリスマスはまさに神様から与えられた賜物(私達にはそれを受けるなんの値打ちもないのに、能力もないのに、功績もないのに、ただただ神様からの一方的な愛のプレゼントです)

親が子供を愛し、子供のできいかんにかかわらず、愛のプレゼントをするではないですか。

それと同じ クリスマス。イエス・キリストのお誕生はあなたへの神様からの最高のクリスマスプレゼントなのです。

どうぞそのプレゼントを喜んで、感謝して受け取って下さい。

私にはそんな資格はないと断る必要はないんです。このプレゼントは全くの恵みで、無料で、あなたに与えられるのです。

その時、あなたの人生にまことのひかりが入られるのです。

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