2021年11月28日
説教題「再臨について」
説教箇所 ルカ21:25-36
21:25 そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
21:26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
21:27 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
21:28 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」
21:29 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。
21:30 木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。
21:31 そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。
21:32 まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
21:33 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
21:35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
21:36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
おはようございます。
10月31日(宗教改革記念日)の礼拝を急遽オンライン礼拝にして、その後は11/7は松田先生、11/14は金兄、先週の11/21は松田先生の説教でした。
ですから、皆様の前で顔を見ながら説教をさせていただくのは5週間ぶりになり
ます。
この間、本当にいろいろありました。もう怒涛のような日々でした。教会の皆様にも本当に、ご心配をおかけし、また多くの励ましと祈りをありがとうございました。
この間からの動きについて、私の証しをさせていただきます。
そしてその中で今年の目標聖句が鮮やかに浮かんできました。
エペ
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
私の思いをはるかに超えてキリストの愛が働いていることを実感しました。
ふりかえれば父は昨年の11月4日に耳原総合病院から退院してきました。
召されたのが11/3ですからちょうど一年でした。
退院する前は、コロナ禍の入院で、目の見えない父は多くのストレスを抱え、認知症のようになり、自分で歩くことはできず、要介護5の状態での退院でした。
自宅介護に自信があったわけではありませんが、多くの方々の助けによって父は一年を過ごすことができました。
自分で話すこともでき、YouTubeもいっぱい撮りました。「俺の話は長いby豊島昭二」と言うのなどは13回続きました。それができなくなってからは今日の一言とかいうのも配信しました。食事もしっかり食べれるようになりました。誕生日には骨付きチキンを食べました。
家内が召された後なので、父の事は、私が三食作り、食べてもらいました。
今考えると、父とこんなに長い時間話したことはなかったと思うくらいにべったりと一緒に歩んだ時間でした。楽しい時間を過ごすことができました。
24時間、いつでも動き出す父の世話は、大変な時もありました。でもいろんな工夫と助けで守られました。
自分でトイレに行っていた時が一番大変でした。一人では危ないので毎回介助がいるし、それを申し訳なく思ってか一人で頑張って倒れてしまっていたり・・・・ずっと父の事を気にしながらの一年でした。
本当にいろいろあった一年でした。
10月の終わりごろに食事を食べなくなり・・・眠ることが多くなり・・・・もういつ召されてもおかしくないと言う状態になりました。
会える人には会ってもらってくださいと言われていました。
私の姉と妹(父にとっては子供です)にも声をかけていました。ただガンとかではなくて老衰なので、いつ召されるかはわからないし・・・また持ち直すかもしれな
いという事を繰り返していました。
父が食事をしなくなりました。とFBに挙げて、いろんな方が心配やら励ましをしてくれて・・しばらくするとまた元気になって・・・しっかり食べる。
私の父が調子が悪いですという言葉は、オオカミ少年みたいで、何回も奇跡的に回復していました。
教会の皆様ともご一緒に礼拝を捧げるという事も、まだこれからもあるとは思いましたが・・・・、皆さんと一緒に礼拝前に集まってもらい記念写真を撮ったのが、10月10日でした。
本当に父が教会の礼拝に参加する最後となりました。あの記念写真はそういう意味で大切な写真となりました。神様の示しだと信じます。
全く食べなかった父が、また食欲を回復したという事も度々ありました。
ただ今回は難しいかも…と言う思いはありました。私が一人で世話している時・・・突然召されたら・・・覚悟はしているけれど・・・・どうなるだろう?と言う思いはありました。
そんな中、10月28日から私が発熱しました。10月31日の礼拝は急遽オンラインにして私は10月30日(土)に録画して(結構熱があったんですけど何とか出来ました)
来週11月7日の全聖徒主日礼拝の準備をと考えていましたが・・・・どうも難しそうな体調でした。
その前から私の事をFBの投稿で見て心配してくださっていた松田先生が何かあったら応援しますよと声をかけてくださっていたので・・・・松田先生に説教を依頼し、快諾していただきました。これも考えられない恵みでした。
その夜、高熱で低いベッドから落ちただけなのに、立ち上がることができない・・・全く力が入らないという状態になり、娘たちが救急車を呼んでくれて耳原病院に行き、そのまま入院になりました。高熱が出たり、解熱剤で下げたり・・・また上がったり・・・もう大変でした。
父の事も気になっていたのですが、私は、もう何もすることができなくなっていました。
原因はよくわかりませんでしたが免疫が落ちていた中でウィルス+細菌の感染症でした。まあ疲れから来るものだと言えます。(11/25の検査結果で帯状疱疹ウィルスが原因とわかりました)
11月14日の礼拝にも難しいかもしれないと悩みましたが金兄が急遽説教を引き受けてくださいました。
ありがたい事です。
そうしている中で父の最後が近づいているという連絡がありました。
巽先生からも11月3日は祝日なので検査もないだろうし、一時退院か外出でも
して父の最後に立ち会いますか?と言う話がありました。
私は父に一年ずっとついていたから、別に最後に立ち会わなくてもいいです。何も後悔はありません。もうある意味精いっぱいやりましたから。お任せしますと話しました。
その時、私に示されたのは、私の倒れたことは神様からの強制入院だと思いました。父の最後に立ち会えば、その後の、葬儀の段取りも含めて激務が続きます。私の体はそれまでに実は相当疲れていて、もう限界に来ていた。
神様が、お前はもう休んどきなさいと言われたように思いました。
本当は、父に最後まで寄り添いたかったけれど・・・そこまでしたらお前は傲慢になる。お前の弱さを認めなさいという事だと思いました。
で、ある意味11月3日に父が召された瞬間・・・・私は病院で・・・すべて娘たちや介護チームの皆さん。教会の方々にお任せになりました。
病院で寝ている時、私は思いました・・・ああ人間て、弱いなあ・・・思いはあっても熱には勝てんな・・・私の体は相当疲れがたまっていたんだなあ・・・と思いました。寝ても、寝ても、まだ寝れると言うくらいでした。
でもその中に、ああ神様がわたしを見守ってくださっているという思いがありました。
父の事はゆだねたけれど、確実に天国に凱旋した・・・なんか喜びさえありました。
守よ。ようやった。倒れるまでようやったという声を聞きました。
なんと幸いなことに、私は臨終の立ち合いは委ねましたが、ラインのテレビ電話がつながって、父が召される前に話をすることができました。病院のベッドの上からでも父がそこにいるような感覚で話ができた言う事が出来。感謝でした。
召されてからのいろんなことも、娘たちを始め、皆さんの助けで、全部守られました。
考えれば私が元気で、全部やるよりも・・・もっと素晴らしい事ができたと信じます。
父が召される時・・・私一人でなく・・たくさんの人が見送って
私が疲れて倒れてしまわないように・・・休めと言っても聞かない私に対して、強制的に入院させて・・・動けなくさせて・・・
そしてみんなで父を見送る・・・
私が倒れている間の礼拝説教も、松田先生、金兄が手伝ってくださって
私を休ませてくれて・・・溜まっていた疲れを癒してくださり
牧師が一人で動くのではなく、教会の皆さんが一人一人役割を果たしてくださり、一致して奉仕している姿も見ることができました。
私は車椅子で教会に座っている時・・・・皆さんが愛を持っていろんなことをして下さっている姿を見て・・・本当にありがたいと思いました。
自分が何かをするのではなく主にゆだねる時・・主が私たちの思いをはるかに超えて素晴らしい事をして下さるという事を見る事、体験することもできました。
今回の出来事に脚本を書き、演出をして下さっているのは。人間の考えではないまさに神様の働きだと、心から感動しました。
まさに人知をはるかに超えた神様の愛の中に生かされていると感謝したのです。
教会の牧師が完全に倒れてしまったら・・・教会にとっても一大事です。
そういう意味では神様は堺育麦キリスト教会を愛してくださり、昭二兄も愛してくださり・・・・
私たちにとってまさに最善の事をして下さったと心から確信し、感謝するのです。
私達は人知をはるかに超えたキリストの会いに包まれているのです。
さて気が付きますと・・・教会歴は待降節(アドベント)に入ります。
あんまりあわただしくて、心がついて行かないような気もしますが、先週、アドベントの用意を皆さんがしてくださって・・・・ツリーも飾って
講壇にろうそくが4本並んで・・ああアドベントなんだと思いました。
教会の暦と言うのは、主イエス様のご降誕を待ち望む待降節から始まります。
まあ今日が新年みたいなものです。
イエス様の誕生 クリスマスを待ち望んでいくんです。
楽しい、心ワクワクする期間であります。
本日の聖書日課は、ルカ21章 エルサレムに入城したイエス様が、宮で人々に話をしている中での言葉です。
ルカ
21:37 さてイエスは、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされた。
21:38 民衆はみな朝早く起きて、教えを聞こうとして、宮におられるイエスのもとに集まって来た。
その話の中で今日イエス様が離されたのは、再臨の事です。
21:25 そして、日と月と星には、前兆が現れ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
21:26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
21:27 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
イエス様は私達の救いのために、この地上に人間の姿を取ってお生まれになられます。これがクリスマスです。
そして、私達の救いのために私達の罪をかぶり、私達の罪を帳消しにするために・・・私たちの罪を背負って身代わりに死んでくださいます。
イエス様の十字架です。
そして墓に葬られます。まさに死んでくださったのです。
しかし、三日目によみがえられます。
それはイエス様の神の子としての証しであります。その復活により、私達の罪の身代わりに死なれたイエス様のなされた事。
それは確かであったという事がわかります。
復活のイエス様を信じるものは皆、罪が赦され、神の子とせられるのです。
イエス様は40日間 復活の姿を弟子たちに現わされましたが、天に昇られました。主の昇天です。
イエス様は天に昇り神の右に座して、いま私たちのためにとりなし、弁護をして下さっているのです。
そして今の時代・・・・それは恵みの時です・・・・宣べ伝えられた福音が全世界に宣べ伝えられていくときです。
今、キリストを信じるものは、救いが約束されているのです。
ヨハ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
しかし聖書は、その事はいつまでも続くのではない・・・やがてイエス様が再びこの世にやってくる時があると約束されています。
それが再臨という事です。
私達が毎週の礼拝の中で信仰告白として唱えている事です。
我は天地のつくり主、父なる全能の神を信ず。
我はそのひとり子、
主は聖霊によりてやどり、
おとめマリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、
死して葬られ、よみに降り、
三日目によみがえり、天にのぼり、
父なる全能の神の右に座したまえり、
生ける人と死にたる人とを
さばかんがため、
かしこより再び来たり給わん。
この再臨の時は、すべての人が、生きている者も、既に死んだ者も・・・すべての人の裁きの時であります。
そのためにイエス様は「かしこより再びきたらん」と約束されているのです。
今日の聖書日課の
21:27 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これは必ず起こる事なのです。
キリストの再臨という事についていくつかの事をあげてみます。
① キリストの再臨は必ずある。
このことについて異論はありません。キリストの再臨はないとか言い出したらそれは異端であります。
一回目の来臨 それはクリスマスですが・・この時イエス様は、貧しき大工の子として馬小屋で生まれる・・謙卑(謙遜でへりくだっている)の姿で来られました。神の子であられるのに人より貧しきものとして来られました。
ピリピ2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
そして再臨は、謙卑の姿ではなく王として力と権威を持って、人類を裁くために来られます。
このことはすべてのキリスト教会が一致しています。
再臨はあるのです。
② 再臨の仕方はあまりよくわからない
実はキリスト教会で一番意見が分かれるのが再臨の方法です。ここにいろん
な教義があります。空中再臨が先にあるとか・・・千年王国とかの問題です。
この意見の相違を言い始めたら・・・サタンにつけ入れられる恐れがあります。
私達の教会こそが正しい・あの教会は間違っている・・・などと裁き合う事になる危険性があるのです。
大体聖書をいくら調べても読んでも、はっきりしない事はあるのです。このはっきりしない事でお互いを批判することは、福音の本質からは外れていると考えます。
私が前にいた教会はディスペンセーション主義といって再臨について非常に細かく研究していました。それは正しいかもしれませんが、それを信じていないクリスチャンはクリスチャンではないというような感じがありました。自分たちだけが正しい。他は間違っているという傲慢さも感じました。
福音の本質は、一番大切な事はそのような枝葉の事ではなく。キリストの十字架、復活にあるのだと考えますので。
再臨の方法についてはよくわからないと言う事で行きたいと私は考えています。
③ 再臨の時期は私達にはわからない。
確かに再臨が近い時に起こる現象をイエス様は言われています。
特に全世界に福音が述べ伝えられる事も大きなしるしです。
地震や戦争や、異常気象もあると言われています。
しかし、その日がいつであるかは私達には隠されています。それは思いがけない時に来るのです。
ですから、〇年〇月に地球の最後の日が来るとかいう予言が今までにもありましたし・・・今も〇月〇日に大変な事が起こる。世の終わりが来る。と言うように再臨を予言する人がいたらそれは間違いです。
④ 油断せずに過ごさなくてはいけない
再臨はある。その時はわからない。だからまだまだ先だと油断してはいけないと聖書は言います。
21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
21:35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
いつ再臨が来ても大丈夫なように私達は生きているか?
そう言われると私は、胸を張れません。家の片付けもできていないし、今、再臨
が来ても大丈夫か?と問われれば・・・・結構油断しています。
昔、武士は戦場に行くとき、いつ死んでもいいようにきれいな下着を着、首をはねられてもいいように髪には香を焚き込めていたという人もいます。
それから言うと私なんか油断だらけのようなものです。
でもイエス様はその時が来ても大丈夫なように生きなさいと言われます・
21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
⑤ 再臨は信者にとって恐ろしい日ではない。喜びの日なのです。
しかし、再臨は恐ろしい時ではありません。クリスチャンにとっては最高の時なのです。その日救われている者は、イエス様の元に喜びの中で迎え入れられるのです。
再臨の話をすると、それを気にして、私は大丈夫だろうか?
今日来ても大丈夫だろうか?私はさっき友達にひどい言葉を言ってしまった。大丈夫だろうか?私は裁かれるのではないだろうか?・・・・と心配になって眠れなくなる人がいるかもしれません。
心配で、心配で・・・精神的に病む人が出たりします。
でも、油断せずにいなさいとは言われていますから、そうめちゃくちゃな生活をしていたら・・・それは考え物ですが。
私たちはイエスキリストの十字架を信じて神の子とされたものです。
ヨハ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
この福音、み言葉の約束に立てばいいのです。
私達は神の子です。
たとえばあなたのお母さんがいて、あなたがその子であって・・・。
お母さんの嫌がる事、うそをついたり、友達をいじめたり・・・そんな事をしていたら・・・お母さんはあなたは私の子ではない!!!知らない!!と言いますか。叱るとは思いますが。あなたは私の子ではないとは言わないはずです。
決してそんな事はないのです。私たちの神様はあなたをご自分の子として愛しておられるのです。
私達はこの約束に立つとき。再臨の時は、怖い時ではない、まさに喜びの日なのです。
ただ、覚えてください。再臨の日 あなたは神の子として祝福の中に入るけれど・・まだ福音を信じていない人は、その時裁かれるのです。
この厳粛な事実を覚える時、私達は愛する人たちに福音を伝え続けようではありませんか。
アドベント第一主日 イエス様のご降誕を待ち望む日に再臨の話が語られました。
再臨についてまとめてみれば
① キリストの再臨は必ずある。
② 再臨の仕方はあまりよくわからない
③ 再臨の時期は私達にはわからない。
④ 油断せずに過ごさなくてはいけない
⑤ 再臨は信者にとって恐ろしい日ではない。喜びの日なのです。
その事を覚えて、この一週間も過ごさせていただきましょう。
祈り