2021.11.14

説教箇所 マルコ12:1~12

説教題 ブドウ園から

分解 1~2 ブドウ園の主人

3~5 しもべ

6~10 一人息子

11~12 礎えの石

序論

私たちは日本に生かされています。その中で説教を作ります。自分が理解した聖書箇所を一人でも多くの兄弟姉妹にわかっていただこうと考えてできるだけわかりやすい言葉を選んで取り組んでいます。

その中で日本に住んでいる人しかわからないこといわゆる日本の文化のことを無意識ですけど例話として説教の中に取り入れています。北斗の拳や関ジャニ∞のことを例にとって話しました。

そう考えるとダーク先生は本当に頑張ったと思います。日本の言葉も文化もわからずに説教をするために苦労したと思われます。日本に江戸時代や明治時代に来られた宣教師たちは姿形も日本人と違い一目で別の国の人と分かるような人でした。

しかしイエス様を伝えたいという使命で異国の地日本に文化も言葉もわからずに来ました。その中で私たちが想像もできないぐらい苦労したと思われます。

今日の聖書の箇所はおおむね例えの話です。イエス様の例えは当時の人に簡単にわかるように当時のイスラエルの人にはすぐわかる生活に密着したことをたとえとして話されました。例えば今現在の日本の労働時間は一般的には朝の9時から夕方の5時です。多少の誤差はありますがこれが日本の労働時間というのは安易に想像できます。当時のイスラエルの労働時間は大体朝の6時から夕方の6時です。

日本では食事の時に何を使って食べるかというと真っ先に頭に浮かぶのが箸です。しかしアメリカでは私自身いったことがないですがおそらくフォークやスプーンと思われます。間違っていたらすみません。

イエス様の周りには常に多くの人だかりがありました。だから誰にもわかるような言葉や声の大きさで話しました。

私自身公共事業では道路を作り終わって国や県に引き渡すときに検査というものがあります。ちゃんと図面通りにできているか、チェックされるのです。その時に検査官という人が来られてどういうかといいますと、私たちは素人なので素人にでもわかるように説明しなさいと言われます。専門用語で分からない部分があればすぐにその専門用語の説明を求められます。

しかしイエス様は本当にみんなにわかるように語られたことが聖書に書かれています。マルコでも12章なのでもうすぐ十字架にかかる前の出来事です。

ブドウ園の主人

ここで登場人物を紹介します。ブドウ園の主人、農夫たち、ブドウ園の主人のしもべ

ブドウ園の主人の息子この4種類の人たちです。まずブドウ園の主人は父なる神様です。農夫たちというのはユダヤ人です。ブドウ園の主人のしもべとは旧約聖書に出てきている預言者のことです。ブドウ園の主人の息子はイエス様のことです。

ブドウ園の持ち主が農夫たちにブドウを作らせて自分は長い旅に出るという話ですが当時のガリラヤ地方ではこのような人日本でいう地主みたいな人がかなりいました。経済的にかなり裕福だったと思われます。旅行の目的は何かわからないですが。

ですからこのたとえを聞いた人たちは日本でいう地主のことなのかと理解しました。

2番目にユダヤ人といいました。ユダヤ人といいますと神の選民という自分達には神様からとって特別な存在という意識がありました。実際特別な契約を神様と結んでおりました。

そしてユダヤ人はこの唯一なる神様のおっしゃられることを守っているかどうか守っていなければ預言者を通して神様は指摘しました。

それがここでいうブドウ園の持ち主が収穫の自分の分を受け取ろうとしてしもべを遣わしたということです。

ところがその農夫たちはしもべを袋叩きにし何も持たせずに送り返しました。

そこで愛の深いブドウ園の持ち主は農夫たちが悔い改めて違うしもべに従ってくれるだろうと送り込みます。しかしマルコ4節で頭を殴りはずかしめた。

5節ではまた別のしもべを遣わしたところこれも殺してしまった。とあります。ユダヤ人は何人も預言者を殺したことになります。

ここでしもべと呼ばれている人代表的な旧約聖書で預言書を書かれている人例えばサムエル、イザヤ、エレミヤ、などそして聖書になっていない人も多数います。例えばダビデ王にバテシュバのことについてあなたは間違っていると言ったナタンなどがいました。

その預言者たちの仕事はといいますと今はイエス様が来られてイエス様の言葉がすべてですがイエス様がまだこの世に来られていないときだから神様から言葉を直接受け取ってそれを民に語るということです。

そして神様の言葉は民に対して厳しいことだらけでした。それを上から語らなければいけません。ヨナがニネベに神様から言われて当時のニネベの人というと罪深い今の日本でいうやくざみたいな人に悔い改めよと言わなければいけない仕事でした。いつ死んでもおかしくないようなことを神様の命令とはいえ死ぬのは嫌だと考えて神様から逃げ出しました。そういう命がけの仕事です。エレミヤに関して言うともと

もとイスラエルにいたのですが神様に忠実なエレミヤを群衆が恨んでエジプトに引き連れて行かれてエジプトで消息を絶ったと言われています。さっきも言ったナタンもそうです。ダビデ王は神様を信じる人だったからナタンの言葉を素直に聞き入れましたが王様に「君は罪を犯した」といわざるを得ないとはいえバプテスマのヨハネのように処刑されてもおかしくありません。だから預言者の仕事というのはいつも死と背中合わせで命がけで民の前で語っていた仕事です。

そのしもべ預言者をユダヤ人は迫害してひどい扱いをします。そして神様の代弁者としての預言者の言葉に耳を傾けず反逆しました。それどころか殺してたり辱めたりしていました。

一人息子

どれだけ自分のしもべを傷つけられてもこのブドウ園の持ち主は農夫を信じようとしました。そして出てきた言葉は6節「その人には、なおもう一人のものがいた。それは愛する息子であった。彼は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう。」といって最後にその息子を遣わした。」7節「すると、その農夫たちはこう話し合った。「あれは跡取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば財産はこちらのものだ」8節

「そして彼をつかまえて殺してしまい、ブドウ園の外に投げ捨てた。」

今まで神様はユダヤ人にブドウ園の本当の持ち主は自分だということを多くの預言者をとうして語ってきました。しかし選民であるユダヤ人は逆らい続けました。このことが聖書や現実をとおしてのユダヤ人の歴史です。

そこで最後に神は御子イエスキリストをこの世に送られました。けれどもこのたとえ話で語られているとおりイエス様は数日後にゴルゴダの丘で十字架にかかられ殺されます。

この箇所はマタイにもルカにも記されています。ルカ20:16「彼は戻ってきて、この農夫どもを打ち滅ぼし、ブドウ園をほかの人たちに与えてしまいます。これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」といった。

「そんなことがあってはなりません」とはどんなことかなぁと思って調べました。

民衆はブドウ園イコールイスラエルの国にきずいていたようでした。

事実紀元70年に国が滅ぼされました。そして神の民であったシンボルである神殿は壊されて消滅しました。ということはブドウ園をほかの人たちに与えてしまいます。というのはイスラエルがしょくみんちになるということを悟ったようでした。

ブドウ園の持ち主が農夫たちに自由に使わせていたように神様はすべての人に自由を与え、私たちの人生を私たちの手に任せておられます。

しかし私たちにまかされているものは、自分自身のものではありません。すべてのものは神様からのあずかり物です。例えば自分の生活、自分の才能、自分の時間、自分のお金、家族などがあります。

あの農夫のところへしもべを送って収穫の自分の分を受け取ろうとしたのに、その

しもべを袋叩きにて送り返したように私たちはすべてのものが神様からの贈り物だという感覚がなければすべて自分が使う権利を持っていると考えてしまいます。この農夫のように、その場の欲望や願望で動いていると全体が見えなくなります。もちろんのこと神様が働いていることは全くといってわかりません。当然のように神様から遣わされてきたイエス様の存在は認めません。そして人々は途中経過で判断します。ここではブドウ園の持ち主に雇われているのに社員であるしもべの言うことを聞かずに自分が思うようにしたいように動いている人のようです。しかも自分の判断で。しかしそんなクーデターみたいなことを起こさなくても普通に働いていれば給料はもらえます。そして殺人という罪は犯さなくて済みます。

その罪に対して償わなければいけません。そして実はブドウ園の主人は神様だからすべてを知っておられます。

途中で判断を見誤ることは人には多々あります。

聞いたことあるかもしれませんがこんな話があります。

東京のお茶の水駅のホームで朝のラッシュ時に事故がありました。飛び込み自殺らしい。すると会社に向かっている人は「全く人迷惑な。この忙しい時に。死ぬんなら暇な時間帯を選べ」といいました。あおりを食った人達もイライラさせられていました。しばらく待つ間に「どうも二人らしい。しかも男と女らしい。」という声が聞こえてきました。次に聞こえてくる声は「無理心中だ。不倫の清算か」馬鹿な奴らだ。という声が聞こえてきました。そのうちまた声が聞こえてきました。「女が貧血でホームの下に落ちた。そばに歩いていた男が飛び降りて、女を助けようとしたが、自分がはねられて即死した。女も死んだようだ」みんなは知らなかったとはいえ自らを恥じました。初めから知っていれば態度は正反対になります。

この箇所もそうですがブドウ園の持ち主の言うようにしもべに対しても間違ったことは言っていないのに自分の利益だけを追求してしもべを殺して息子を殺してしまいます。それがどれほど大きい罪かというのは農夫にはわからない現状です。

イエス様がこのたとえを語られたときそれがユダヤ人にその指導者たちに向けられたことを知って律法学者や祭司長たちはイエス様をとらえようとしました。

しかしほかの群衆は律法学者や祭司長の行動を止めようとしました。しかしその時は止まっても恐ろしい罪の流れは止まりませんでした。

そしてそれから少したってからこの時止めた一般の人でさえイエス様を「十字架につけよ」といってイエス様を殺す側に立つことをイエス様はこの時にはすでに知っておられます。

礎の石

マルコ12:10,11家を建てる者たちの見捨てた石それが礎の石となった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。この言葉は詩篇の118篇の22節の言葉です。

家を建てるときに考えることがあります。何階建てにするとかキッチンはどこにするとか、リビングの大きさはどうするとかなどがあります。しかし家自体が倒れないように作るのは家を建てるにおいて基礎の部分が大切になってきます。大きな建物であれば基本ボーリングで岩が出るまで調べてそこまで掘り起こします。コンクリートを打って基礎を作ります。普通の家ならある程度固い地盤が出てくるまでほりおこします。しかし当時はコンクリートなどありませんでした。だから今の基礎と違って石で基礎をつくっていました。基礎というのは目に見えない部分で家全体を支えている一番に大切なところといっても過言ではありません。

見捨てた石とあります。ユダヤ人の指導者たちや律法学者や祭司長たちは十字架につけようとしている人、自分たちの手で殺そうとしている人がどういう人かわかりませんでした。全然知らないとは言えません。なぜなら律法学者や祭司長たちはイエス様に対して意味は多少違いますが今でいう芸能人の追っかけみたいなことをしていました。だからイエス様のしていたことは病気の人をいやしたり、悪霊をその人から追い出したり、目の見えない人を見えるようにしたりいろいろな奇跡を律法学者や祭司長はその目で見てきました。しかし律法学者や祭司長は自分の目が曇るほどにイエス様に対して嫉妬の念が強かったようです。

彼らが十字架につけようとしているお方は、罪人の目には貧弱に見えるかもしれません、それにつまずく人はその石の上に倒れる者であり、粉々に砕かれますそして確実に裁かれます。

たとえユダヤ教の指導者たちや群衆が捨ててもイエス様は神の御子であって「礎の石」としてユダヤ人も含め全世界の人たちの新しい神の群れを支えるようになることです。

その結果礎の石の上に今の教会が建てられています。

今も昔も神はいらないと思う人間が後を絶ちません。人はやりたい放題にふるまいたいものですが、神様の秩序の上にしもべである預言者を遣わして私はここにいるよと神様はおっしゃって来られました。しかしこのしもべたちをことごとく殺してしまい挙句の果てに息子まで殺すという結果になってしまいました。

そのことが例になり捨てた石ということになります。捨てた石というのは殺されたイエス様のことです。殺したはずの石は殺されたはずの御子主イエスキリストです。

しかし私たちクリスチャンは主イエスキリストが死んだと思っている人はひとりもいません。現実として生きておられるのです。

その証拠に多くのユダヤ人前で十字架にかかり息を引き取られました。しかし3日後復活して多くの弟子たちの前にそのお姿を現しました。これはとりもなおさずイエス様が神様であるという歴史的な事実であり内容の証明です。

私たちはものごとを簡単に理解して行動しがちです。しかし物事の全体を把握せずに感情的に結論付けて間違った答えを導いてしまいます。そして罪を犯してしまう

ような行動をしてしまいます。ブドウ園の持ち主がしもべを遣わしたときに農夫たちがしたことはこのことが最後はどうなるかということをわからないくらい目の前が曇っていたと思われます。そして結果としてとんでもない罪を犯してしまい国を失うという結末になります。しかし常に神様を見上げていると思っている自分自身が間違った判断をしていても神様が結果として正解の方へ導いてくださいます。なぜなら神様は自分のしもべを何人も何人も罪人である私たちに対して見放されずにつかわしそれでもわからない罪深い私たちに唯一の息子であるイエス様を遣わした方です。その愛深き方に対して忠実に従っていきたい限りです。

先週の恵み

イエス様の例えの話は当時のイスラエルの人が聞くと誰でもがすぐにこういう状況

ということが理解できました。それだけ人々の生活に密着したことを簡単にわかりやすく語られました。ここでの登場人物はブドウ園の持ち主とは神様で農夫とはユダヤ人でこのユダヤ人でも主にユダヤ教の指導者でしもべとは旧約聖書のブドウ園の持ち主の息子とはイエス様のことです。そして忘れてはいけないのがブドウ園とはイスラエルの国ということです。ブドウ園の持ち主が自分のブドウ園を農夫に任して旅に出かけました。当時ではブドウ園や畑を人に貸して旅に出かけることは裕福な人には良くありました。日本でいう地主みたいなものです。そして持ち主が分け前をもらいにしもべをつかわしました。しかし何人もしもべをはずかしめて殺してしまいました。そして最後に持ち主の息子をつかわしました。しかしその息子まで殺してしまいました。そして農夫たちを滅ぼしブドウ園をほかの人に与えてしまいます。この意味は神様に対して罪をおかしたユダヤ人がイエス様という息子がどうでもよいような捨てられるような石のように扱われることですけどその石が礎の石になりその石の上にユダヤ人が打ち付けられてその基礎の上に全世界へ教会が広まっていくことを示唆しています。

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