2021年10月31日

説教題「宗教改革を覚えて」

聖書箇所 ローマ3:19~28

3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

おはようございます。

本日は急遽オンライン礼拝にさせていただき、皆様にご心配、ご迷惑をかけしました。

10/27(水)に父の訪問診療の時に私も介護者という事でインフルエンザのワクチンを打ちました。父も打つ予定でしたが、体調が良くないので今回はやめときましょう。という事になりました。

その夜くらいから少し体がしんどいなあと言う感じはありましたが・・・8000歩のナイトウォーキングも行いました。これが良くなかったか。。次の日に熱が出ました。

38度を超える熱が続きました。インフルエンザワクチンの副反応かもしれないし、他の原因かもしれません。

なんせ私は熱に弱いのでとにかく寝ることにしました。

それでも熱は下がらないし・・・

このまま礼拝はしんどいかなと考えました。私が誰かに感染させてもいけないし・・・

という事で検討の結果、オンライン礼拝にすることにしました。教会の皆様も慣れている事なので、申し訳ないですがそうさせていただきました。それを決めるのは早めの方がいいという事で金曜日に決めました。

その後、コロナの疑いも捨てきれないので主治医の先生の紹介で、馬場記念病院で抗原検査を受けました。

結果は陰性でしたのでほっとしていますが。大事をとって10/31は予定通りオンライン礼拝にさせてもらいました。

さて今日は、10月31日 聖書日課で言うと聖霊降臨後第23主日になります。もう一つ今日は宗教改革記念日でもあります。

例年なら聖霊降臨後第23主日礼拝の聖書日課の箇所マルコ12:28~34の箇所からの説教です。貧しいやもめの献金のところです。またいつか説教させていただきます。本日は割愛です。

今日は宗教改革記念日と日曜日がぴったりと会いましたので、少し宗教改革の事についてお話したいと考えました。

と言うのは、私達の堺育麦キリスト教会は、宗教改革の中心人物であります、マルティン・ルターの教えを継承している教会です。キリスト教会はいろいろありますが、プロテスタントのルーテル系の教会であります。

と言っても私を始め、皆さんは教会に来た時。イエス様を信じてクリスチャンになった時・・・・。自分はプロテスタントのルーテル系がいいからと言ってクリスチャンになった人はそうはいないと思います。大抵の人は、そんな事は良くわからないまま信仰を持ったのだと思います。

たまたまここに来たからという方が多いと思います。わたしなんかも最初に行ったところがプロテスタントの教会だったからプロテスタントになっているみたいなものです。ひょっとしたらカトリックに行っていたらカトリックになっていたかもしれません。私が選んだのではないんです。

ただ、言えることは神様に導かれて今ここにきているという事です。

そうであるならば、私達の信仰のベースはどんなものなのか?ルーツは何か?

私たちの立場はどのようなものか?という事を学んでおくことは大きな意味があります。宗教改革という事もわからなくて・・・考えたこともなくて

私はキリスト教のプロテスタントです。と言うのもなんか頼りない気がするのです。と言っても宗教改革って何か?と言うことをこの説教の時間ですべてお話することは無理ですから、ここだけは知っておいてくれたらいいなあと思う。宗教改革の基本みたいなことを簡単に説明できたらと考えました。

世界史は、私は苦手でしたが・・・クリスチャンになってから少し興味を持つようになりました。キリスト教を中心に世界史を追ってみますと。世界史がよくわかります。

まずイエス様の十字架、復活があり、12使徒を中心に使徒の働き・・・・その後の弟子たちの働きによって、エルサレムで起こった小さな群れは、世界に広がって行きました。当時はローマ帝国が世界の王でした。・・・キリスト教は何回もローマ帝国を脅かすものとして迫害を受けました。

日本でも江戸時代に迫害がありましたが、国を治めるものとして自分よりも偉いイエス・キリストがいる。私は人に従うよりも神に従うと言う信仰は困るのです。それでローマ帝国はキリスト教を迫害しました。

しかし、迫害の中でもキリストの十字架、復活、福音を宣べ伝える人々の働きは大きなものとなって行って、やがてローマ皇帝もキリスト教徒となり、4世紀の終わりには、何とキリスト教がローマ帝国の国教となるのです。

それは素晴らしい事ですが・・・・逆に信仰の堕落にもつながって行きます。

キリスト教が国教になったという事は、生まれてくる子供は皆、キリスト教徒です。

逆にキリスト教でない事は社会的に抹殺されます。

そうなるとキリスト教会の力が大きくなってきます。教会から破門されるという事は生きていくのも難しい事になるのです。

正しいキリスト教の方もいましたが・・・やがて信仰を大事にするよりも、教会が大事になり、教会の組織が大事になり・・・教皇は神様と同じくらいの権威を持ち、教職者、は民衆を支配するようになってきます。

教皇の言葉は聖書の権威と並ぶか、それ以上になります。

そこに使徒時代に会ったような純粋な信仰はゆがめられていきました。

何回も原点に帰ろうとローマ教会も改革はなされていきます。

純粋な信仰はあったのです。ですからすべての人が悪いのではありませんが、ローマカトリック教会は当時の帝国の皇帝をさえ任命するようになり、ローマ教皇は信仰と政治を支配するようにさえなります。

また教会は財政的にも大きな力を持つようになります。

ルターの宗教改革が行われる時は、ローマカトリック教会の腐敗と堕落は大きな

ものになっていました。

民衆は、聖書を持っていません。各教会には司祭がラテン語の聖書を持ち、それは民衆には理解できません。いわば司祭のいう事を信じるしかない。

十戒も、主の祈りも、使徒信条も教えられていなくて・・・・また司祭の中にはそれを教える能力のない人もいました。

聖書は、一般信徒は読めなかったのです。

どちらかと言うと宗教儀式が重んじられました。

また教会は力がある。人の罪さえ許す力がある。教会が発行する贖宥状(免罪符とも言われています)それを購入すれば教会に蓄えられた善行によって、買った人の罪が赦される効力がある。と言う教義まで立てて、民衆に免罪符を売って、死後天国に行けるようになる。買わなければ地獄であると脅すようなことになってきたのです。

1517年10月31日

当時、ローマカトリックの修道士であったルター。また聖書学者として大学教授でもあったルターは、自分自身が罪の赦し、救いという事に、その理解について苦しんでいました。

教会は修道士が神の人。一般民衆とは違うものとされ、修道士は修行をしていました。まあ旧約聖書の律法を守ることによって救いを得るというような信仰になっていました。

ルターは教会の教えに疑問をいだき、聖書研究を行います。

当時の聖書はラテン語で書かれていました。カトリック教会の正式の聖書です。しかし、聖書の原典は新約聖書はギリシャ語で書かれています。それがラテン語に翻訳される時少しニュアンスが変えられ・・・またカトリック教会の歴史の中で解釈が加えられ、

教皇の無謬性とか、

聖母マリヤの神性とか、

聖書に本来ないものが加えられ、いままた罪の赦しに免罪符を買えば罪が赦されると言う教えまで作り、そのお金でもって大聖堂を建てて、民衆に教会の権威をさらに民衆に誇るものとする・・・・

教会の教職者は贅沢三昧というような腐敗の状況が起こっていて・・・

すべてがそうではないですよ。立派な修道士もいたし、今でいう敬虔なクリスチャンもいました。しかし、信仰が政治的な力も持っていく中で、信仰はおかしなものになって行ったのです。

民衆は教会によって苦しめられてもいた。

それまでにも教会に改革を願っていろいろな働きはありましたが・・・多くの人は教会に逆らうものとして異端として処刑されたりしていました。

この日(1517年10月31日)ルターはローマカトリック教会の修道士として教会を良くしたいと言う思いの中で、特に今、売られている免罪符は間違いではないですか?聖書にある救いとは違うのではないですか?と

95箇条の提題 質問状、討論の議題みたいなものを、ヴィッテンベルグ城教会の扉に張りつけました。当時は教会の扉が掲示板みたいな役割もしていたそうです。

教会の免罪符販売についての意見をしたこの張り紙は、ルターの意に反して教会に反対する者の抗議のビラと言うように受け取られ、当時の印刷技術のおかげもあり、2週間後にはドイツ全土で読まれていたという事が起こります、。

これはただのビラではなくカトリック教会の階級制度、教会の力、権威に反対する危険な思想という事で、

ルターは1520年には教皇によって破門されることになります。(破門されるという事はまさに社会的生命の抹殺であります)

翌1921年、にはこの世的に国を治めているローマ帝国の皇帝からも追放されるのであります。教皇から破門(信仰的な立場)皇帝からの追放(この世的な権威から)

これによってルターは生きる権利さえなくします。誰が彼を殺しても罪にはならないのです。

この追放の時、皇帝はルターに自分の誤りを認めろ、そうしたら赦してやると迫ります。

しかし、ルターは聖書の証しにより私の誤りが認められない限り、私の良心が神の言葉によって捕らえられない限り、私は断乎としてこの立場に立つものです。それ以外の事はできません。神よ私を助けたまえ アーメン と叫んで追放されるのです。

ただ当時の政治状況として、ドイツはローマ帝国やローマカトリックともうまくいっていませんでした。そこでルターを助けようとする勢力がドイツに生まれるのです。

当時のドイツは一つの国ではなく、有力な王様が何人もいる、戦国時代に似ているし、一応大きなローマ帝国の傘下に入っているという事では江戸時代みたいな感じでした。

ローマ皇帝に従わず、追放されたルターはいつ殺されても仕方がないと言う旅の中でドイツの有力な貴族 ザクセン候に誘拐されたように見せかけてお城にかくまわれるのです。

その時間を利用してルターは聖書をギリシャ語からドイツ語に翻訳して、ドイツ語の聖書を出版します。これによってドイツ人は初めて母国語で自由に聖書を読めることになったのです。グーテンベルグの印刷術が大いに用いられ、この

聖書はドイツ国民に大いに広まりました。

宗教改革の大きな働きの一つです。それは民衆が自分で聖書を読めるという事です。それまでは教会の司祭しか持っていない聖書・・しかもラテン語で意味は分からない・・・その解釈はローマカトリックの思うままです。

しかし、ギリシャ語から翻訳された、まさに正しい聖書が自分たちの話し言葉で読める。人はみな司祭を通して神の言葉を聞くのではなく、個人的に一人一人が聖書を通して神様の声を聞き、また祈り、教えられるのです。

これは画期的です。

一人の祭司、一人のローマ教皇が偉いのではなく、誰もが一人一人神の声を、聖書を通して聞き、神様と交われるのです。また神様から罪の赦しを宣言されるのです。このことは後の万人祭司と言う考え方に進んでいきます。

そしてルター自身も、罪の赦し、神様の義と言う事に悩んでいました。カトリックのいろんな儀式によって救われるのか・・・・。

そうではない行いによっては、律法を守ることによっては罪の赦しはない。

私たちはみな、どうしようもない罪人です。自分の力で、行いで救いを得ることはできないのです。ましてや免罪符を買って救われることはない。

救いは、まさに神様の一方的な恵みによるのです。

それをただ信仰によって受け取る時、愛の神様は私達を滅ぼそうとしているのではなく

イエス・キリストを私たちのために送ってくださり。イエス・キリストを信じるものに恵みによって救いを与えられたのです。

この結論に至りました。

今日の聖書日課の箇所 ローマ書はルターの信仰の目覚めのために大いに用いられた箇所です。

3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

宗教改革の大きな原則は、私達は自由に聖書を読め、神の言葉を聞き、祈り、神様と交わることができる。そこに教会の司祭は絶対に必要なのではない。サポート的な働きである。

教会の儀式によって救いがあるのではない。

全ての権威の源は聖書にある。聖書が私たちを導いてくれる

そして救いは行いのよるのではなく、一方的な神様の恵みである。

私たちはそれを受け取る信仰だけでよい。

聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ・・・・と言われます。

ローマカトリックも救いは恵みと言っていましたが・・・長い歴史の中で、教会制度のひずみが出てきて・・・信仰以外にいろんな行いを求めていたのです。

ルターはこのことを間違いだと指摘し、教会を変えようとしました。

ですからルターは教会を批判するのではなく、変わって欲しいと願っていました。

事実、彼は宗教改革の嵐の中でも生涯、ローマカトリック教会の一修道士であると考えていました。

ですから教会を分裂させる考えは元々なかったのです。

ローマカトリックの中にも教会の腐敗、堕落に対して改革しようとする動き、働きはありました。

しかし、ルターの働きはその中でも大きなものになって行ったのです。

ローマ帝国の国会で、ルターは自分の考えている信仰告白を提出します。それはアウグスブルグ信仰告白と言います。私たちの教会の信じるものです。

そして当時の状況はルターを応援する貴族たちが現れてきました。

ローマ皇帝はルターに考えを変えるように迫りましたが、貴族たちと共にルターは、私達の考え、信仰はこうです。と宣言したのです。

これはローマ皇帝に抗議するものと呼ばれ、抗議するもの(プロテスタント)と呼ばれたのです。

ここにローマカトリックと、ルター達プロテスタントの群れは分裂しました。

やがて戦いとなって行きます。悲しい事です。

ルターはこの間、精力的に信仰の本を書きます。彼は最後まで聖書学者、説教家であったのです・

ローマカトリックも自分たちの中での改革も行い、イエズス会などの世界宣教の働きを進んでいきます。

宗教改革は、組織が古くなっていく中での弊害に気づかず・・・さらに悪化していく中でルターが命懸けの抗議をしました。

そして古い教会はルターの考えを排除しました。ここでプロテスタント教会ができていくのです。最初はドイツに起こった働き。

そこから世界中に広がって行きます。

その最初は、お城の教会の門にルターが書いた99箇条の提題

これはおかしくないですか?ちょっと考えてみてください。と言った張り紙から始まったのです。

そしてルターの言っていることは、原典に帰れ!!聖書に帰ろうというものです。

聖書の中にすべての解決がある。

人間の作った、大聖堂や、きらびやかな儀式の中に神様がおられるのではない。

聖書の中に帰ろう

使徒の働きに帰ろう。

キリストの十字架にすべての解決がある。そこに帰ろうという事であります。

それゆえにプロテスタントは礼拝の中で聖書の説教、聖餐式、賛美を重要視します。

カトリックは、説教はあまりなくて、ミサ(聖餐)が中心かと思います。

今のカトリック教会を批判する気持ちはありません。カトリック教会の皆さんの中にも素晴らしい信仰の方はおられます。キリストを仰いで生きている方もたくさんです。

ただ時代が、当時の時代がルターを用いて、宗教改革を行わざるを得なかったという事が言えます。

そして私たちの堺育麦キリスト教会は、ルターの流れを組む プロテスタントのルーテル系の教会です。

神様は人間がキリストの元に一致することを望まれていると思いますが・・・・生身の人間と言うのは厄介なものです・・・いろいろと自分の考え、やり方を優先さ

せ・・・プロテスタント教会であっても、いろんな考え方の違いから・・また細かく分かれていくのです。

それはずっと続いています。

ルター派の教会が古いという事で、別の群れがまた分かれていく・・・・・

そんな繰り返しが続いています。

たとえば幼児洗礼は正しいか?大人になって自分の意志で洗礼を受けることが必要であると考える再洗礼派(バプテスト教会・浸礼をする教会に多いです)

この世の終わりについての考え方の違いで分かれたり・・・

いろいろあります。

ただ私は細かい事は置いといても

私たちはすべて罪人である。その罪人の救いのためにキリストが十字架にかかって、私達の罪をゆるしてくれる道を作って下さった。それは私達の行いによるのではない、全くの恵みによるのです。そしてキリストを救い主として信じる私たちは永遠の命を得るのです。

そのためにキリストは十字架にかかり、葬られ、三日目によみがえられたのです。

これは私の救いのためですと信じるのです。

まあ、私はプロテスタントルーテル系のキリスト教会に導かれていることを心から感謝しているのです。

3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

ここに立つのです。

祈り

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