2021.10.10
聖書箇所 マルコ10:17~31
説教題 今の自分を見つめなおすこと
分解 17~20 律法を守る青年
21~22 イエス様の青年に対する指摘
23~25 裕福な人が神の国に入る難しさ
26~27 神様はどんなことでもできます
28~31 先のものが後となり後のものが先となることが多い
序論
今日はマルコの福音書から有名な箇所であるマタイにもルカにも記述のある「ラクダ
が針の穴を通る方がやさしい」というところです。この裕福な青年から学ぶことは自分
が(私のことです)生活も信仰もどういう風に生きているのか、ということで「今の自分をみつめなおすこと」と題しました。
6月に車で九州に一人旅に出かけました。朝いちばんに家を出て姫路までは高速でそこからは下道でした。夜に下関についてまだ走り続けて夕方に長崎の佐世保に着きました。
2日間風呂に入ってなかったので汗かきの私はそこで銭湯を探しました。今は便利でスマホから検索できますからその場所から近くも遠くもすぐに検索でき5,6件が出てきてその中で適当なところをスマホのナビに入れて運転すると30分もすると目的地についています。
私は銭湯に行きますと滅多に乗らない体重計に乗ります。この体型を見ると進んで体重計に乗ることが嫌いなのは簡単にわかると思いますが年に1回乗るか乗らないかの日がやってきました。
そして乗るか乗らないか10秒ほど悩んで体重計に乗りました。すると今まで54年間生きてきて一番重い体重になっていました。親指を怪我して40日間入院していた時は80キロ代の後半であまり何も考えずに体重計に乗っていましたが明らかに太っていることがわかっていたので体重計に乗ることが怖かったのです。結果は100を3キロも超えていました。昼間にあまりに大きい佐世保バーガーを食べたのを後悔しました。
何も考えずに好きなものを好きなだけ食べて自分は救われているから大丈夫などと考えていたことが正直情けなくなるようにこころの中の聖霊様はヨハネの5章の「良くなりたいか」とささやくような気がしました。
そして家に帰ってこれからこの体重をいかに減らそうか考えそして行動するようにしました。ランニングすれば膝や足首がこの体重に耐えられなくなりすぐにやめてしまう危険性があるのでウォーキングにしようとしました。長く続くようにと。夏本番の7
月4日から始めました。今現在まだ続いています。現在の体重は86キロで誰にも何も言われていないけど17キロ減りました。元に戻ったという方がいいのかもしれません。自分の悪いところを真摯に受け止めて考え行動すればおのずとよくなる経験をしました。さて聖書に入っていきたいと思います。
律法を守る青年
人はそれぞれの考えがありいろいろな問題が生きているうえで生じてきます。家庭のこと、仕事のこと、健康のこと、その他の問題と背中合わせに生きています。それはいつの時代も同じで一人の人には一つの歴史があります。ここではごくまじめな青年がイエス様のもとにやってきました。
この青年はみんなが考えるどうしたら金持ちになれるのか、出世できるのか、女の人に持てるのがこの世の男たちが考えそうなことと違い10:17「尊い先生。永遠の命を自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのでしょうか?」と尋ねました。
ルカの福音書には役人と書いてます。今でいう教会の役員みたいなものでユダヤ教の役員だったと思われます。若いころに教会の役員になったということは立派の人物だったと思われます。
宗教を知っている人が考えるのは永遠の命という課題があります。キリスト教も同じです。この永遠の命が私たちの終着駅です。ここに行くためにはどうしたらよいかという疑問であります。
ユダヤ教ではモーセの十戎があります。私たちも大多数は良心の基準はこの十戎が柱となっているのは間違いのないことです。これが善を行うことです。
しかしこの青年の悩みはこの善(モーセの十戎)による行いによって永遠の命が保証されるのかが一番の問題でした。
17節の若い役人が尊いと言ったことに対してイエス様は18節で尊いの意味を違って使っています。イエス様がおっしゃった「尊い方」は神様のことで何の罪もないどんなことでもできる方のことを方のことをおっしゃっています。もちろんイエス様も罪がないのですが。
しかしイエス様は19節で「戒めはあなたもよく知っているはずです。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺きとってはならない。父と母を敬え。」」
20節するとその人はイエスに言った。「先生。私はその様なことをみな小さい時から守っております。」イエス様が19節でおっしゃったことは戒めです。
戒めとは思うことです。例えばマタイ5:27~28「姦淫してはならない。」といわれたのをあなた方は聞いています。しかしあなた方に言います。誰でも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。このことを聞くと戒めとは思ってもいけないことで世の中の人にはできないことです。
しかし20節では若い役人は「守っております」といっています。守るということは思
うことと違い、行動です。戒めと行動は全然違います。行動は人である限り制御できますが戒めは制御できません。そのことを若い役人ははき違えていました。イエス様はすぐに見抜いて指摘をされました。17節と18節のやり取りで会話がかみ合っていないような気がしました。「尊いというのは戒めを制御できる方すなわち神様です。」
もう一つ突っ込んでいうなれば行動というのは人から見える者です。「私の行動はあの人よりましだとか比較の対象になっていたかもしれません。
21節「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。あなたには欠けたことが一つあります。」イエス様が言ったこのかけたことは戒めではなく行動のことです。
イエス様は「いつくしんで」といわれました。これはマルコだけが書いています。
いつくしんでは国語辞典からわが子に対して使う言葉でかわいがるとか愛し大切にするという言葉を含んでいます。
補足ですけど十戎とは、元来日本語の聖書では「何々してはいけない」という形であらわされていますが内容は積極的なもので「愛する」というところにあります。
十戎の前半は1~4までは神と人との関係で4~10までは人と人との関係を指しています。出エジプト記の20章にすべてが記されています。
後半の対人関係の戒めの中心は自分を愛するように隣人を愛するように愛するということです。このことを殺人をしてはいけない、姦淫をしてはいけないの戒めに適用をしますと自分を愛するように隣人を愛すると殺人や姦淫などできる者ではなくそうした意味でこれらの戒めの最終目的は隣人への愛ということが目的となります。
戒めと行動の違いを間違えた若い役人に対するイエス様の愛のまなざしにこたえることができなかったことがあります。
結果として22節すると彼は、その言葉に顔を曇らせ悲しみながら立ち去った。なぜならこの人は多くの財産を持っていたからである。だからイエス様はどのような人に対してもいつも同じ問題を出されるわけがなくその人その人に会った問題を出されます。それがこの青年には財産と施しでした。それが彼の問題でした。
それに続いてお金の持っている人のことを言及します。
裕福な人が神の国に入る難しさ
たまに聖書では17節と18節みたいに会話がかみ合っていないようなことが度々あります。しかしイエス様は間違いのない方であるというのを私は信じ切っています。そこでどういうことなのかと頭を使います。そして聖書の解釈をしていきます。
そして答えを導き出します。23節から始まることもそうです。
23節イエスは見まわして弟子たちに言われた。「裕福なものが神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。」24節弟子たちは、イエスの言葉に驚いた。ここでなんで弟子たちが驚くのだろうと私は思いました。金持ちが神の国に入ることが当たり前のような弟子たちの反応です。私たちは21世紀に生きています。ということは新約聖書があるわけです。新約聖書を読んでいる私たちはお金というものは神様に反するとま
ではいきませんが良い意味でつかわれていることがあまりなくむしろ人の心のありかがお金というものに支配されることが多いのは現実です。この12使徒たちが旧約聖書だけの時には神様の祝福というのは裕福の証明だったと言わざるを得ません。このことがユダヤ教の根底にあるものでした。わかりやすく言えばそのころのユダヤ人は神の祝福イコール目に見える家畜でありお金であり土地であります。この考えがそのころのユダヤ人の中では浸透していたと思われます。
事実アブラハムもイサクもヤコブもエサウもロトもモーセもダビデもソロモンも裕福でした。
24節の後半にイエス様は驚いている弟子たちにたたみかけるようにおっしゃいます。24節から25節にかけて「子たちよ。神の国に入ることはなんとむつかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっと優しい。」
その時の弟子たちの反応はますます驚いた。とあります。自分の常識が音を立てて崩れたようでした。
弟子たちの常識と違いイエス様はもちろんのこと富やお金が罪ですと言ったわけではなく貧しさこそが信仰的だと言われたわけでもありません。富やお金がキリスト教の信仰に妨げられることがしばしばあります。富やお金はそこに安心してとどまってしまうということです。つまり富やお金または名誉といったことは信仰より人の心を奪ってしまうということになります。
富やお金といったものは十戎の一番目のほかの神々になり2番目の偶像にないうる危険性があります。
そこでイエス様は富んでいるものが神の国に入ることの難しさを今でもあるかもしれませんがその地方のことわざにちなんで「ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい。」
とおっしゃいました。イエスさまが民衆や弟子たちに語る時はその対象となる人たちにわかるように簡単な言葉で生活に密着したことをたとえとして話されました。
だから弟子たちもすぐに反応することができました。
話を元に戻すと「ラクダが針の穴を通る方がもっとやさしい」ということわざの意味は全く不可能なことを示す意味だそうです。
私たちが生きている時代はイエス様を通してでなければ天の御国に行けない福音の時代です。しかし使徒たちが生きている時代は律法から福音へと移り変わるいうなれば川から海に河口のような時代でまだイスラエル民族は選民で異邦人は罪びとというくくりでくくられていました。いわば差別です。イエス様が来られてからはすべての人に福音が宣べ伝えられようとしています。神様が人々に対する恵みというのは目に見える者もあれば目に見えないものもあります。昔の常識がイエス様によって全てがかえられました。その中で富というものの位置付けも変わりました。イエス様がまだこの地上に来られていないときは祝福の象徴だった富もイエス様が来られた今の時代には聖書にこんな言葉があります。パウロが若い病弱な弟子テモテに送った手紙の中でⅠテ
モテ6:7~12を読む
イエス様は天国に入るには「幼子」のようにならなければならないと仰せられました。幼子のようになるにはしばしば邪魔になるのは富みではないでしょうか?言い換えればこれは少々強引かもしれませんが自我ではないでしょうか?罪の象徴である自我のような気がします。イエス様のところに来た若い役人も幼子のように裸でくればよかったかもしれません。
それは彼の力と才能というべきかもしれません。その結果の富ということになります。それは幼子が財産も持たずにおとうさんに飛びつく子供ならと思われます。
イエス様はそこまでわかってすべてを売ってということは裸になりなさいということです。
人は自分の生きてきた歴史があります。60歳の人には60年の歴史30歳の人には30年の歴史があります。そしてそのことは人にはわからないものですが自分自身はわかっています。プライドもあり生きてきた誇りもあります。私もこのようなプライドが随所に顔を出すことがあります。それは自己中心ということにつながります。この断ち難い部分があります。はっきり言って無理なんです。人には。
そこで弟子たちはどういったかといいますと26節「それでは、だれが救われることができるのだろうか」ということです。
しかしイエス様の答えは単純明快に27節「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神はそうではありません」どんなことでも神にはできるのです。」
つまり自我や富やプライドといった断つことが人ではできないことを断ち切ってキリストと結びつくことは人間の力ではなく神様がそうさせてくださる一方的な恵みによるものだということをイエス様はおっしゃています。
先のものが後となり先のものが後となることが多い
弟子たちも自分たちはこの金持ちの若者ほど財産を持っていませんが自分の財産を売り払って貧しい人に施しをすることはできないと思ったのは当たり前のことです。
そこでその金持ちの若者と比較したわけです。イエス様についてきている私たち(弟子のことです)の方が優秀だと。
マルコでは書かれていませんがマタイ19:27こんなことが書かれています。その時ペテロはイエスにこたえて言われた。「ご覧ください。私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるのでしょうか。」とあります。
「何がいただけるのでしょうか。」とペテロは報いを要求しています。
そこでイエス様の答えは29節~30節でイエスは言われた。「まことに、あなた方に告げます。私のためにまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てたものでその百倍を受けないものはありません。今のこの時代には家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け永遠の命を受けます」
この聖書日課の初めの部分にマルコ10:17金持ちの若者がこういう言葉でイエス様にちかずきました。「永遠の命を自分のものとして受けるには、私は何をしたらよいのでしょうか」とあります。ここで一番重要な言葉は29節のイエス様がおっしゃった「私のために」という言葉です。
この聖書の箇所で金持ちの若者や弟子たちを通して富の話と同時に自我の話をしました。というのは自分が何かをしたので報いはなんであるかというのは人はだれでも思うこと要求することです。自分が最終的に得をするような犠牲の払い方をします。英語でいうとギブアンドテイクの関係です。リスクとリターンの関係で頭の中でそろばんをはじいてしまいます。
しかし神様は違います。こんなに罪深い私たちに無条件で永遠の命を与えてくださいます。ただしイエス様が私たちの罪のために十字架にかかて下さった救い主であるということを信じればです。
信じると自分の心の中に聖霊様が宿り時には自我も出ます。しかし心は聖霊さまに従おうとする心が芽生えます。
ローマ書3:23~25すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みによりキリストイエスによる贖いのゆえに、値なしに義と認められるのです。神はキリストイエスをその血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それはご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されてきた罪を神の忍耐をもって見逃してこられたからです。
私たちは自分のために自分を評価されるため生活のため大きい報いを求めますが私たちの罪をすべて知っている神様が信じたときから義としてくださる。義としてくださるというのは罪に覆われた私たち人間に神様から見えないように服を着せてくださいます。だから神様は見えないよといってくださいます。信じる前に罪を犯したことも神様は私たちに忍耐をもって見逃してくださいます。
そんな慈悲深い神様のことを考えて行動するのが29節の「私のために」行動するということです。
自分や自分に属するこの世のものとキリストの御名との比較です。私たちが何にもっとも大きな価値をいだいているかというのは私たちが何のために犠牲を払うかによってわかります。その実行をさせてくださるのが神様です。
だからペテロの「何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」打算的に言っていることに「しかし先のものが後となり後のものが先となることが多いのです。」警告したことです。
キリストの御名のゆえになされるどのような犠牲も愛のわざもそれは単純にキリストのためでなければいけませんしかし心の中で自我が一番なのか主が一番なのかは時によって変化します、しかしクリスチャンとして神様第一として生活していきたいと思います。
最後に少し証をしたいと思います。序論のところで話したウォーキングで体重も血圧も減りました。ちょっとは健康的に名たような気がします。しかしウォーキングを通して最も恵まれたことがありました。それは1時間半から2時間の間聞く聖書を聞くようにしました。私の信仰の主軸はイエス様でこの方を通してでなければ永遠の命を受けることができないということを中心に考えています。だから新約聖書を中心に考えています。だから出発点はマタイの福音書でした。走っていないから聞くことに集中できます。そして2か月近くで2回の通読が終わりました。ある時何かの本を読んでいてカインとアベルの話が出てきました。どんな話か自分では思い出せないんです。
情けなくなりそのあとは旧約聖書の通読することにしました。
通読は何回かしたんですが何年前か思い出せないぐらい時間がたっていました。
創世記ではアブラハムの話やイサクの話ヤコブの話思い出しながら感動して聞いていました、ヨセフになると痛快でした。その中で兄のユダの行動はイスラエル民族の象徴になりました。出エジプト記になるとモーセが主役です。エジプトを出るときのファラオとの対決,
神様がモーセを鍛えるためにファラオの心をかたくなにしてナイルを血に変えたりぶよを発生させたり何度も何度も出エジプトを赦しませんでした
そしてエジプトを出てからも夜は日の柱昼は雲の柱食べ物はマナを神様が与えました。しかしモーセにすぐに文句を言う民ばかりでした。
民数記に入ると後半でモーセの兄アロンがなくなりました、これからイスラエル民族は強くなります。
新約聖書を聞いているときの気になることは忍耐という言葉でした。結構出てきます。
そしてモーセのことを通してでも忍耐ということを学ばされました。
1か月くらい前に先生の証に辛い人生経験なのに苦しく思わずに歩んでこれたということを聞いたときに大人のクリスチャンだなぁと思いました。半分ぐらいは苦しく思わずにしかし半分はまだ神様に文句を言うモーセの民のような気がしました。
まだまだ私は中学生や高校生ぐらいかなと思えて仕方がありません。
ローマ書の5章に患難が忍耐をうみ忍耐がねられた品性を生み練られた品性が希望を生みます。とあります。まだ忍耐というものを超えられないような気がしてなりませんが着実に成長させてくださる神様が私に首輪をつけてくださっているので患難はありますが練られた品性を身に着けることができるように歩みたいです。
先週の恵み
マルコの福音書から有名な箇所であるマタイにもルカにも記述のある「ラクダが針の穴を通る方がやさしい」というところです。この裕福の青年から学ぶことは自分が生活も信仰もどういう風に生きているか、ということで「今の自分を見つめなおす」と題しました。この青年はイエス様に向かって「尊い先生永遠の命を自分のものとして受けるためには、私はなにをしたらよいのでしょうか?」ふつう若い人ならどうしたら金持ち
になれるか女性に持てるか出世できるかとそういうことを質問します。この青年はイエス様に何をしたらよいのでしょうか?ということを質問しています。しかしイエス様子答えは「戒めは」と答えています。行動と戒めは違います。行動は動いてみなければわかりません。しかし戒めは思うだけでダメなのです。この戒めは難しいことで人にはできません。そしてこの人には多くの財産を持っていました。この財産を貧しい人に施して私についてきなさいとイエス様はおっしゃいました。しかしこの若者は悲しい顔をして去っていきました。そしてイエス様はこうおっしゃられました。「金持ちが神の国に入るより、らくだが、針の穴をとおるほうがもっとやさしい」この言葉はこの地方のことわざです。
ペテロは「何もかも捨ててあなたについてきました。」という言葉に29節~30節の言葉です。ここで一番重要な言葉は「わたしのために」です。人間は自分が何かをしたのでこれぐらいのむくいがあるというギブテイクの関係が成り立ちます。自分が最終的に得をするということです。しかし神様は私たちに無条件に恵みを施してくださいました。そして忍耐をもって今までの罪を赦してくださいます。その神様のために損得勘定をなくしてつかえましょう。