2021年10月3日 堺育麦キリスト教会の礼拝です。

今回は、地元のだんじり祭りがあり、感染予防を考えまして完全オンライン礼拝としました。

お時間許す方は2021年10月3日(日)10時30分から共に視聴して礼拝に参加していただければと願います。https://youtu.be/tqg3Y8OeALQ

YouTubeですので別の時間でも大丈夫です。

また説教の文字原稿は以下からです。

説教題「子どものように神を受け入れる」

聖書箇所 マルコ10:2~16

マル

10:2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。

10:3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」

10:4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」

10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。

10:6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。

10:7 それゆえ、人はその父と母を離れ、

10:8 ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。

10:9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

10:10 家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。

10:11 そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。

10:12 妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。」

10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者た

ちのものです。

10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

おはようございます。

本日は久しぶりのオンライン礼拝 リモート礼拝 会衆がいなくて、奏楽者と私だけの録画です。

ちょっと寂しいですが、このマイクの向こうには愛する兄弟姉妹がいらっしゃるとわかっていますから、それを思い浮かべながら説教をさせていただきます。

先週は、イエス様のガリラヤ伝道での本拠地 カペナウムで弟子たちに、キリストを信じる者(クリスチャン)の生き方を話されました。

考えればイエス様は、受難の予告をもう二回されています。ご自分はこれからエルサレム(ユダヤの首都)に行って、そこで

マル

9:31 それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。

ご自分は殺される事・・・そしてそれは神様の救いのご計画であること・・・・をご存知でした。それゆえに愛する弟子たちに、今はよく意味は分かっていなくてもやがて理解する時が来る。

今、ご自分の口から弟子たちに教えておかなければならない。弟子たちの訓練、教育、遺言・・・・そんな感じでキリスト者の生き方について熱く何回も何回も教えておられます。

先週は、私たちに塩気を保って互いに和合して暮らしなさい。と言われました。

マル

9:50 塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」

私たちの生きる理想、目標です。

イエス様は、いよいよ受難を見つめながら、エルサレムへの道を歩み始めます。ホームグラウンドのガリラヤを離れ・・・少しずつエルサレムへと向かっていくのです。その間も弟子訓練を続けていたでしょう。

そんな弟子訓練がされているところに、イエス様を良く思っていない、イエス様の揚げ足を取ろうとしている・・・何か質問をして、イエス様の答え方いかんで

はイエス様を訴えようと、陥れようと企んでいるパリサイ人がやってきます。

パリサイ人とは、この当時、律法を守ることによって救いを得るという事に力を注ぐ。戒めを守っていくことが義、正しいと考えている人たち。非常にまじめな・・・清く正しくをモットーに生きているような人々です。

彼らは、自分たちは律法を守っているから正しい!!この世の罪人と呼ばれている人(遊女や取税人、病気の者、貧しい者などは神様の祝福から外れているものと考えて・・・)を見下げて、自分たちこそ神様に選ばれた者たちである・・・と、して当時のユダヤの宗教的指導者たちでもありました。

イエス様は、そこにパリサイ人の偽善を見ていました。

パリサイ人の偽善とは、自分たちは神様の戒め、律法を正しく守っている・・・そして律法を守れていない人たちは滅びである。神様の祝福から外れている・・・と責めました。

私は神殿に10分の一献金を欠かしたことがありません。神様への奉仕・・・礼拝も欠かしたことがありません。と自らの信仰を誇っていたようなタイプです。

律法は、本来は神様の恵みであり、神様の戒めの中にある時、喜びや感謝があるでしょう。しかし、今やパリサイ人たちはその戒めを自分たちの正しさを誇るものとし、弱い人々を見下すような事になっていたのです。

イエス様はパリサイ人たちの偽善を攻撃していたので。パリサイ人からもイエス様は敵視されていた。

そしてこの後パリサイ人のイエス様を敵視する動きは、イエス様の十字架へと繋がっていくのです。

このような流れ、背景の中で、パリサイ人たちはイエス様に質問をします。

結婚、離婚という問題についてです。

10:2 すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。

パリサイ人たちはイエスを試そうとしてこの質問をしたのです。

ここで結婚と離婚という事についての問答があるわけですが、

この背景にはパリサイ人がイエス様から正しい結婚、離婚の事について聞いている、真摯(まじめ)な質問ではないわけです。

ここではイエス様の答え方いかんではイエス様の揚げ足を取る。陥れようとの魂胆があるのです。

イエス様が、夫が妻を離別することはできる。と答えるならば

あなたは神が引き合わせたものを引き離してはならないと言う教えに反する。あなたは間違ったことを教えているというでしょう。

離別することは間違っている・・・・それは絶対にしてはならないと答えるなら

ば・・・・・あなたは離婚した人々すべてを罪あるものとするのか?と問い詰める。 場合によれば、ヘロデ王の不倫についてあなたは間違っていると言って処刑されたバプテスマのヨハネのようになればいいという魂胆もあったかもしれません。

どう答えても、どちらに肩を持っても、イエスを律法違反で訴えてやろうというような下心で、パリサイ人はイエス様に質問したのです。

確かに結婚と離婚という問題は難しい問題です。理想は結婚したものは一生添い遂げるというものです。離婚はしてはいけません。

しかし、罪の中に生きている私たちは、それぞれの弱さを持っています。ですから結婚がうまくいかない事もあります。それは人間の罪であり、弱さの中で起こることです。

それならば難しければ離婚すればいいではないか。と言えばいいか。離婚を奨励するものではありません。

現代の牧師だって、離婚はだめですか?と聞かれれば答えに窮します。

イエス様は結婚について、原則としては

10:6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。

10:7 それゆえ、人はその父と母を離れ、

10:8 ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。

10:9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

こう言われました。これは創造の初めからの神様のみこころです。

今も結婚は大切なものですから、離婚はしてはならないのです。

しかし、現実問題の中で、人間の社会の中で・・罪人同士が生きている中で、どうしてもうまくいかない時はあります。DVがあるとか・・・不倫があるとか・・・いろんな事情があります。

その中でどうしても結婚生活を続けることができないという事になり・離婚と言う選択を選ぶ時があります。

それが神様の前に罪だとわかっていても そうなることがあります。

それは喜んでではなく、苦しんで・・当事者が一番苦しんで離婚をすることもあります。

私の若い時好きな歌 南こうせつの「妹」と言う歌があります

その4番の歌詞に

妹よ

あいつはとてもいいやつだから

どんなことがあっても 我慢しなさい

そしてどうしても どうしても

どうしてもだめだったら

帰っておいで妹よ と言う歌もあります。

牧師の私としては、本来はそのまま続けて、別れないでいることがいいとお勧めします。しかし、離婚となった場合。その罪は一生ゆるされない罪ではないと考えます。

私たちは、みな、神様のみこころがわかっていても、十戒を始めとして、それを完全に守れるものは一人もいないのです。

その罪のゆえに、私達の弱さのゆえに、イエス・キリストはこの世に来られ、十字架にかかり私たちの罪の身代わりとして死んでくださり・・・私たちに、キリストを救い主として信じる私たちに罪の赦しを与えてくださったのです。

ですからそれが離婚という事も許されていると信じるのです。

キリストの前に出る時私たちはみな赦されているのです。

ヘブル

4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

ですから私は、離婚は、積極的に勧めるわけではないし、当事者も望んでいたわけではない・・・・しかし、離婚することになったとしても・・・・・神様は受け入れてくださるのです。どんなものでも受け入れてくださるのです。それが福音です。

ここでパリサイ人がイエス様に質問したのは、その背景にはこんなことがあります。

旧約聖書の時代に結婚は男性優位になっていました。今でもそうかもしれません。

男性が気に入らなければ離別するという事が許されていました。そこには何かの理由をつけるわけですが、その理由は姦淫だけでなく、男性が、料理の途中に鍋を焦がしたとか言う事でさえ、大きな理由だとして、離別することがあったのです。

男の人は奥さんを何人も持っていることも許されていた。

ところが女性は、夫を気に入らないからと言って離別をすることはできませんでした。それは社会的には抹殺されるような事でした。

男性は離婚してもまた再婚できるけれど・・・・離婚した女性はもう結婚できません。

そんな不平等でありました。

パリサイ人はそれでも離別はゆるされていますよね。とイエス様に問うたのです。

律法はなんと言っているか・・・

10:3 イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」

10:4 彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」

モーセとは律法という事です。申命記24:1

24:1 人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり、離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、

このみ言葉を根拠に、離婚状さえ書けば離婚は許されるというのです。

しかし、これは、元々は、女性が離婚された場合に、何もかもなくて次から生きていくことも難しい人のために夫はちゃんと離婚状を書いて女性が守られるようにとの配慮からのものです。

なのに、夫が何か気に入らなくなって妻を離縁するという事は本末転倒であります。

離婚が男性にとって簡単に許されているという現状に対してイエス様は応えられたんです。

結婚は神様の定められたものだから大切にしなければならないとイエス様は言われるのです。

また神様は人の心の弱さ、罪のゆえに、神様のみこころを守れないことが起きることもある。

その時の救済の手段として夫に離婚状を書くことを求めたのです。

離婚状を書くという事は夫の責任も明確にするという事であります。

これは、人間の現実として起こることのためにモーセは書いた。

結婚を全うできればそれが良いに越したことはない。

しかし、人間はいろんな問題が起こる。離婚するようなことがあっても神様の守りはあると言う配慮であります。

10:5 イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。

そしてイエス様は結婚に対する神様の原則を述べられたのです。

10:6 しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。

10:7 それゆえ、人はその父と母を離れ、

10:8 ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。

10:9 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」

カトリックはこの言葉によって離婚は禁止ですが

プロテスタントは、離婚を奨励するわけではないですが

離婚をするに至った、事情、苦しみをご存知のイエス様は、それさえも赦して、今神の子として受け入れてくださっているのです。

特にイエス様は結婚と離婚という事の中に女性の権利を保護するという事も認められたのです。

そんな話をしている時に、イエス様のところに子供たちが連れられてきました。

10:13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

いつも忙しいイエス様のところに、イエス様に触っていただこうとして人々が子供たちを連れてきた。みもとにとはイエス様の元にです。これは想像するに親がいて、まだ自分でイエス様の所に行くこともできない幼子。大人が抱きかかえなければならないような子供だと思います。

昔、田舎に相撲の巡業というのがあってお相撲さんがやってきたら、お相撲さんに抱いてもらったら、その子は健康で幸せになるということでたくさん連れてきたそうです。

さわっていただくと言うのは、神様の祝福を受けるという事なのです。

最近は、大谷翔平選手が球場に入ってくる時とか、親に連れられた子供たちがたくさん来ていて、ちょっとでも大谷選手に触ってもらおうとしている様子を見ます。

時々運が良いと大谷選手が触ってくれるんですね・・・

でも大概はスタッフの人が止めています。

忙しい大谷選手の邪魔をしてはいけないという事です。

イエス様もそうです。人々に大切な・・・ありがたい話をしている時・・・何の関係もない子供を連れてきて触ってもらおうとするなんて・・・・

弟子たちは、「あっちへ行ってください。邪魔です!。なんで子供を連れてくる

んですか!」と彼らを叱ったとあります。

この気持ちはわかります。

その時イエス様は、子供たちを見て言われるんです。

10:14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

子どもたちを止めてはいけません。私のところに来させなさい・・

それは本当に忙しいイエス様であったとしても・・・イエス様はこのような者たちのために来られたからです。

これって誰にもできる事ではありません。子供たちに関わることはわずらわしいとは思われなかった。いや逆に、子供たちのために私は来た!とまで子供たちを認めておられるのです。

神の国は、天国に行けるものは・・・・救いにあずかるものは・・・・

子どものような者たちの者なのです。と言われます。

なぜか?

10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

子どものように神の国を受け入れる者・・

いろんな解釈があります。

ここで子供は純粋無垢で、罪がないからという事ではありません。世に言う「子供には罪がないから・・・」というような言葉は違います。

子どももまた罪の中にいるのです。うそもつくし、反抗もするのです。

そしたら子供のようにとは、子供のように単純にとか謙虚でとか・・・子供は神様への絶対的信頼があるから・・・子供は自分勝手ではないから、とかいう考えもありますが。大人に比べればそうであるかもしれませんが

子どもだって単純ではない

絶対的信頼で神を信じるというものでもない

では子供のようにとはどう考えればいいか

子どもはこの場合、弱い存在であります。自分の力でイエス様の元に来ることさえできません。

子どもは貧しく、無きにひとしいものであり。

自分には何かをやったと言う功績もなく誇りとなるものもないという事であります。

すなわち、神の国に入るのに・・・救いを得るのは、立派な教育や、功績、力、富が求められているのではない。

子どものように、自分の弱さ、価値のなさ、頼りなさを認め、神に信頼する者のみが神の国にはいれるのです。

私たちはどうでしょうか?

自分の無力や弱さに泣くことがあります。

自分に全く失望することがあります。

でもそれでいいのです。自分に自信を持ち、自分で自分の力で生きていこうとする頑固な大人でなくてよいのです。

子どものようなもの・・・そのような私たちをイエス様は受け入れてくださるのです。

そして私たちを抱き上げ、祝福してくださるのです。

私たちに大切な事は、子供のように神に信頼する心なのです。

10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

10:16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

祈り

inserted by FC2 system